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説教日:2008年1月20日 |
創世記1章1節〜2章3節には神さまの天地創造の御業の記事が記されています。1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。これは天地創造の御業の記事の見出しに当たるもので、およそこの世界とその中に存在するすべてのもの、今日の言葉で言いますと、壮大な大宇宙とそこに存在するすべてのものには「初め」があり、それは神さまの創造の御業によっているということを宣言しています。 1節でこのことを宣言してから、2節では「さて、地は」と語り出します。これは、創造の御業の記事の視点と関心が「地」に移っていることを意味しています。神さまの創造の御業は宇宙全体において同時並行的に進行していますが、2節からは、この記事の視点と関心を「地」に置いているということです。 2節には、神さまが最初に造り出された状態の「地」のことが、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されています。この時の「地」は「大いなる水」に覆われており、さらにその上には「やみ」がありました。すでに取り上げた個所ですので引用はいたしませんが、イザヤ書45章18節に記されている御言葉とのかかわりで考えますと、 地は形がなく、何もなかった。 と言われているときの「地」は、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。逆に言いますと、神さまはこのような状態にあった「地」を「人の住みか」として整えてくださったということです。 さらに、ここでは、 神の霊は水の上を動いていた。 と言われていて、とても「人の住みか」とは言えない状態にあった「地」に、すでに「神の霊」がご臨在しておられたことが示されています。「地」は「人の住みか」として整えられる前に、神さまがご臨在される場所であったのです。そして、神さまはこの「地」にご臨在されて、この「地」を「人の住みか」にふさわしく整えてくださり、そこに神のかたちに造られた人を住まわせてくださいました。具体的には、3節に、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 と記されていますように、ご自身のご臨在の御許から語り出された御言葉によって、この「地」を「人の住みか」として整えてくださったのです。 もちろん、神さまは存在において無限、永遠、不変の主であられますから、神さまはこの大宇宙を無限に超越しておらえると同時に、この大宇宙のどこにでもおられます。神さまのこの世界との関係には、人間の哲学的な概念である超越と内在が同時に当てはまります。神さまの創造の御業の遂行も、広大な宇宙のどこにおいても同時並行的に遂行していました。 しかし、神さまは生きておられる人格的な方であられます。少し人間的な言い方をしますが、ご自身のみこころにしたがって、あるものに特別な意味で御顔を向けられ、特別な関心を寄せられることがあります。2節において、 神の霊は水の上を動いていた。 と言われていたのは、そのように特別な意味で、神さまが「地」にご臨在されていたことを示しています。これも人間的な言い方ですが、神さまはこの「地」を「人の住みか」として整えてくださることに、特に、心を注いでくださったのです。それは、神さまのみこころが、人を神のかたちにお造りになって、ご自身のご臨在の御許に住まうものとしてくださり、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださることにあったからです。 もう一つ復習し、確認しておきたいことがあります。 1章1節〜2章3節に記されている神さまの天地創造の御業の記事において最後に造り出されたものとして記されているのは、神のかたちに造られた人です。1章26節〜28節には、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 ここには、人が神のかたちに造られたこと、そして、神のかたちに造られた人に、神さまがお造りになったこの世界を治める使命が委ねられたことが記されています。この使命は一般に「文化命令」と呼ばれるもので、歴史と文化を造る使命です。神さまが人をご自身のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命をお委ねになられたことをもって、神さまの創造の御業は頂点に達しています。 先ほどお話ししましたように、天地創造の御業の記事においては、1章1節の見出しに当たる言葉の後、2節からはその視点と関心を、神さまがご臨在されて「人の住みか」として整えてくださるようになる「地」に移しています。それで、1章31節で、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われていることも、「地」からの視点で見られたもののことを示していると考えられます。 第4日の御業を記している14節〜19節においては、天体のことが記されています。そこでは、それらの天体が「地」との関係において果たす役割が確立されたことが記されています。そこでは、それらの天体が「地」からの視点で見られています。そして、18節において、 神は見て、それをよしとされた。 と言われていることも、神さまがご自身がご臨在される「地」からの視点で「見て、それをよしとされた」のであると考えられます。それと同じように、31節で、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われているときの、神さまが「お造りになったすべてのもの」は、今日の言葉で言う「大宇宙」のことですが、神さまはそれをご自身がご臨在される「地」からの視点で見ておられると考えられます。 2節以下において、神さまがなされた創造の御業を「地」からの視点で記しているということには理由があります。 一つには、これまでお話ししてきましたように、この記事が「地」にご臨在して創造の御業を遂行しておられる神さまに焦点を合わせているからです。 もう一つの理由は、この天地創造の御業の記事が私たちへの啓示であるからです。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている私たちへの啓示であるからです。 この神さまの天地創造の御業の記事は、あたかも私たちがその場にいて神さまの創造の御業の遂行の様子を見ているかのように記されています。これによって、私たちは、自分たちがこの「地」にあるものの視点から見渡しているこの世界がどのようにして造られたものであるかを、また、どのような意味をもっている世界であるかをを理解することができるようになっているのです。 これまでお話ししてきましたように、この「地」は神さまが特別な意味でご臨在してくださる場所として聖別されており、神さまはそこに神のかたちに造られた人を住まわせてくださっています。この「地」は神のかたちに造られた人が、ここにご臨在してくださっている神さまを礼拝し、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるための場所として聖別されています。私たちは、神さまの創造の御業の記事をとおして、自分たちが神のかたちに造られているということだけでなく、私たちが住んでいるこの「地」がこのような意味をもつものとして造られていることを知ることができるようになりました。 実際に、私たちは神のかたちに造られて、神さまが特別な意味でご臨在されるこの「地」に住んでいます。そして、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きています。そのようなものとして、「地」からの視点で、神さまが「お造りになったすべてのもの」を見ています。そして、その壮大さ、奥深さ、不思議さに驚嘆し、感動し、しばしば声を失います。このことは、1章31節において、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われていることに示されている神さまに倣うことです。神さまが「お造りになったすべてのものをご覧になった」ように、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている私たちも、神さまが「お造りになったすべてのもの」を見るのです。 しかし、私たちが見て、その壮大さ、奥深さ、不思議さに驚嘆し、感動しているのは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによって、虚無に服するようになったと言われている世界のことです。ローマ人への手紙8章19節〜22節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と記されているとおりです。このように「虚無に服した」被造物世界であっても、それを見つめる私たちを驚かせ、感動させるものであるとしたら、最初に造られたときのこの世界は一体どのような美しさと聖さと不思議さに満ちた世界であったことでしょう。 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 という御言葉は、その私たちの想像を越えたこの世界の本来の美しさと聖さと不思議さをうかがわせます。そのことは、さらに、このような世界をお造りになった神さまご自身がいかに知恵と力と真実といつくしみに満ちたお方であるかを私たちにあかししています。 いずれにしましても、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 とあかしされているこの世界を、神さまにならって「地」からの視点で見て、そのすばらしさに目を見張り、このすべてをお造りになった神さまの御前にひれ伏し、いっさいの栄光を神さまに帰するのです。このことこそが、歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあります。 このようなことを踏まえて詩篇8篇を見てみましょう。そこには、 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 あなたはご威光を天に置かれました。 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、 力を打ち建てられました。 それは、あなたに敵対する者のため、 敵と復讐する者とをしずめるためでした。 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 と記されています。 この詩篇8篇は、 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 という讃美の言葉で始まり、まったく同じ讃美の言葉で閉じられています。このような表現形式は「インクルースィオ」と呼ばれますが、この詩篇8篇全体が、 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 という御言葉に示されている主ヤハウェへの讃美であることを示しています。 私たちの主、主よ。 という呼びかけは「主」(ヤハウェ)への呼びかけです。この「主」(ヤハウェ)という御名については、すでに、 御名があがめられますように。 という第1の祈りとの関係でお話ししました。この御名は文字通り神さまのお名前、固有名詞としてのお名前であって、神さまの称号ではありません。この御名の意味については、出エジプト記3章に記されています。神さまはエジプトにいるイスラエルの民を奴隷の身分から解放してくださるためにモーセを遣わしてくださるに当たって、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名を示してくださいました。ヤハウェ(「主」)という御名はこれを短縮し、3人称化したものであると考えられます。この御名は、神さまの存在を強調するもので、神さまが何ものにも依存することなくご自身で存在しておられ、ご自身がお造りになったすべてのものを存在させ、その存在を支えておられる方であられることを表していると考えられます。そして、これが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名と結びつけられていることによって、神さまがご自身の契約に対して真実であられ、その契約の民とともにおられて、贖いの御業の遂行をとおして、契約の祝福を実現してくださる方であられることを表しています。 「私たちの主」の「主」(アードーン)は人間にも当てはめられる言葉で、その場合には「しもべ」が「主人」を呼ぶときなどに用いられます。神さまに当てはめられる場合には、神さまが主権者であられ、支配者であられることを表しています。ここでは、「主」(ヤハウェ)が、この世界とその歴史を支配し、導いておられる主権者であられることが告白されています。そればかりでなく「私たちの主」という呼び方によって、「主」(ヤハウェ)がご自身の契約の民のためにこの世界とその歴史を支配し、導いておられることが示されています。 そして、この「主」(ヤハウェ)の御名について、 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 と言われています。この「力強い」という言葉(アッディール)は、ヤハウェの主権者としての特性を表しています。すべてのものをお造りになり、治めておられることに現された御力の大きさ、また、救いとさばきの御業において現された力強さなどを示しています。「主」(ヤハウェ)は、この世界とその歴史をとおして、ご自身が「力強い」主権者であられることをあかししておられます。 ここでは、 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 というように、基本的に、「地」に視点が据えられています。この詩が、この讃美の言葉で始まり、この讃美の言葉で終っているということは、この詩全体が「地」からの視点をもっていることを意味しています。 しかし、その見るところは「地」に限りません。最初の方のこの讃美の言葉に続いて、 あなたはご威光を天に置かれました。 と歌われています。第3版では、 あなたのご威光は天でたたえられています。 と訳されています。このどちらを取るべきかで意見は分かれています。いずれであっても、「主」(ヤハウェ)の「ご威光」(ホード)は「天」において現され、あかしされていることが告白されています。 続いて、 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、 力を打ち建てられました。 それは、あなたに敵対する者のため、 敵と復讐する者とをしずめるためでした。 と歌われています。 ここには、「主」(ヤハウェ)に「敵対する者」のことが出てきます。「主」が主権者として、この世界とその歴史を支配し、導いておられること、そして、この御業に現されている主の「力強さ」と「ご威光」は明白なものです。しかし、それを決して認めようとしないで、「主」に「敵対する者」がいます。神のかたちに造られながら、神さまに対して罪を犯し、御前から堕落してしまった人や、もろもろの悪霊たちです。それに対して、「主」は「幼子と乳飲み子たちの口によって」「力を打ち建てられました」と言われています。「幼子と乳飲み子たち」とは人間のうちで最も弱い者、敵の攻撃によって最初に被害を受ける者たちです。「敵対する者」を静めるのには、そのような者たちの讃美あるいはあかしで十分だというのです。それは、言うまでもなく、実際に、「主」が主権者として、この世界とその歴史を支配し、導いておられるからです。そして、「主」の御業に現されている「力強さ」と「ご威光」が確かなものであるからです。 ここには、人間の弱さや小ささと主権者としてすべてを支配し、導いておられる「主」の「力強さ」と「ご威光」の確かさという組み合わせがあります。この組み合わせは、この後に続く3節〜8節に記されている、神のかたちに造られた人に与えられている栄光の告白の基調となっています。3節〜8節には、 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 と記されています。 ここでは、神さまが「人の住みか」として整えてくださった「地」に住みながら、神さまがお造りになった「天」を仰ぎ見て、己の小ささを悟るとともに、その自分を、主権者として、この世界とその歴史を支配し導いておられる「主」が「心に留められ」、「顧みられる」ということの驚きを告白しています。そして、その驚きは、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 という、人が神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられていることへの告白をもって頂点に達します。そして、そこからは、 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 という讃美が出てくるだけです。繰り返しになりますが、このような讃美において主、ヤハウェを礼拝することが、歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあります。すべては、この世界とその歴史を支配し、導いておられる「主」への礼拝から始まり、「主」への礼拝に至るのです。 |
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