(第132回)


説教日:2008年1月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてお話しします。
 これまで、この祈りの主題である父なる神さまのみこころには二つの中心があるということをお話ししてきました。一つは、私たち主の契約の民にかかわるみこころであり、もう一つは、神さまがお造りになったすべてのものにかかわるみこころです。まず、主の契約の民にかかわるみこころについてお話ししました。続いて、被造物全体にかかわるみこころについてお話ししてきました。今日も、被造物全体にかかわる父なる神さまのみこころについてのお話を続けます。
 いつものように、これまでお話ししたことを復習してから、お話を進めていきます。
 神さまの創造の御業を記している創世記1章31節には、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されています。ここには、6日にわたる神さまの創造の御業の締めくくりとなることが記されています。神さまが、

 お造りになったすべてのものをご覧になった

ところ、そのすべては「非常によかった」と言われています。それらは神さまがお造りになったものですから、神さまがご覧になっても「非常によかった」のです。これは、神さまが「お造りになったすべてのもの」の一つ一つが、神さまのみこころにかなったよいものであるということとともに、その一つ一つがかかわり合って生み出されるすべての出来事も含めて、全体がまったき調和のうちにあり、神さまの栄光を現すものとして存在していたということを意味しています。
 このこととのかかわりで注目したことがあります。それは、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事においては、この31節の前の26節〜30節に、神さまが、人を神のかたちにお造りになったこと、そして、その人に、ご自身がお造りになったこの世界を治める使命を委ねになったことが記されているということです。26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 先週は創造の御業の記事において用いられている「創造する」という言葉(バーラー)に注目してお話ししました。この言葉は創造の御業の記事の見出しに当たる1章1節に出てきます。そこには、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。先週お話ししましたので詳しい説明は省きますが、この「天と地」は、この世界に存在するすべてのもの、しかも、まったき秩序と調和のうちに存在するすべてのものを表しています。

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉は、そのすべてのものは神さまの創造の御業によって造り出されたということを宣言するものです。
 同時に、この御言葉は、「天と地」という言葉によって表される、この世界に存在するすべてのものには「初め」があり、その「初め」は神さまの創造の御業によって始まっているということを示しています。その意味で、この「初め」は絶対創造の「初め」を意味しています。それは、時間や空間も含めたこの世界の「初め」です。
 このように、この世界が「無から」造り出されたことを示している、

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉において「創造する」という言葉が用いられています。
 この次にこの「創造する」という言葉が出てくるのは、21節です。そこには、

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。

と記されています。これは、最初に「いのちあるもの」が造り出されたことを記しているという意味で、創造の御業の新たな段階を示しています。
 そして、先ほど引用しました27節には、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

というように、この言葉が3回繰り返して出てきます。これは、それまでに造り出されていた生き物たちとは違って、「神のかたち」としての人が造られたことにおいて、創造の御業がさらに新しい段階を迎えたことを示しています。
 そして、創造の御業そのものも、神さまが神のかたちに造られた人に、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命、「歴史と文化を造る使命」を委ねられ、それに関連する約束を与えられたことをもって終ります。
 ですから、神のかたちとしての人が造られ、人に歴史と文化を造る使命が委ねられたことは、神さまの創造の御業の頂点に当たります。


 このこととの関連で注目したいのは、1章2節に、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されていることです。
 先週お話ししましたように、この2節の冒頭には接続詞があり、2節は「さて、地は」という感じで始まっています。創造の御業の記事全体の「見出し」に当たる1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉では「天と地」という言葉で表わされる、神さまがお造りになったこの世界とその中にあるすべてのもの、今日の言葉で言えば「宇宙」全体が視野に入っています。これに対して、「さて、地は」と語り出される2節では、創造の御業の記事の視点と関心が「」に移っています。
 言うまでもなく、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われている「」は、神さまが最初に造り出された状態の「」です。決して、神さまが創造の御業を始められたときにすでにそこにあった世界のことではありません。
 日本の神話も含めて、世界の至る所にある創世神話においては、この世界が永遠にあり、その中に神々も存在していて、その神々が、すでにある世界に手を加えて整えたり、何かを造り出したということが記されています。造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間は、自分のイメージに合わせて「神」のことを考えます。それで、自分たちがこの世界の中に存在しているので、「神」もこの世界に存在していると考えてしまいます。同じくこの世界に存在しているけれども、「神」の方が上の方に存在しているというように考えるのです。

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉は、このような考え方を否定しています。永遠に存在されるのは神さまおひとりであり、この世界とそのうちにあるすべてのものは神さまがお造りになったものであるということを示しています。
 ですから、神さまはご自身の必要のためにこの世界をお造りになったのではありません。神さまが存在されるためにこの世界が必要であるのではありません。それでは、この世界は何のために造られたのかということになりますが、そのことをお話ししていきたいと思います。
 2節において、

 地は形がなく、何もなかった。

と言われているときの「形がなく、何もなかった」という言葉(トーフー・ワー・ボーフー)については、さまざまな見方があります。これはヘブル語では「トーフー」という言葉と「ボーフー」という音声的に同じような言葉が、接続詞「ワー」によってつなぎ合わされています。意味の上でも、「トーフー」という言葉は、「荒野」、「荒廃した地」、「何もないこと」、「空しいこと」などを表しますし、「ボーフー」という言葉は「何もないこと」や「荒廃していること」などを表します。この「ボーフー」という言葉は、聖書の中では3回用いられていますが、単独で用いられないで、「トーフー」という言葉と接続詞(こことエレミヤ書4章23節)か、同じ意味を表す並行法(イザヤ書34章11節)でつなげられて用いられています。このように、音声的にも意味の上でも似ている言葉を連ねることによって、最初に造り出されたときの「」が荒廃していて不毛であり、空しいものであったことが強調されていると考えられます。もちろん、この時の「」は「大いなる水」の下に隠れていましたし、その「大いなる水」は「やみ」に覆われていましたから、見える状態にはありませんでした。しかし「」そのものは存在していました。
 イザヤ書45章18節には、

 天を創造した方、すなわち神、
 地を形造り、これを仕上げた方、
 すなわちこれを堅く立てられた方、
 これを形のないものに創造せず、
 人の住みかに、これを形造られた方、

と記されています。
 ここでは、神さまが「」と「」をお造りになった方として示されています。しかも、新改訳の行の区分に従えば、「」のことは1行で、後の4行は「」のことを述べています。この神さまの紹介とも言うべき御言葉においては、神さまが「」をお造りになったことが強調されているのです。そして、

 これを形のないものに創造せず、
 人の住みかに、これを形造られた方、

と言われていますように、神さまは「」を「人の住みか」にお造りになったと言われています。この、

 これを形のないものに創造せず、

と言われているときの「形のないもの」という言葉が創世記1章2節に出てきた「トーフー」です。そして、この「トーフー」(「形のないもの」)という言葉は、

 人の住みかに、これを形造られた

と言われているときの「人の住みか」という言葉と対比されています。
 このイザヤ書45章18節の御言葉に照らして見ますと、創世記1章2節の「形がなく、何もなかった」という言葉は、とても「人の住みか」としてふさわしい状態ではなかったといことを表していると考えられます。そして、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事は、神さまが6日にわたる創造の御業をとおして

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われている状態にあった「」を「人の住みか」にお造りになったことをあかししていると考えられます。
 このことを踏まえたうえで、創造の御業の記事についてもう一つのことに注目してみましょう。
 先ほど引用しました1章31節には、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されていました。創造の御業の記事においては、これと同じように、神さまが、ご自身がお造りになったものをご覧になったことが、この1章31節も含めて7回記されています。「7」は完全数ですね。順次それを見てみますと、そこには一貫した意味と方向性があることが分かります。
 まず1章4節には、

 神はその光をよしと見られた。

と記されています。ここでは、神さまが「」をご覧になったことが記されています。ちなみに、神さまがご覧になったものが述べられているのは、この「」と先ほどの31節の「お造りになったすべてのもの」だけです。それ以外の場合は、後ほど取り上げますが、

 神は見て、それをよしとされた。

と言われているだけです。
 このことは、2節に、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されている状態にあった「」に、神さまが、

 光よ。あれ。

という御言葉とともに、あるようにされた「」の存在の大切さを思わせます。事実、私たちが住んでいるこの「」とそこにあるものにとって「」は決定的な意味をもっています。また、コリント人への手紙第2・4章6節においては、このことに触れて、

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

と記されています。
 10節には、

神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これは後に造られるようになる「いのちあるもの」としての生き物たちや神のかたちに造られる人が住まうべきところとしての、「」と「」が造られたことにかかわっています。
 12節には、

それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これは、やはり、後に造られるようになる「いのちあるもの」としての生き物たちや神のかたちに造られる人のいのちを支えるために必要な食べ物となる植物、「種を生じる草」、「その中に種のある実を結ぶ木」が造り出されたこととかかわっています。
 16節〜18節には、

それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これは、天体そのもののことではなく、天体の「」とのかかわりにおける役割のことを記しています。それは、後に造られるようになる「いのちあるもの」としての生き物たちや神のかたちに造られる人のいのちの営みにとって大切な「昼と夜」の時間的なリズムを生み出すものの創造とかかわっています。
 21節には、

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これは、先ほども触れましたように、「いのちあるもの」が最初に造り出されたこととかかわっています。
 そして、25節には、

神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これは神のかたちに造られた人と同じように「」に棲む生き物たち、すなわち「野の獣」、「家畜」、「はうもの」が造り出されたこととかかわっています。
 このように見ますと、神さまが創造の御業の遂行の中でご自身がお造りになったものをご覧になり、「それをよしとされた」のは、そこで造り出された「いのちあるもの」、特に神のかたちに造られた人のいのちの営みにとって大切なものであったからであるということが分かります。そして、先ほどの引用の最後の二つである21節と25節に記されていることは、「いのちあるもの」の存在そのものを「よしとされた」ということを示しています。
 そうしますと、この先には、当然のこととして、神さまが神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命をお委ねになった人をご覧になり、「それをよしとされた」ということが記されていると予想されます。なぜなら、すでにお話ししましたように、この創造の御業の記事そのものが、神さまが人を神のかたちにお造りになったことを強調しており、神さまがこの「」を「人の住みか」お造りになったということをあかししているからです。
 しかし、神のかたちとしての人が造られ、人に歴史と文化を造る使命が委ねられたことについては、神さまがそれをご覧になり、「それをよしとされた」ということは記されていません。このことをどのように考えたらいいのでしょうか。
 結論的に言いますと、神さまは神のかたちに造られた人と、人に歴史と文化を造る使命が委ねられたことをご覧になり、「それをよしとされた」のであると考えられます。ただ、そのことは、それとして独立していないで、第6日の御業を締めくくる31節において、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

と記されていることにおいて示されていると考えられます。
 この31節に記されている御言葉を理解するうえで忘れてならないのは、ここに記されている創造の御業の記事は、2節において、その視点と関心が「人の住みか」として造られていく「」に移っているということです。そして、このことはこの31節に記されている、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

という御言葉にも当てはまります。もちろん、神さまが「お造りになったすべてのもの」はこの世界のすべてのものです。しかし、31節では、その「お造りになったすべてのもの」を、「人の住みか」として造られた「」からの視点で見ており、「人の住みか」として造られた「」とのかかわりで見ているのです。それは、先ほど引用しました16節〜18節に記されていました天体が「」とのかかわりで意味をもっており、その点で「よし」とされているのと同じです。
 ですから、31節では、神さまがお造りになったこの「」が確かに「人の住みか」として造られていること、そして、「お造りになったすべてのもの」がこの「」との関係で意味をもっており、そのすべてが神のかたちに造られた人に委ねられているということがあって、

 神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と言われる状態になったということです。
 このこととのかかわりで、人間の活動を考えることができます。神のかたちに造られた人間は「」にありながら、天体にまで目を向け、そこに現れている神さまの栄光に満ちた知恵と御力を感じ取ってきました。また、今日では、「ハッブル宇宙望遠鏡」のように、大気圏外に打ち上げられた望遠鏡によって壮大な宇宙の果てにまでも観察の範囲を広げて、より鮮明に、神さまの御業に触れるようになっています。もちろん、罪のために心が造り主である神さまから離れてしまっている状態にある人は、それが造り主である神さまの御業であることを認めようとはしません。けれども、すべての人が、造り主である神さまの御業に触れているという事実には変わりがありません。
 このように、神のかたちに造られた人が「」において、造り主である神さまを礼拝を中心として、神さまとの愛の交わりのうちに生き、歴史と文化を造る使命にしたがって、神さまが「お造りになったすべてのもの」に働きかけて、神さまの栄光を現すことを目的とした歴史を造ることこそが、創造の御業において示された神さまのみこころが「」において行われることの中心です。
 このことは、神のかたちに造られた人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、損なわれてしまいました。しかし、神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによってこれを回復してくださいました。神さまの贖いの御業は創造の御業を否定するものではありませんし、無視するものでもありません。贖いの御業は創造の御業によって始められ、人間の罪による堕落によって損なわれたものを回復し、完成に至らせます。

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という主の祈りの第3の祈りは、このことの完全な実現を祈り求めるものです。この祈りを祈るときには、このような天地創造の御業における神さまのみこころをわきまえることが大切です。

 


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