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説教日:2007年12月30日 |
前回お話ししましたように、この世界は神さまが、ご自身の永遠の聖定におけるみこころにしたがってお造りになったものです。それで、この世界のすべてのものは、本来、造り主である神さまの栄光を現すものです。神さまの創造の御業を記している創世記1章31節には、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されています。神さまが「お造りになったすべてのもの」は、神さまがお造りになったものですから、神さまがご覧になっても「非常によかった」のです。それは、神さまが「お造りになったすべてのもの」の一つ一つが、神さまのみこころにかなったよいものであるということとともに、その全体がまったき調和のうちに存在していて、神さまの栄光を現すものとしての実を結ぶものであったということを意味しています。 さらに、注目すべきことは、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事においては、このことに先立つ26節〜30節に、人が神のかたちに造られたこと、そして、神のかたちに造られた人に、神さまがお造りになったこの世界を治める使命が委ねられたことが記されているということです。26節〜28節には、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 この、造り主である神さまが神のかたちに造られた人に委ねられた、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という命令は、一般に、文化を造るようにという命令であるという意味で「文化命令」と呼ばれています。けれども、これは、基本的には、歴史を造るようにという命令です。その意味で、私は「歴史と文化を造る使命」と呼んでいます。 いずれにしましても、31節に、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されていることには、神さまが人をご自身のかたちにお造りになったこと、そして、神のかたちに造られた人に、ご自身がお造りになったこの世界を治める使命、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことも含まれています。 先ほどお話ししましたように、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われているのは、神さまが「お造りになったすべてのもの」の一つ一つが、神さまのみこころにかなったよいものであるということ、その全体がまったき調和のうちに存在していて、神さまの栄光を現すものとしての実を結ぶものであったということを意味しています。しかし、それだけでは、まだ、この世界は、 見よ。それは非常によかった。 と言われる状態になっていません。 実は、このことには中心があります。それは、神さまがご自身のお造りになったこの世界を、神のかたちに造られた人にお委ねになったということです。そして、このことをもって、この世界は、 見よ。それは非常によかった。 と言われる状態になったのです。 造り主である神さまが神のかたちに造られた人に委ねられた使命が、基本的に、歴史を造る使命であるということは、この世界が歴史的な世界として造られたことによっています。そのことについてはすでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、再確認の意味も込めて、簡単にまとめておきましょう。 天地創造の御業の記事は創世記1章1節〜2章3節に記されています。そこには、神さまが6日にわたって創造の御業を遂行され、この世界のすべてのものをお造りになったこと、そして、第7日にその御業から休まれ、その日を祝福して聖別されたことが記されています。この場合の「日」は神さまの天地創造の御業の「日」であって、必ずしも、私たちにとっての日、すなわち24時間の日であるとは限りません。 神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる方です。それで、その知恵も力も無限です。神さまには、できないことはありません。 もちろん、神さまは悪いことをすることはできません。それは、神さまの御力に限界があるということではなく、神さまは決して悪をなそうとは思われないということです。私たち人間の場合には、あることをしたいと思っても、自分に力がないためにできないということがあります。けれども、神さまにはそのようなことはありません。神さまはご自身がなそうと思われることはすべて成し遂げることがおできになります。 それで、神さまは、それがご自身のみこころであれば、一瞬のうちにこの世界のすべてのものをお造りになることができます。けれども、実際には、神さまは6日にわたって創造の御業を遂行され、この世界をお造りになられました。このこと自体が、この世界が時間的、歴史的な世界であることを示しています。 そればかりではありません。この神さまの創造の御業は、第6日で終ってはいません。もちろん、1章31節の、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。 という御言葉に示されているとおり、御業そのものは第6日で終っています。しかし、第7日のことを記している2章1節〜3節には、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と記されています。 創造の御業を休まれた神さまは、「第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた」のです。神さまは第6日に完成したこの世界を祝福して聖別されたのではなく、第7日を祝福して聖別されました。この第7日はいまだ閉じてはいません。つまり、この第7日がこの世界の歴史の時であり、この第7日において、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすように召されているのです。 そして、神さまはこの第7日をご自身の安息の時として祝福して聖別されました。これは、この第7日に造られる歴史が、造り主である神さまとのかかわりを中心としたものであることを意味しています。このように、この第7日は、神さまの安息の時でありつつ、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たす時です。これは、神のかたちに造られた人が造る歴史と文化が、造り主である神さまの栄光を現し、造り主である神さまを礼拝することを目的としていること、そして、最終的には、神さまの安息の完成を目的としていることを意味しています。 このように、神さまの創造の御業そのものが、神さまの安息の完成に至るという目的をもったものです。その意味で、神さまの創造の御業そのものが歴史的なものです。何の目的もなく過ぎていくことは歴史的とは言えません。6日にわたり、7日に至る、神さまの創造の御業は明確な目的のある御業です。 神さまがお造りになったこの世界が歴史的な世界であることを、別の面から見てみましょう。 1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。これは1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事全体の見出しに当たります。「天と地」という言葉は、対照的な二つの言葉を連ねて「すべての・・・」を表す表現の仕方(メリスムス)です。この場合は、「天」と「地」という対照的な二つの言葉を連ねて、存在する「すべてのもの」を表しています。しかも、これは秩序立てられている「すべてのもの」を表しています。「宇宙」を表わす言葉としては、ギリシャ語には「コスモス」という言葉がありますが、ヘブル語にはそのような言葉がありません。それで、ヘブル語では「天と地」という言い方をするわけです。ここでは、まったき調和と秩序のうちに存在しているこの世界のすべてのものは、神さまがお造りになったということを示しています。 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉では、日本語訳だけでなく、ヘブル語でも「初めに」という言葉が最初に出てきて強調されています。もともとヘブル語聖書は子音字だけで表されておりましたが、読み方が分からなくなってしまうのを防ぐために、母音記号が作られて、それによって読み方が保存されるようになりました。その子音字のみに注目しますと、、この「初めに」という言葉(ブレーシート)の最初の三つの子音字と、その次にくる「創造した」という言葉(バーラー)の子音字が同じです。このようにして、この「初めに」という言葉と「創造した」という言葉がつなげられています。このようなつなぎ方は「頭韻法」と呼ばれます。これによって、この世界には「初め」があり、その「初め」は神さまの創造の御業によっているということを示しています。 この「初め」は、神さまがお造りになったこの世界の「初め」であり、この世界が時間的、歴史的な世界として造られていることを示しています。 また、この、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉の「天と地」は「すべてのもの」を表していました。ここでは、「天と地」という言葉によって表わされているこの世界のすべてが、神さまの創造の御業によって始まっているということを示しています。その意味で、この「初めに」の「初め」は、「絶対創造の初め」を指しており、この創造の御業が、いわゆる「無からの創造」であることを示しています。 この世界は、時間的な流れをもって変化している世界です時間はこの世界の時間であり、この世界が造られなかったとしたら時間もありませんでした。私たちは、この世界に属していますので、時間の中にあって変化しています。私たちの感覚では、時間は永遠の前からあり、永遠に流れているというように感じます。しかし、時間は、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉に示されている、神さまの創造の御業とともに始まっています。そして、神さまはこの世界を保ち続けてくださることを御言葉において示してくださっています。そのかぎりにおいて、時間も続きます。 このように、1章1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 という言葉は、1章1節〜2章3節に記されている、神さまの創造の御業の記事全体をまとめる言葉です。これによって、この世界は、基本的に歴史的な世界であり、この世界のすべてのものが神さまの創造の御業によって造られたことが示されています。 これに続く2節には、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されています。 この2節の初めには接続詞(ウェ)があって、「さて、地は」というような感じになっています。これは、2節においては、この記事の視点と関心が「地」に移されていることを示しています。1節の「天と地」という言葉は、私たちの言葉で言えば「宇宙」に当たります。そして、1節では、この宇宙のすべてのものが神さまの創造の御業によって造られたと言われています。そして、このことを踏まえたうえで、2節からは、その視点と関心を「地」に移し、「地」のことを記しています。 結論的なことを言いますが、創造の御業の記事が、この2節でその視点と関心を「地」に移し、「地」のことを記しているのは、この記事が、私たちに対する神さまの啓示としての意味をもっているからです。それだけですと、これは私たちの都合に合わせたことであるということになります。しかし、これにはそれ以上の理由があると考えられます。それは、人が神のかたちとして造られ、この「地」に住まうものとして造られているからです。2節以下に記されていることは、神のかたちに造られるようになる人が住むべき「地」に焦点を合わせ、「地」に関心を寄せていると考えられます。 神さまは、6日にわたる創造の御業の遂行によって、この2節で、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われている状態から、31節で、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われている状態を造り出し、整えていかれました。 この神さまの創造の御業には進展が見られます。より早くに造られたものは、より基礎的なものであり、その後に造り出されるものが存在するために必要なものです。そのように、より基礎的な環境が造り出され、整えられた後に、第5日において、「いのちあるもの」を造り出されました。20節〜23節には、 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」こうして、夕があり、朝があった。第五日。 と記されています。 21節では、1節で用いられていた「創造された」という言葉(バーラー)が用いられています。この言葉は、1節の後には、ここで初めて用いられています。これによって、この「いのちあるもの」の創造が、神さまの創造の御業において新しい段階を迎えたことを示しています。言うまでもなく、それは神さまご自身がいのちそのものであられ、生きておられるお方であられることを映し出すもの、「いのちあるもの」が造られたことによっています。 そして、24節、25節に、 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。 と記されていますように、生き物たちは第6日にも造られました。しかし、ここには、先ほどの「創造された」という言葉は用いられていません。 次に「創造された」という言葉が出てくるのは27節です。そこには、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と記されています。ここには、「創造された」という言葉が3回も用いられています。このことは、神さまの創造の御業がまったく新しい段階を迎えたことを示しています。 「野の獣」、「家畜」、「はうもの」たちは、人と同じく第6日に造られました。また、人もこれらの生き物と同じように、「いのちあるもの」と分類されるでしょう。しかし、人とこれらの生き物との間には決定的な違いがあるのです。それは、人が神のかたちに造られているということです。先ほど、20節〜23節、そして、24節、25節を引用しましたが、そこに記されている生き物たちのことは、「その種類にしたがって野の獣」、「その種類にしたがって家畜」、「その種類にしたがって地のすべてのはうもの」というように、それぞれが「その種類にしたがって」造られたということが繰り返し語られています。ところが、人の場合には「その種類にしたがって」造られたということは言われていません。そのかわりに、人は「神のかたちに」造られたと言われています。ここに、人と、生き物たちとの決定的な違いがあります。 「神のかたちに」造られている人は、基本的に、造り主である神さまとの交わりに生きるものです。神のかたちに造られた人には造り主である神さまへのわきまえがあり、初めから神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きていました。最初の人アダムは造られたその時から、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものとなりました。それは、外から教えらえてそうなったということではありません。それが、神のかたちに造られた人の最も基本的なあり方です。また、最初にアダムが造られた時には、エバはまだ造られてはいませんでした。ですから、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりが先に会ったのです。そして、そのように神さまとの関係にあって生きるものとしての人同士が出会って、お互いの交わりのうちに生きるようになりました。 これに対して、「その種類にしたがって」造られた生き物たちは、基本的に、自分たち同士のつながりで生きています。そして、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまう前には、神のかたちに造られた人との関係のうちにも生きていました。けれども、生き物たちは、造り主である神さまを知りませんし、神さまとの交わりのうちに生きることもありません。 このように、神のかたちに造られた人は、基本的に、造り主である神さまを礼拝することを中心とする、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行するように召されています。そして、この使命が神さまのみこころにしたがって果たされ、歴史が完成する時こそが、神さまの安息の完成の時であったはずです。 しかし、実際には、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。これによって、神さまの安息はかき乱されてしまいました。ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていたものが、その愛を退け、ご自身に背を向けるものとなってしまったのです。そればかりか、その人間自身が罪の力に捕らえられ、悲惨のうちに死と滅びに至る道を歩むものとなってしまいました。また、罪がもたらす霊的な闇のために、そのような自分の現実にに気がつくこともできないもとなってしまいました。このような現実に対して、神さまが安息されるということは考えられません。 これに対して、父なる神さまはご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは、その十字架の死によって、私たちご自身の民の罪をまったく贖ってくださいました。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、私たちをご自身の復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。これによって、私たちは、再び、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものへと回復していただいています。 父なる神さまは、今、ご自身の右の座に着座された栄光のキリストをとおして、私たちご自身の民を治めてくださっています。栄光のキリストは、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちを導いてくださり、新しい歴史を造るものとしてくださっています。これは、私たちご自身の民が、御霊によって父なる神さまを礼拝することを中心として、父なる神さまの栄光のために生きることによって造られる歴史です。それは、この世の目からは隠された歴史です。しかし、それは、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から御霊を注いでくださったときから、確かに築かれてきた歴史であり、終りの日に再臨される栄光のキリストによって完成していただくことになる歴史です。この歴史の完成こそは、父なる神さまの安息の完成の時であるのです。その時には天地創造の御業の第7日は完成し、より栄光に満ちた神さまのご臨在のある新しい天と新しい地が出現し、その新しい天と新しい地における歴史が、神さまのまったき安息に包まれた、いわば「第8日」の歴史として造られるはずです。 私たちはこのような御霊による新しい時代の歴史を造るものとして召されています。そして、私たちに力を与えてくださって、新しい時代の歴史を造ることができるようにしてくださる方は、栄光のキリストをとおしてお働きになる父なる神さまです。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りは、御霊による新しい時代の歴史が造られ、ついには完成に至ることを祈り求めるものでもあります。私たちは、この祈りを祈りつつ、新しい時代の歴史を造る働きに参与します。 |
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