(第130回)


説教日:2007年12月16日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、



という祈りの中心主題である父なる神さまのみこころについて、特に、その被造物全体にかかわるみこころについてお話しします。
 父なる神さまの被造物全体にかかわるみこころは、エペソ人への手紙において、父なる神さまの「みこころの奥義」として示されています。その父なる神さまの「みこころの奥義」のことは1章10節において、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。(新改訳第3版)

と記されています。
 ここで、

いっさいのものがキリストにあって・・・一つに集められる

と言われていることは、「いっさいのもの」が「キリストにあって」集められるということだけでなく、「キリスト」を中心として集められるということをも意味しています。
 ここでは、この世界に存在するすべてのものと起こり来るすべての出来事が、栄光のキリストにあって、また、栄光のキリストを中心として集められると言われています。それは、この世界に存在するすべてのものと起こり来るすべての出来事が、栄光のキリストとのかかわりにおいて意味あるものとなり、栄光のキリストを中心としてまったき調和のうちに存在するようになるということを意味しています。これによって、この世界のすべてのものごとが神さまのご栄光をより豊かに現すようになるのです。


 この世界は神さまがお造りになったものです。それで、本来は、この世界のすべてのものが造り主である神さまの栄光を現すものです。神さまの創造の御業を記している創世記1章31節には、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されています。神さまが「お造りになったすべてのもの」は、神さまがご覧になっても「非常によかった」のです。それは、神さまが「お造りになったすべてのもの」の一つ一つが、神さまのみこころにかなったよいものであるということとともに、その全体がまったき調和のうちに存在していて、神さまの栄光を現すものとしての実を結ぶものであったということを意味しています。
 このことを新約聖書に記されている御言葉の光の下で見てみましょう。
 ヨハネの福音書1章1節〜3節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 ここに記されていることについてはいろいろな機会にお話ししたことがありますので、簡単にまとめておきましょう。ここで「ことば」として紹介されているのは、言うまでもなく、御子イエス・キリストです。
 まず、

 初めに、ことばがあった。

と言われていますが、この「初めに」は創世記1章1節で、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「初めに」に相当します。そして、「ことばがあった」の「あった」は(未完了時制で)過去の継続を表しています。ですから、

 初めに、ことばがあった。

というのは、天地創造の御業の「初めに」、すなわち、この時間的な世界の「初めに」すでに「ことば」は存在していたということを表しています。ですから、「ことば」は、この時間的な世界とともに存在し始めた方ではなく、永遠の存在であられることが示されています。もちろん、神さま以外に永遠の存在はありません。1節の最後で、

 ことばは神であった。

と言われているとおり「ことば」は神であられます。
 1節で続いて、

 ことばは神とともにあった。

と言われていることは、この永遠の「ことば」が父なる神さまとの愛の交わりのうちに充足しておられることを示しています。2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われているのは、「初めに」という言葉を加えることによって、「ことば」が永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちに充足しておられることを示しています。
 そして、3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われています。これによって、この世界の「すべてのもの」は、例外なく、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちに充足しておられる「ことば」によって造られたことが示されています。

造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

という言葉は、これには例外がないことを示しています。
 このことから、この世界の「すべてのもの」は永遠の「ことば」なる方によって造られ、この方によって支えられ、この方との関係にあって存在していることが分かります。
 同じことは、コロサイ人への手紙1章15節〜17節にも示されています。そこには、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と記されています。
 15節の初めでは、

 御子は、見えない神のかたちであり

と言われています。ここでは父なる神さまと御子イエス・キリストとの関係が示されています。この「御子」は関係代名詞で表されていて、13節に出てくる「愛する御子」(直訳「ご自身の愛する御子」)を受けています。その13節と14節では、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と言われています。ですから、これを受けて15節で、

 御子は、見えない神のかたちであり

と言われているときの「御子」は、私たちご自身の契約の民のために贖いの御業を遂行してくださった御子イエス・キリストのことです。
 ここでは父なる神さまが「見えない神」であると言われています。これは、しばしば引用していますテモテへの手紙第1・6章15節後半と16節に、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と記されていることに当たります。ここでは神さまのことが「人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」と言われていますが、もちろん、このことは人間だけでなく、御使いたちをも含めたあらゆる被造物に当てはまることです。いかなる被造物も神さまを直接的に見ることはできません。
 コロサイ人への手紙1章15節前半では、「御子」が「見えない神のかたち」であると言われています。これは、この方が完全な意味において父なる神さまと一体であられ、父なる神さまを私たちに啓示してくださっておられる方であるということを意味しています。これと同じことはヨハネの福音書1章18節に、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。父なる神さまを直接的に見て、知っておられる方、それは、ここで「父のふところにおられるひとり子の神」と言われている方、すなわち、ご自身が永遠の神であられ、父なる神さまと完全な愛において一つであられるお方、御子イエス・キリストです。
 コロサイ人への手紙1章15節ではさらに、

御子は造られたすべてのものより先に生まれた方です。

と言われています。この前の、

 御子は、見えない神のかたちであり

という言葉は、御子と父なる神さまとの関係を示していました。これに対して、

御子は造られたすべてのものより先に生まれた方です。

という言葉は、御子と「造られたすべてのもの」との関係を示しています。
 この「造られたすべてのものより先に生まれた方」は、文字通りには「造られたすべてのものの長子」です。この「先に生まれた方」あるいは「長子」と訳されている言葉(プロートトコス)は、時間的に先にあることだけでなく、位において高いもの、順位において優先するものであることをも表します。
 ここで御子が「造られたすべてのものより先に生まれた方」、「造られたすべてのものの長子」と言われているということから、御子も造られたものであると論じることはできません。というのは、第1に、もし御子が造られたものであるなら、今お話ししましたように、御子はヨハネの福音書1章18節にあかしされているような意味での「見えない神のかたち」ではありえないことになってしまうからです。第2に、御子がどのような意味で「造られたすべてのものより先に生まれた方」、「造られたすべてのものの長子」であられるかが、続く16節において、

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

と説明されているからです。
 この16節では、最初に要点が示されていて、

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。

と言われています。これは「万物」を主語として受動態で記されていますが、能動態で言えば、父なる神さまが「万物」を「御子にあって」お造りになったということになります。いずれにしましても、御子が「造られたすべてのものより先に生まれた方」、「造られたすべてのものの長子」であるのは、「万物は御子にあって造られた」からであるということです。
 新改訳では続いて、

天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。

と訳されています。最後の「すべて御子によって造られたのです」という言葉は原文にはない補足です。この部分は、その前で、

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。

と言われているときの「万物」を説明しています。それを生かして訳せば、

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、王座も主権も支配も権威も。

となります。このように「万物」を説明するのに「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、王座も主権も支配も権威も。」という言葉を積み上げています。
 これは「天にあるもの、地にあるもの」の組み合わせ、「見えるもの、見えないもの」の組み合わせ、そして、「王座も主権も支配も権威も」の三つのグループに分けられます。
 「天にあるもの、地にあるもの」という組み合わせも「見えるもの、見えないもの」という組み合わせも、それ自体で「万物」(タ・パンタ「いっさいのもの」)を意味しています。ここでは、「万物」、「天にあるもの、地にあるもの」、「見えるもの、見えないもの」というように重ねられてこの上なく強められているわけです。これによって、どのように区分されるとしても、「万物は御子にあって造られた」ものであるということが示されています。
 これで十分すぎるほどですが、さらに「王座も主権も支配も権威も」という言葉が加えられています。これを先ほど引用しました13節で、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と言われていることや、2章15節で、

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

と言われていることとのかかわりで見ますと、「王座も主権も支配も権威も」というのは「暗やみの圧制」を構成しているものたち、すなわち暗やみの主権者たちということになります。同時に、2章18節で、

あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。

と言われていることとのかかわりで見ますと、コロサイにおいてなされていた「御使い礼拝」にかかわる御使いたちのことである可能性もあります。この「御使い礼拝」は人々が御使いを礼拝することを意味していますが、「御使いの礼拝」すなわち御使いが神を礼拝することを意味するという意見もあります。いずれであっても、コロサイにおいて御使いが重んじられていたことに代わりはありません。
 「王座も主権も支配も権威も」についての二つの可能性は矛盾するものではありませんから、ここでは御子に敵対する霊たちだけでなく御使いたちをも意味している可能性もあります。そして、御子に敵対して働いている暗やみの主権者たちさえも、また、コロサイにおいて重んじられている御使いたちでさえも、御子によって造られたものであるということが、いわば、念を押す形で付け加えられていると考えられます。
 1章16節では、さらに、

万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

と言われています。この、

 万物は、御子によって造られ

ということは、ヨハネの福音書1章3節において、

 すべてのものは、この方によって造られた。

と言われていることと同じことです。
 これに続く、

万物は御子のために造られたのです。

ということは、「万物」が造られた目的を示しています。
 これを新改訳のように、

 (万物は御子のために造られた

と理解すれば、「万物」は御子の栄光のために造られたということになります。
 これはまた、

 (万物は御子へと造られた

すなわち、「御子を目的として造られた」と理解することもできます。これは、父なる神さまの「みこころの奥義」を記しているエペソ人への手紙1章10節で、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

と言われていることに符合しています。この「いっさいのもの」(タ・パンタ)はコロサイ人への手紙1章16節の「万物」と同じ言葉で表わされています。すでにお話ししましたように、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

ということは、「いっさいのもの」が「キリストにあって」集められるということだけでなく、「キリスト」を中心として集められるということをも意味しています。そして、それは、「いっさいのもの」が「キリスト」とのかかわりにおいて意味あるものとなり、「キリスト」を中心としてまったき調和のうちに存在するようになるということを意味しています。これによって、この世界のすべてのものごとが父なる神さまと御子イエス・キリストの栄光をより豊かに現すようになるのです。
 このように見ますと、コロサイ人への手紙1章16節の新改訳で、

 (万物は御子のために造られた

と訳されている部分は、二つの理解のどちらを取っても、同じことに行き着きます。
 これに続いて17節では、

御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と言われています。
 最初の、

 御子は、万物よりも先に存在し

の主語である「御子」(直訳「」)は強調の形です。「この方こそは」という感じでしょう。また、「先に」という言葉(プロ)は、基本的には、時間的な意味で「先に」ということを表しますが、時には、位において「上に」ということを表します。ここでは、15節で、御子が「造られたすべてのものより先に生まれた方」であられるといることと同じように、御子が時間的な意味で「万物よりも先に存在し」ておられることとともに、というより、それ以上に、位において「万物」の上にあることをも意味していると考えられます。これは、「万物」が御子を中心として、また御子を目的として存在しているということにつながっています。
 17節では続いて、

 万物は御子にあって成り立っています。

と言われています。ここでは「万物」が御子のうちに存在していることが示されていますが、同時にそれ以上のことが言われています。「万物」は御子のうちにあることによって、秩序づけられており、調和のうちに揺るぐことなく保たれており、造り主である神さまの栄光を現すものとしての実を結ぶものとされているということです。
 これらのことから、造られたこの世界の「いっさいのもの」の本来のあるべき姿、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおしてこの世界の「いっさいのもの」をお造りになったときの姿が分かります。「いっさいのもの」は「キリストにあって」造られ、「キリストにあって」保たれています。「いっさいのもの」は「キリスト」とのかかわりにおいて存在し、「キリスト」とのかかわりにおいて意味あるものとなり、「キリスト」を中心としてまったき調和のうちに存在し、「キリスト」によって神さまの栄光を現すものとして実を結ぶものとされているです。これが、創世記1章31節に、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されている状態の世界の姿です。
 しかし、これは、神さまによって造られたこの世界の本来の姿です。実際には、このような豊かな意味をもつものとして造られたこの世界の「いっさいのもの」が、罪をとおして働きかける暗やみの主権者たちの働きと、その働きに欺かれた、神のかたちに造られている人間の罪による堕落によって虚無に服してしまっています。
 これに対して、父なる神さまの「みこころの奥義」のことを記しているエペソ人への手紙1章10節において、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

と言われているのは、父なる神さまが「キリストにあって」、「いっさいのもの」をその本来の姿に回復してくださること、そればかりでなく、それをさらに栄光あるものとしてくださるということを意味しています。
 私たちは、このことの完全な実現、父なる神さまの「みこころの奥義」の完全な実現を求めて、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈ります。

 


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