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説教日:2008年1月27日 |
創世記1章1節〜2章3節に記されている神さまの天地創造の御業の記事において、1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。これは天地創造の御業の記事の見出しに当たるもので、この世界とその中に存在するすべてのものには「初め」があり、それは神さまの創造の御業によっているということを宣言しています。壮大な大宇宙とそこに存在するすべてのものは、神さまが創造の御業によって造り出されたものであるということです。 1節でこのことを宣言してから、2節では「さて、地は」と語り出し、創造の御業の記事の視点と関心を「地」に移しています。その2節には、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されています。これは神さまが最初に造り出された「地」の状態を示しています。「地」は「大いなる水」に覆われており、さらにその上には「やみ」がありました。 すでにお話ししたことですので、詳しい議論は省きますが、イザヤ書45章18節に記されている、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てられた方、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた方、 という御言葉とのかかわりから、 地は形がなく、何もなかった。 という御言葉は、この時の「地」は、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。 しかし、 神の霊は水の上を動いていた。 と記されていますように、そのような状態にあった「地」に、神さまが御霊によってご臨在しておられたことが示されています。このことは、「地」は「人の住みか」である前に神さまがご臨在される場所であることを意味しています。 2節以下に記されていることは、神さまがこのような状態にあった「地」をご自身のご臨在の場所としてふさわしく整えてくださり、そこを「人の住みか」としてくださったということを記しています。 神さまが「地」をご自身のご臨在の場所としてふさわしく整えてくださるということは、神さまの恵みとまことに満ちた栄光がこの世界をとおして現され、神さまのご臨在の豊かさが造られたものを満たしてくださっている世界に整えてくださるということです。この「地」には実に多様なものが存在し、豊かな実りがあり、さまざまないのちあるものが生息しています。そのすべてのことをとおして造り主である神さまのいつくしみに満ちた栄光があかしされています。 神さまの栄光のご臨在の豊かさをうかがわせるのは2章10節〜14節に記されていることです。そこには、 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。 と記されています。 ここには、神さまのご臨在の場所として聖別されていたエデンの園から流れ出た川が全地を潤している様子が記されています。神さまのご臨在の御許から溢れ出た水が全地を潤しているということです。また、その流域に産出したと言われている「金」を初めとする宝石は、神さまのご臨在を象徴的に表示するものであると考えられます。古い契約の下での地上的なひな型であった幕屋や神殿において、主のご臨在のある至聖所に置かれた契約の箱とその上蓋である「贖いのふた」は「金」で覆われていました。また、「贖いのふた」の両端に「贖いのふた」と一体になるように置かれたケルビムも「金」で造られていました。神さまはこのケルビムの間にご臨在されました。このように、地上的なひな型としての聖所においてのことではありますが、「金」は神さまのご臨在とかかわるものとされています。その「金」がエデンの園から流れ出た川の流域にあったとすれば、その源にはさらに聖なるものが豊かにあったことを感じさせます。 先ほどお話ししましたように、神さまは「地」をご自身がご臨在される場所としてお造りになりました。そうしますと、エデンの園が神さまのご臨在の場所として聖別されているということはどういうことかということになります。それについては、エデンの園は神さまのご臨在の中心であったと考えられます。神さまがある所にご臨在されるのは、そこで神さまが神のかたちに造られた人と出会ってくださり、人をご自身との交わりにあずからせてくださるためです。いわば、神さまは神のかたちに造られた人に合わせる形で、ご臨在してくださいます。無限の存在であられる神さまはどこにでもご臨在することがおできになりますが、人は一定の場所に住んでいます。それで、神さまはエデンという一定の場所にご自身がご臨在される園を設け、そこに人を住まわせてくださったのです。 ですから、広い意味では、この「地」全体が、神さまのご臨在の場所として聖別されていますが、エデンの園はそこで神さまが、特別な意味で、神のかたちに造られた人に出会ってくださる場所として聖別されていたと考えられます。幕屋や神殿にたとえて言えば、この「地」全体が「聖所」に当たり、エデンの園は「至聖所」に当たります。もちろん、実際の、幕屋や神殿は造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後の人間の現実を踏まえていますから、完全なたとえにはなりません。 さらに言いますと、イザヤ書66章1節、2節には、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。 と記されています。この、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 という御言葉は、神さまがお造りになった「天と地」すなわちこの世界(大宇宙)全体が、神さまのご臨在される「神殿」としての意味をもっていることを示しています。その意味で、この世界(大宇宙)全体が「神殿」であるとしますと、神のかたちに造られた人が住んでいる「地」は、その「聖所」に当たり、エデンの園は「至聖所」に当たるものであったのです。 このエデンの園も、基本的には、神さまのご臨在の場所として聖別されており、神さまがそこに神のかたちに造られた人を住まわせてくださったものです。 このように、神さまは、基本的に、ご自身のご臨在の場所としての意味をもっている「地」を、ご自身のご臨在の場所として整えてくださり、そこを「人の住みか」としてくださいました。 そうしますと、神さまが、まず、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われているような状態の「地」を造り出されたことをどのように考えたらいいのでしょうか。初めからご自身のご臨在の場所として、また「人の住みか」としてふさわしい状態にお造りになってもよかったのではないでしょうか。 このことについては、別の機会に何回かお話ししましたが、今お話ししていることとの関連でも意味があると思われますので、簡単に復習しておきましょう。 もちろん、これは神さまの御力の限界を示すものではありません。知恵と力において無限、永遠、不変の神さまは、一瞬のうちに、完成した世界、完成した大宇宙をお造りになることができます。しかし、実際には、神さまはそのようになさいませんでした。まず、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われている状態の「地」を造り出されました。そして、それをご自身のご臨在の場所また「人の住みか」としてふさわしく整えていかれました。 また、これは、神さまの創造の御業の前に世界があったということでもありません。日本の古事記を初め、世界にあるさまざまな創世神話においては、混沌とした状態の世界が初めからずっとあった状態とされています。そして、そこに住んでいる、あるいはその世界の上の方、天上界に住んでいる神や神々が働きかけて、この世界を整えていったとされています。この世界の素になるもの、いわゆる「先在の物質」はすっとあったとされているのです。 しかし、それは、聖書の天地創造の御業の記事が示すところではありません。先ほどお話ししましたように、天地創造の御業の記事の見出しに当たる1章1節において、 初めに、神が天と地を創造した。 と宣言されていることによって、この世界のすべてのものが、神さまの創造の御業によって造り出されたことが示されています。ですから、続く2節に記されている、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 という状態は、造り主である神さまがお造りになったこの「地」の最初の状態です。 神さまが、まず、このような状態の「地」をお造りになったことにはいくつかの理由あるいは意味があると考えられます。 最も基本的なことは、神さまがこの世界を時間的であるだけでなく歴史的な世界としてお造りになったということです。この世界がただ時間の経過とともに変わっていくだけの世界であるのであれば、歴史的な世界とは言えません。この世界には造り主である神さまが定められた目的があり、この世界はその目的に向かって進展していく世界として造られています。それでこの世界は歴史的な世界であるのです。 このことは、神さまの創造の御業の遂行にも現されています。神さまは創造の御業を6日にわたって遂行されました。この創造の御業の6つの日は地上の日と同じ24時間の日とは限りません。いずれにしましても、神さまは天地創造の6日にわたる御業によってこの世界をお造りになりました。そして、第7日をご自身の安息の日として祝福してくださり、聖別してくださいました。このことは、神さまの6日にわたる創造の御業は、第7日の神さまの安息を目的としており、そこに向かう御業であったことを意味しています。その意味で、神さまの創造の御業そのものが歴史的な特性をもっています。 これを別の面から見てみますと、神さまは、この世界をご自身がご臨在される世界としてお造りになりました。そして、「地」をご自身が特別な意味でご臨在される所としてお造りになられました。それは、先ほどお話ししましたように、この「地」を「人の住みか」としてお造りになり、ここで神のかたちに造られた人がご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださったからです。 神さまが第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったのはこのこととかかわっています。神のかたちに造られた人がご自身のご臨在の御前に近づいて、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きることを離れて、神さまの安息を考えることはできません。それは、神さまが神のかたちに造られた人を心にかけ、深い愛を注いでおられるからです。 神さまがご自身の安息の日として祝福して聖別してくださった第7日は、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が歴史を造る時です。天地創造の御業の初めに神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられてから今日に至るまで、人は歴史を造ってきました。それは神さまの天地創造の御業の第7日の中にあってのことです。先週もお話ししましたように、神さまが委ねてくださった歴史と文化を造る使命を果たすことの中心は、神さまがお造りになったこの世界に働きかけて、創造の御業と摂理の御業において現されている神さまの恵みといつくしみに満ちたご栄光を汲み取り、神さまを礼拝することにあります。 神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神さまのみこころにしたがって、造り主である神さまを礼拝することを中心として歴史と文化を造っていたなら、そのことへの報いとして栄光を与えられたはずです。そして、神さまの栄光のご臨在の御許にさらに近づくことが許され、より栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりにあずかっていたはずです。それこそが人にとっての「永遠のいのち」です。人がその神さまとのより栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりにあずかる時、第7日における神さまの安息はまったきものとして完成していたはずです。 しかし、実際には、人は神さまがご自身の安息の時として祝福して聖別された第7日において、神さまに対して罪を犯し御前に堕落してしまいました。神さまの愛を踏みにじってしまったのです。これによって、神さまの安息はかき乱されてしまいました。これに対して神さまは、人がご自身に対して罪を犯して御前から堕落してしまった直後に、贖い主を約束してくださいました。それが、引用はいたしませんが、3章15節に記されている「最初の福音」です。これは、御前に堕落してしまったご自身の民を、贖い主の贖いの御業を通して再びご自身の御前に立たせてくださり、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに回復してくださるためでした。それは、また、造り主である神さまの安息を回復し、まったき安息としての完成に至らせてくださるためでもあったのです。 神さまは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人がこのような意味をもった歴史を造る舞台として、「地」をご自身がご臨在される所としてお造りになり、そこに人を住まわせてくださいました。そのために神さまが遂行された創造の御業も、1章2節で、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われている状態から始まって、31節で、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われている状態に至る、歴史的な特性をもっていました。いわば、神のかたちに造られた人は、神さまが創造の御業によって造り出された歴史的な特性をもった世界を受け継いでいるのです。人はこの世界に現れている神さまの恵みといつくしみに満ちたご栄光を汲み取り、神さまを礼拝することを中心として、歴史を造るように召されています。 神さまが創造の御業において、まず、2節で、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われている状態の「地」を造り出されたことの意味には、もう一つの面があります。 1章1節〜2章3節に記されている、神さまの天地創造の御業の記事を全体的に見てみますと、神さまの創造の御業には順序があります。そして、それぞれの御業の間には積み上げと発展の関係があることが分かります。 積み上げの関係というのは、創造の御業のより早い段階で造られたものはより基礎的、基本的なものであり、その後に造られるものの存在にとって必要な土台や環境のようなものであるということです。そして、発展の関係というのは、創造の御業においてより後に造られているものはより複雑なもので、生きておられる人格的な造り主である神さまをより豊かにまたより鮮明に映し出すものであるということです。 このことは、これまで「創造した」という言葉(バーラー)に注目してお話ししたことからもうかがえます。この「創造した」という言葉は、1章1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 という見出しに当たる文において用いられています。その後は、21節で初めて「いのちあるもの」が造り出されたことを記しているときに用いられています。この「いのちあるもの」は、造り主である神さまが生きた方であられることを映し出すものとして画期的なものです。それで、ここで、「創造した」という言葉(バーラー)が用いられていると考えられます。同時に、この「いのちあるもの」が造り出されるまでの第1日から第4日の御業は、「いのちあるもの」が生息することができるような環境を整えるものでありました。その意味で、その前の第1日から第4日の御業は、より基礎的なものを造り出す御業でした。 最後に「創造した」という言葉(バーラー)が用いられているのは、人が神のかたちに造られたことを記している27節においてです。神のかたちに造られた人は、ただ神さまが生きておられる方であるということだけでなく、愛を本質的な特性とする人格的な方であられることを映し出す存在です。この神のかたちに造られた人は、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるとともに、自分より前に造り出されているあらゆるものとのかかわりにおいて生きるものです。人も、他の生き物たちと同じように、第1日から第4日までに整えられた環境に支えられて生きています。 神さまの創造の御業の順序にはこのような意味があります。そのことからしますと、いちばん最初に造り出されたものは最も基礎的なもので、その後に造り出されるものすべての存在を支える土台のようなものであるということになります。事実、私たちの住んでいるこの「地」においては、あらゆるものが「地」に支えられています。しかし、その最も基礎的である「地」の最初の状態は、 地は形がなく、何もなかった。 という状態であったと言われています。 私たちはこの世界そのものには固有の安定性があると感じていますので、この世界がどうなってしまうかということを心配しないで生きています。そういう大きなことには思いが及ばないというだけでなく、実際にそういうことに対する心配は必要がないくらいに、この世界は安定しています。春に種を蒔けば秋には収穫があるということが当然のことであるかのように感じています。それで私たちはこの世界そのものがこのような安定した世界なのだと感じています。しかし、 地は形がなく、何もなかった。 という御言葉は、私たちが住んでいるこの世界は自らの力で自動的に整ってきて、放っておいても安定しているのではないということを伝えています。そして、このことをとおして、私たちの住んでいる世界の本当の基礎と土台はこの世界そのものではなく、この「地」にご臨在されて、これを「人の住みか」に整えてくださり、真実な御手によって支えておられる神さまにあることを示しています。春に種を蒔けば秋には収穫があるということも、造り主である神さまが「地」をそのような可能性のあるものとして造り出し、整えてくださったからです。すべては、造り主である神さまの真実な御手のお支えによることであるのです。それで、人はこの世界を最後の拠り所とすべきではなく、この世界を造り出しこれを真実に支えておられる神さまを信頼すべきであるという思いへと導かれます。 ですから、その神さまを礼拝し、その真実な御手に感謝することは、神のかたちに造られて、神さまがご臨在される「地」に住まう者にとって、最もふさわしいことであるのです。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りは、基本的には、この「地」における礼拝の完全な実現を祈り求めています。 |
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