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説教日:2008年1月13日 |
いつものように、これまでお話ししたことを復習しながら、いくつかのことを考えていきたいと思います。 創世記1章1節〜2章3節に記されています天地創造の御業の記事において「創造した」という言葉(バーラー)が用いられているのは、3個所だけです。この言葉に注目しながら、改めて、神さまの創造の御業の記事について考えていきたいと思います。 最初にこの言葉が出てくるのは、1章1節です。そこには、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。これは天地創造の御業の記事の見出しに当たるもので、およそこの世界とそこに存在するすべてのもの、今日の言葉で言いますと、壮大な大宇宙とそこに存在するすべてのものには「初め」があり、それは神さまの創造の御業によっているということを宣言しています。この世界のすべてのものは、時間も空間も含めて、また、存在するものの間にある秩序と調和も含めて、神さまが創造されたものであるというのです。 1章1節の見出しでこのことを宣言してから、2節では、「さて、地は」という語り出しによって、創造の御業の記事の視点と関心が「地」に移っていることが示されています。もちろん、神さまの創造の御業は宇宙全体において同時並行的に進行しています。しかし、2節からは、宇宙全体における創造の御業の遂行のことは視野の外に置いています。わずかに、第4日の御業において、「地」との関係における天体の役割が確立されたことが記されているだけです。 2節には、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されています。もちろん、この状態の「地」は、創造の御業において神さまが造り出されたものです。 地は形がなく、何もなかった。 と言われているときの「地」は「大いなる水」に覆われており、さらにその上には「やみ」がありました。先週お話ししましたように、イザヤ書45章18節に記されている、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てられた方、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた方、 という御言葉とのかかわりで考えますと、 地は形がなく、何もなかった。 と言われているときの「地」は、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。 次に「創造した」という言葉(バーラー)が用いられているのは、21節です。そこには、 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。 と記されています。ここでは、初めて、神さまが生きておられる方であられることを映し出す「いのちあるもの」が造り出されたことが記されています。その意味で、これは創造の御業において新しい段階を迎えたことを意味しています。それで、ここで「創造した」という言葉が用いられていると考えられます。 最後に、「創造した」という言葉(バーラー)が出てくるのは27節です。そこには、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と記されています。ここでは、「創造した」という言葉が3回繰り返して用いられています。このことは、この「地」に神のかたちに造られた人が存在するようになったことが、神さまの創造の御業において、さらに新しい段階を迎えたこと、そして、それが創造の御業の頂点に当たることを意味していると考えられます。 先ほど、2節において、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われているときの「地」はとても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示しているということをお話ししました。しかし、「地」がこのような状態にあったとき、 神の霊は水の上を動いていた。 と言われていますように、すでに「神の霊」がそこにご臨在しておられました。「地」は「人の住みか」として整えられる前に、神さまがご臨在される場所であったのです。 このように、神さまはご自身がご臨在される場所としての「地」を「人の住みか」として整えてくださいました。言い換えますと、神さまはご自身がご臨在される場所として聖別されている「地」に神のかたちに造られた人を住まわせてくださっているのです。このことは、「地」が「人の住みか」であるということの根本には、神のかたちに造られた人が、この「地」にご臨在してくださっている神さまに出会い、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものであることを示しています。 言うまでもなく、神のかたちに造られた人が、この「地」において、そこにご臨在される神さまと出会い、神さまとの交わりのうちに生きることの中心は、神さまを礼拝することにあります。このように、「地」は初めから神さまがご臨在される場所として聖別されており、神のかたちに造られた人が造り主である神さまを礼拝する場所として聖別されています。「地」はそのような意味で「人の住みか」であるのです。 私たちが主の祈りの第3の祈りにしたがって、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 と祈るときには、「地」が、このように、神さまがご臨在される場所として聖別されていること、また、それゆえに、神のかたちに造られた人が造り主である神さまを礼拝する場所として聖別されていることをわきまえることが大切です。 このこととの関連で一つのことに触れておきたいと思います。 イザヤ書6章1節〜4節には、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 と記されています。 ここには、預言者イザヤが見た「万軍の主」の栄光の顕現(セオファニー)のことが記されています。この中で、セラフィムは、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 という讃美ををもって、「万軍の主」のご臨在の御前で仕えています。私たちが住んでいる「地」が初めから神さまがご臨在される場所として聖別されており、神のかたちに造られた人が造り主である神さまを礼拝する場所として聖別されているということを踏まえて見ますと、このセラフィムの讃美は、この「地」の本来のあり方を、まさに、「万軍の主」への礼拝の中で告白しているということが見えてきます。 また、詩篇33篇1節〜8節には、 正しい者たち。主にあって、喜び歌え。 賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。 立琴をもって主に感謝せよ。 十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。 新しい歌を主に向かって歌え。 喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。 まことに、主のことばは正しく、 そのわざはことごとく真実である。 主は正義と公正を愛される。 地は主の恵みに満ちている。 主のことばによって、天は造られた。 天の万象もすべて、御口のいぶきによって。 主は海の水をせきのように集め、 深い水を倉に収められる。 全地よ。主を恐れよ。 世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。 と記されています。 ここでは、 全地よ。主を恐れよ。 世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。 という言葉が示すように、「全地」すなわち「世界に住む者」が主への讃美をもって、主を礼拝すべきことが示されています。そして、ここでは、 まことに、主のことばは正しく、 そのわざはことごとく真実である。 ・・・ 主のことばによって、天は造られた。 天の万象もすべて、御口のいぶきによって。 という主の御言葉の真実さと力の告白に挟まれるようにして、 地は主の恵みに満ちている。 と告白されています。この、 地は主の恵みに満ちている。 という讃美の告白は、先ほどの、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 というセラフィムによる讃美と同じことを別の面から述べています。つまり、主の栄光が全地に満ちているので、 地は主の恵みに満ちている のです。 このように、神さまが御言葉をもってお造りになった「地」は、神さまが恵みに満ちた栄光をもってご臨在される場所として聖別されており、神のかたちに造られた人が造り主である神さまを礼拝するための場所として聖別されています。 このこととの関連で、もう一つの問題が考えられます。それは偶像礼拝です。偶像礼拝は、それ自体が生きておられるまことの神さまを否定することですが、それは、また、造り主である神さまがご臨在する場所として聖別されている「地」を汚すものでもあります。 申命記18章9節〜12節には、 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。 と記されています。 ここに記されていることの意味の広がりは、これまでお話ししたことから理解できます。ここでは、イスラエルの民が入ろうとしているカナンの「地」の住民たちが、なぜ、その「地」から追い払われなければならないかということが示されています。それは、その「地」の住民たちが、造り主である神さまがご臨在する場所として聖別されている「地」を、偶像と偶像礼拝によって満たしてしまったからであるということが示されています。 これと同じことがレビ記18章にも記されています。そこに記されていることをまとめるだけにとどめますが、そこでは、カナンの地の住民たちの風習のうち、特に、性的な関係における逸脱のことが取り上げられています。その中には、自分の子どもたちを「火の中を通らせて」モレクにささげるという問題も取り上げられています。それらのことのために、その「地」は汚され、「その地は、住民を吐き出すことになる」と言われています。 これらの御言葉に記されている偶像礼拝を中心とする風習は、出エジプトの時代のカナンの地においてなされていたものですが、それはその時代に限られたものではありません。後のイスラエルの王国時代においても、これらのことが行われており、そのことのために、北王国イスラエルも、南王国ユダも、主のさばきを受けることになります。そればかりでなく、これらの風習は、そのすべてがとは言わないまでも、現在もこの地上の至る所で見られ、私たちの住んでいるこの国も例外ではありません。 すでに、この、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りについてのお話の中で、父なる神さまのみこころが、「天にあってのように、地においても」(直訳)行われるということの中心は、主の契約の民が、御霊に導いていただき、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまを礼拝することにあるということをお話ししました。ですから、この「地」は無性格なものではなく、神さまが恵みに満ちた栄光をもってご臨在される場所として聖別されており、神のかたちに造られた人が造り主である神さまを礼拝するための場所として聖別されているということをわきまえることは、この祈りを祈るうえで大切なことです。 このこととともに、イザヤ書66章1節、2節には、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 と記されています。 この個所については、いろいろな機会にお話ししたことですので、結論的なことだけをお話しします。ここでは、これまでお話ししてきた「地」ばかりでなく、「天」も神さまのご臨在される場所、それゆえに、神さまを礼拝すべき場所として聖別されていることが示されています。 実際、すでに、主の祈りの第3の祈りとの関連でお話ししたことですが、聖書、特に黙示録4章以下には、その「天」において、御使いたちと、すでに御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって主の御許に帰った聖徒たちによって、礼拝が行われていることが示されています。それは天と地を貫く一つの礼拝で、イエス・キリストの贖いの御業が成し遂げられたことによって、すでに歴史の中に実現しています。もちろん、その完全な実現は、終りの日の栄光のキリストの再臨の時を待たなければなりません。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りは、最終的には、天と地を貫く一つの礼拝の完全な実現を祈り求めています。 その黙示録の最後の章である21章と22章においては、終りの日に再臨される栄光のキリストの再創造のお働きによって造り出される「新しい天と新しい地」のことが記されています。そこでは、「新しい天と新しい地」は、まさに、神さまの栄光のご臨在の場所として聖別されたものであることが示されています。 21章1節〜4節には、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されています。 見よ。神の幕屋が人とともにある。 というのは、古い契約の地上的な「ひな型」としての「幕屋」によって示されていたことが完全な形で実現していることを示しています。言うまでもなく、「幕屋」には主のご臨在があり、その御前では祭司たちが、そこにご臨在される主を礼拝しました。カナンの地は、やはり地上的な「ひな型」ですが、そこに主の栄光のご臨在のある「幕屋」を中心としたイスラエルの民が入りました。カナンの地の民は、その主のご臨在のある「地」から追い払われたのです。その「幕屋」は、やがて、イスラエルの民がカナンの地に定着するとともに、主の「神殿」として定着していくようになります。 また、22章1節〜5節には、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。ここでは、「新しい天と新しい地」におけることが、創世記2章に記されています、最初の創造の御業によって造り出された「地」において神である主のご臨在の場所として設けられていた「エデンの園」の表象によって表されています。このことは、栄光のキリストによって造り出される「新しい天と新しい地」が最初の創造の御業によって造り出された「天と地」と無関係のものではなく、その「天と地」が完成するものであることを示しています。 このように、神さまの栄光のご臨在の場所として聖別された「新しい天と新しい地」が示されたことを受けて、22章14節、15節には、 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。 と記されています。 お気づきのことと思いますが、ここに記されていることは、先ほど申命記から引用しました御言葉やレビ記18章において示されている原理を示しています。「新しい天と新しい地」も神さまの栄光のご臨在の場所として聖別され、主の民が神さまを礼拝する場所として聖別されています。そのために、そこには「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者」が入る余地がないのです。 ちなみに、「犬ども」というのは、福音を曲げる偽預言者、偽教師たちを中心として、広く、福音の御言葉に示されている神さまのみこころに背く人々のことであると考えられます。 「自分の着物を洗って」ということは、イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪のきよめにあずかっていることを意味しています。これは、7章14節に、 彼らは・・・その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。 と記されていることを受けています。その人々は「いのちの木の実を食べる権利を与えられ」ています。そこにご臨在される主を礼拝することを中心とした、主との愛にあるいのちの交わりにあずかっているということです。 |
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