(第136回)


説教日:2008年2月3日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてお話しします。
 この祈りの中心主題である父なる神さまのみこころには二つの中心があります。一つは、私たち主の契約の民にかかわるみこころであり、もう一つは、神さまがお造りになったすべてのものにかかわるみこころです。
 これまで、私たち主の契約の民にかかわるみこころについてお話しした後に、被造物全体にかかわるみこころについてお話ししてきました。今日も、その被造物全体にかかわるみこころについてのお話を続けます。


 これまでお話ししてきたことの復習ですが、創世記1章1節〜2章3節には神さまの天地創造の御業ののことが記されています。この記事の見出しに当たる1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。この「天と地」はヘブル語の慣用句(イディオム)で、この世界とその中に存在するすべてのものを表しています。今日の言葉で言いますと「宇宙」に当たります。

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉は、壮大な大宇宙とそこに存在するすべてのものには「初め」があり、それは神さまの創造の御業によっているということを宣言しています。すべては、神さまが創造の御業によって造り出されたものであるということです。
 1節でこのことを宣言してから、2節で、「さて、地は」と語り出し、創造の御業の記事の視点と関心を「」に移しています。その2節には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と記されています。
 これは神さまが最初に造り出された「」の状態を示しています。「」は「大いなる水」に覆われており、さらにその上に「やみ」がありました。すでにお話ししましたように、イザヤ書45章18節に記されている御言葉とのかかわりから、この御言葉は、この時の「」は、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。
 しかし、2節ではこれに続いて、

 神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。そのようなとても「人の住みか」とは言えない状態にあった「」に、神さまが御霊によってご臨在しておられたことが示されています。このことは、「」は「人の住みか」である前に神さまがご臨在される場所であることを意味しています。
 2節以下に記されていることは、神さまがこのような状態にあった「」をご自身のご臨在の場所としてふさわしく整えてくださり、そこを、後に神のかたちに造られるようになる「人の住みか」としてくださったということを記しています。このことは、「」は神のかたちに造られた人が、そこにご臨在してくださる神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために備えられたものである、ということを意味しています。神さまは「」をこのような意味をもったものとしてお造りになったのであって、決して、無性格なものとしてお造りになったのではありません。
 それで、神さまはこの「」をご自身の恵みとまことに満ちたご臨在を映し出すものとしてお造りになりました。
 詩篇65篇9節〜13節には、

 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、
 これを大いに豊かにされます。
 神の川は水で満ちています。
 あなたは、こうして地の下ごしらえをし、
 彼らの穀物を作ってくださいます。
 地のあぜみぞを水で満たし、
 そのうねをならし、
 夕立で地を柔らかにし、
 その生長を祝福されます。
 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、
 あなたの通られた跡には
 あぶらがしたたっています。
 荒野の牧場はしたたり、
 もろもろの丘も喜びをまとっています。
 牧草地は羊の群れを着、
 もろもろの谷は穀物をおおいとしています。
 人々は喜び叫んでいます。
 まことに、歌を歌っています。

と記されています。
 これは新改訳第2版からの引用ですが、第3版では最後の、

 人々は喜び叫んでいます。
 まことに、歌を歌っています。

という部分が、

 まことに喜び叫び、歌っています。

となっています。第2版では2行で表されていますが、第3版では1行で表されています。この第3版のほうが原文に近い訳です。ヘブル語の原文には第2版にある「人々」はありません。第2版は、喜び叫び、歌うのは「荒野の牧場」、「」、「牧草地」、「」などの非人格的な存在ではなく、そこに住んでいる人々であると理解したわけです。しかし、人格的でない存在も、人格的な仕方においてではありませんが、神さまを讃美しています。たとえば、詩篇96篇10節〜12節には、

 国々の中で言え。
 「主は王である。
 まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。
 主は公正をもって国々の民をさばく。」
 天は喜び、地は、こおどりし、
 海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
 野とその中にあるものはみな、喜び勇め。
 そのとき、森の木々もみな、
 主の御前で、喜び歌おう。

と記されています。造り主にして歴史を支配しておられる神さまへの礼拝と讃美は、「」と「」、すなわち、神さまがお造りになったすべてのものにおよんでいます。
 いずれにしましても、神さまがお造りになったこの世界全体(壮大な宇宙)が造り主である神さまへの讃美に満ちています。そして、その響きは全地に満ちています。詩篇19篇1節〜4節には、

 天は神の栄光を語り告げ、
 大空は御手のわざを告げ知らせる。
 昼は昼へ、話を伝え、
 夜は夜へ、知識を示す。
 話もなく、ことばもなく、
 その声も聞かれない。
 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
 そのことばは、地の果てまで届いた。

と記されています。これは、先々週お話ししたことですが、「」からの視点で「」を見ています。ですから、

 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
 そのことばは、地の果てまで届いた。

と言われている「その呼び声」と「そのことば」を聞き取るのは神のかたちに造られた人です。同じように、神のかたちに造られた人は全被造物が造り主であり歴史の主であられる神さまを礼拝し讃美していることを汲み取ることができる者として造られています。
 このように、神さまはこの「」をご自身がご臨在される所としてお造りになり、ご自身の恵みとまことに満ちたご臨在を映し出す世界としてくださいました。そして、神のかたちに造られた人を、そこに住まわせてくださいました。これによって神のかたちに造られた人が、この「」に神さまがご臨在してくださっておられることを感じ取ることができるようにしてくださったのです。そして、そこにご臨在してくださる神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることができるようにしてくださったのです。
 聖書の中には、「」を受け継ぐという思想が示されています。それは、いわゆる「約束の地」ということに示されています。
 古い契約の下では、それは地上的なひな型としてのカナンの地のことです。しかし、神である主は、古い契約の下のひな型をお用いになって、カナンの地そのものが主の民が受け継ぐべきものの中心ではないということを示してくださっています。
 たとえば、歴史的な事例としては、出エジプト記33章15節に、

それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」

と記されています。
 これはモーセのとりなしの祈りの一部です。このことの背景を見ておきますと、契約の神である主はエジプトの奴隷となって苦しんでいるイスラエルの民を解放してくださるために、モーセを遣わしてくださいました。そして、モーセをとおしてエジプトの地とその民をおさばきになり、イスラエルの民を奴隷の身分から解放してくださいました。主は、エジプトを出たイスラエルの民をご自身がご臨在されるシナイ山の麓まで導いてくださり、そこでイスラエルの民と契約を結んでくださいました。
 この契約の祝福の中心は、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださること、そして、イスラエルの民をご自身との交わりのうちに生きるものとしてくださることにありました。主はモーセに、ご自身がご臨在されるシナイ山に登るようにお命じになり、そこで、十戒を石の板に記してモーセに与えてくださり、ご自身がイスラエルの民の間にご臨在されるための聖所をどのように造るかをお示しになりました。
 そのようにして、モーセは40日40夜シナイ山に留まりました。32章に記されていますように、イスラエルの民はモーセの帰りが遅いと感じて、モーセの兄アロンに自分たちをエジプトの地から導き上った神を作るように求めました。アロンはそれに応えて「金の子牛」を作りました。イスラエルの民はそれを契約の神である主、ヤハウェと呼んで、祭りを開催して拝みました。こともあろうに、それは、主、ヤハウェがご臨在されるシナイ山の麓においてのことでした。これは十戒の第2戒の、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

という戒めに背くことでした。そのために、神である主はイスラエルの民を滅ぼし、モーセから新しい民を起こそうと言われました。けれども、モーセのとりなしによって、そのさばきの執行はとどめられました。
 その後、33章1節〜3節に記されていますように、主はモーセに、

あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、「これをあなたの子孫に与える。」と言った地にここから上って行け。わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。

と言われました。
 神である主はモーセにイスラエルの民を導いて「約束の地」に上っていくようにと言われました。しかし、ご自身はイスラエルの民とともに上っては行かれないと言われました。それは、イスラエルの民が「うなじのこわい民」、かたくなな民であり、不信仰のために主に背き続けるようになるので、主がその罪をさばいて滅ぼすようになることがないようにするためであるというのです。
 このことを受けて、モーセはイスラエルの民のためにとりなしの祈りをいたします。その中に、先ほど引用しました、33章15節の、

もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。

という祈りがあります。そこがいくら「約束の地」であり「乳と蜜の流れる地」であっても、主がともに上って行ってくださらないのであれば、そこに上らせないでいただきたいと願っています。それよりは、荒野に囲まれた山であっても、主がご臨在されるシナイ山の麓で宿営していたほうがいいというのです。ここには「乳と蜜の流れる地」の物質的な豊かさと、主の栄光のご臨在の御前にあるということの霊的な豊かさがかかわっています。物質的な豊かさと霊的な豊かさは必ずしも矛盾するものではありませんが、この場合は、この二つが相容れない状況にあります。そして、モーセは「乳と蜜の流れる地」の豊かさではなく、主の栄光のご臨在の御前にあることの豊かさの方を選んでいるのです。これが契約の神である主、ヤハウェを親しく知っていたモーセの思いであり、願いでありました。
 このことに示されていますように、「約束の地」とは、そこで契約の神である主、ヤハウェのご臨在を中心にして住まい、主を礼拝することを中心とした、愛にあるいのちの交わりのうちに生きるための「」であるのです。神さまはこのことを、古い契約の下での地上的なひな型としてのカナンの地やそこに設けられた幕屋や神殿をとおして示してくださいました。
 さらに、このことを凝縮する形で示している御言葉がいくつかあります。それは、主の契約の民が相続財産として受け継ぐべき「土地」は主ご自身であるという教えです。
 詩篇16篇5節には、

 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。

と記されています。
 また、73篇25節、26節には、

 天では、あなたのほかに、
 だれを持つことができましょう。
 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
 この身とこの心とは尽き果てましょう。
 しかし神はとこしえに私の心の岩、
 私の分の土地です。

と記されています。ここにも「」と「」(新改訳「地上では」は直訳「地では」)の組み合わせがあります。この世界のどこにおいても、爾分が願い求めているのは神さまご自身であるというのです。そして、その神さまこそが自分の「分の土地」であると言われています。
 さらに、119篇57節には、

 主は私の受ける分です。

と記されています。この「受ける分」と訳されている言葉(ヘーレク)は、この前に引用した詩篇の御言葉で「ゆずりの地所」とか「分の土地」と訳された言葉です。
 そして、142篇5節には、

 主よ。私はあなたに叫んで、言いました。
 「あなたは私の避け所、
 生ける者の地で、私の分の土地です。」

と記されています。
 イエス・キリストも「」を受け継ぐことについて教えておられます。それは、一般に「山上の説教」として知られている教えにあります。マタイの福音書5章5節には、

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この場合の「」が何を意味しているかについて意見が分かれています。結論的に言いますと、この「山上の説教」の初めにある教えには終末論的な視点があることが認められています。どういうことかと言いますと、終りの日に再臨される栄光のキリストによって、この世界のすべてが新しくされ、完成に至ることを見据えているということです。
 イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにしたがって、私たち主の契約の民の罪を負って十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、そのようにして父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。それは、私たちをご自身の復活のいのちにあずからせてくださって、新しく生かしてくださるためでした。それで、父なる神さまは、御霊によって、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストの死とよみがえりに基づいて、私たちの罪を贖ってくださり、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたものとしてくださいました。これによって、私たちは父なる神さまと御子イエス・キリストのご臨在の御前に立って、神さまを礼拝することを中心とした、愛にあるいのちの交わりに生きることができるようになったのです。
 このことは、すでに、私たちの現実になっています。私たちが今ここでささげている礼拝は、イエス・キリストがご自身の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっているものとしての礼拝です。私たちのための罪の贖いを成し遂げてくださり、天にあるまことの聖所に入り、そこで私たちの大祭司として働いておられる栄光のキリストが主催してくださり、つかさどっていてくださる礼拝です。
 終りの日には栄光のキリストが再び来られて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて「新しい天と新しい地」を再創造されます。それは、父なる神さまと栄光のキリストがご臨在される所として聖別された世界です。そこにおいて、主の民の礼拝は完成します。
 イエス・キリストが、

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

と言われたのは、この「新しい天と新しい地」を相続するという意味であると考えられます。
 この、

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

というイエス・キリストの教えに示されている「柔和な者」がどのような者であるかを理解するためにしばしば取り上げられるのは、先ほどお話ししました、「約束の地」を受け継ぐことの本質を理解していた、モーセのことです。
 民数記12章3節には、

さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

と記されています。これはモーセの兄アロンとモーセとアロンの姉のミリヤムが、モーセがクシュ人の女性と結婚していたということで、モーセを非難したことに関連して記されています。
 ここで「謙遜」と訳されている言葉(アーナーウ)は、単なる「謙遜な」や「柔和な」や「弱い」という性格だけでなく、特に不当な苦しみの中で、神さまに信頼して任せる姿勢を表しています。そして、そのゆえに、神さまのおっしゃること、神さまの御言葉を素直に受け入れる姿勢を表しています。この場合は、ミリヤムとアロンの非難は言われないものであったのですが、モーセは言い返すことなく、主にお任せしたということを表していると考えられます。
 ヘブル語聖書のギリシャ語訳である七十人訳は、ここで「謙遜」と訳されている言葉(アーナーウ)を、イエス・キリストの教えの「柔和な」という言葉(プラウス)を当てて訳しています。実際、イエス・キリストの教えにおける、「柔和な」ということは、このような特性を意味しています。
 この世では、軍事的、経済的に力のある者や権力者たちが、その力や権力にまかせて自らの領土や「」を拡大していきます。しかし、それは創造の御業において「」をご自身のご臨在の場としてお造りになり、そこに神のかたちに造られた人を住まわせてくださった神さまのみこころから外れたことです。
 戦争によって領土の拡大をはかることは、決して昔の話ではなく、現在までも続いています。そのような国家レベルのことだけでなく、個人的なレベルにおいても、力や権力にまかせて自らが所有する「」を拡大することが起こっています。それらは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって生じたものです。
 もちろん、それらは国家が定めた法に基づいた正当なものであると言われることでしょう。確かに、法に基づいて物事がなされることには意味があります。そのような法による規制がなければ、罪の力に縛られてしまっている人間がその力や権力にまかせて自らの領土や「」を拡大して行くことが際限のないものとなってしまいます。ですから、法による規制にはそれとしての意味があります。しかし、そのようなことのさらに奥に、神さまがお造りになった「」には霊的な意味、すなわち、造り主である神さまのみこころに基づく意味があります。そして、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人は、それを見失ってしまっています。
 本来、「人の住みか」としての「」は、まったく、神さまからの一方的な恵みによって委ねられたものです。そして、それは神さまがそこにご臨在してくださって、ご自身の民をその御前に立たせてくださり、礼拝を中心としたご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださるためのことです。

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

というイエス・キリストの教えは、終りの日において再臨される栄光のキリストが再創造のお働きによってもたらしてくださる「新しい天と新しい地」は、まさに、そのような意味をもっているということを踏まえています。「新しい天と新しい地」は、自らの力を頼みとすることなく、ひたすら神さまの一方的な恵みに信頼し、御言葉の約束を素直に受け入れている「柔和な者」たちが、神さまのみこころにしたがって、神さまを礼拝するために受け継ぐものであるということを示しています。

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という主の祈りの第3の祈りにおける「」にはこのような意味があります。私たちが、この会堂で、また、それぞれの生活の場において、そこにご臨在してくださる神さまの御前に立って、神さまを礼拝することは、神さまが「」をご自身のご臨在される所としてお造りになり、そこに神のかたちに造られた人を住まわせてくださっていることの意味を表し、あかしすることでもあります。

 


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