(第129回)


説教日:2007年12月9日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節~15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りは、基本的に、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、ていねいな形で祈り求めるものであると考えられます。
 これまで、この祈りの中心主題である父なる神さまのみこころについて二つの面からお話ししてきました。
 最初に、父なる神さまのみこころの中心にあることについてお話ししました。それは、ヨハネの福音書6章39節、40節に記されている、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えに示されている父なる神さまのみこころです。
 次に、このイエス・キリストの教えに示されている父なる神さまのみこころを中心として、さらに、被造物全体にかかわるみこころとして広がっている父なる神さまのみこころについてお話ししてきました。そして、その手がかりとして、エペソ人への手紙1章3節、20節、2章6節、3章10節、6章12節に出てきます「天的な領域において」(エン・トイス・エプウーラニオイス)という言葉に注目してお話ししてきました。
 今日も、この被造物全体にかかわる父なる神さまのみこころについてお話しします。


 この「天的な領域において」という言葉が最初に出てくる1章3節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と記されています。そして、続く4節~14節において、「天にあるすべての霊的祝福」、「天的な領域にある」「すべての霊的祝福」がどのようなものであるかが説明されています。
 4節、5節には、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。父なる神さまは永遠の聖定において、私たちをキリストにあって、また、キリストと一つに結び合わされたものとなるようにお選びになりました。そして、私たちを「御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」定められました。
 そして、7節~10節には、

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。(新改訳第3版)

と記されています。
 ここでは、4節、5節に記されている、父なる神さまの永遠の聖定におけるご計画が、歴史において遂行された御子イエス・キリストによる贖いの御業によって、私たちの間に実現していることが記されています。まず、父なる神さまが私たちを「豊かな恵み」によって、イエス・キリストの「血による贖い、罪の赦し」にあずからせてくださったことが示されています。そして、その私たちにご自身の「みこころの奥義」を知らせてくださったことが示されています。
 この父なる神さまの「みこころの奥義」については、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

と言われています。
 ギリシャ語の原文では、

いっさいのものがキリストにあって一つに集められる

という言葉が先に出てきます。そして、これ続いて、

 天にあるもの地にあるものがこの方にあって

という言葉が出てきます。この、

 天にあるもの地にあるものがこの方にあって

という言葉は、その前の、

 いっさいのものがキリストにあって

ということを説明するものです。それで、「天にあるもの地にあるもの」という言葉は、「いっさいのもの」のことを表しています。
 先週は、ここエペソ人への手紙1章10節では「いっさいのもの」という言葉と「天にあるもの地にあるもの」という言葉の間に微妙な意味合いの違いがあるということについてお話ししましたが、今日はそのことは省略いたします。
 ここで「いっさいのもの」という言葉も「天にあるもの地にあるもの」という言葉も中性複数形で示されていて、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものだけでなく、この世界で起こるすべての出来事をも示しています。ここでは、そのすべてが栄光のキリストにあって、また、栄光のキリストを中心として、まったき調和のうちに存在するようになると言われています。これによって、この世界のすべてのものが、それぞれの特性にしたがって、神さまのご栄光をより豊かに映し出すようになるのです。
 今から2千年前にイエス・キリストが十字架にかかって贖いの御業を成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、このことの実現のための土台は据えられています。イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業が土台です。そして、イエス・キリストが「」に上って父なる神さまの右の座に着座され、そこからご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊を遣わしてくださったことによって、このことが私たちの間に実現し始めています。御霊はイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を私たちに当てはめてくださいます。また、終りの日に栄光のキリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、また、御霊によって、私たちご自身の契約の民を栄光あるものによみがえらせてくださり、新しい天と新しい地を造り出してくださることによって、このことは完全な形で実現し完成します。
 繰り返しお話ししていますように、私たちが主の祈りの第3の祈りにおいて、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈るのは、このことが完全に実現すること、完成することを祈り求めることでもあります。
 エペソ人への手紙において「天的な領域において」という言葉が最初に出てくるのはすでに引用しました1章3節ですが、その次に出てくるのは1章20節です。その1章20節と21節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されています。ここで「天上において」と訳されている部分が「天的な領域において」という言葉です。
 すでにいろいろな機会にお話ししましたように、父なる神さまが栄光のキリストを「天上においてご自分の右の座に着かせて」くださったことは、約束の贖い主、メシヤのことを預言している詩篇110篇1節に、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることの成就です。それで、エペソ人への手紙1章21節に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は詩篇110篇1節に出てくる「あなたの敵」すなわち私たちの贖い主、栄光のキリストに敵対して働いている暗やみの主権者たちのことです。ここでは、「すべての支配、権威、権力、主権」が、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストの主権の下に服するようになったことが示されています。先週お話ししました黙示録12章9節に記されていることとしては、サタンとその手下である悪霊たちが天においていっさいの権威を失ったということです。
 もちろん、ここエペソ人への手紙1章21節では、これに続いて、

また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました

と言われています。父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストは、およそ考えうるあらゆる権威の上にはるか高く上げられた主です。
 エペソ人への手紙において、次に「天的な領域において」(エン・トイス・エプウーラニオイス)という言葉が出てくるのは、すでに何度か取り上げています2章6節です。そこでは、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われています。この「天の所に」という部分が「天的な領域において」という言葉で表わされています。これを2章4節からのつながりで見てみましょう。そこには、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 ここに記されていることは、父なる神さまが、イエス・キリストにあって、また、御霊によって、私たちに対してなしてくださったことです。
 繰り返しになりますが、御霊はイエス・キリストがすでに成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになります。御霊は、まず、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださいました。そして、私たちをイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださって、私たちの罪を贖ってくださり、栄光のキリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。
 ここまでが先ほどのエペソ人への手紙2章4節から6節の前半に記されていることです。普通ですと、父なる神さまが栄光のキリストをとおして私たちに対してなしてくださっていることについてのお話は、次のように進みます。
 私たちは栄光のキリストの復活のいのちによって新しく生まれたことによって、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業を信じることができるようになりました。私たちはこのイエス・キリストを信じる信仰によって父なる神さまの御前に義と認めていただき、子としての身分を与えていただいています。そして、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としていただいています。今、私たちは、御霊のお働きによって導いていただいて、栄光のキリストのかたちに似た者へと造り変えていただいています。そして、終りの日には栄光のキリストが再臨されて、私たちを栄光あるものへとよみがえらせてくださり、ご自身の栄光のかたちにまったく似た者としてくださいます。
 聖書にはこれらのことが、父なる神さまがイエス・キリストにあって、また御霊のお働きによって、私たちに対してなしてくださっていることとして示されています。しかし、エペソ人への手紙2章4節~6節では、これらのことに関心を寄せてはいません。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、

と述べたあと、直ちに、

 ともに天の所にすわらせてくださいました。

と述べています。
 これは、私たちが栄光のキリストと「ともに天の所にすわらせて」いただいていることを示しています。私たちは、先ほど引用しました1章20節、21節において、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

とあかしされている栄光のキリストと一つに結び合わされており、そのことのゆえに、栄光のキリストと「ともに天の所にすわらせて」いただいているのです。
 エペソ人への手紙において、次に「天的な領域において」(エン・トイス・エプウーラニオイス)という言葉が出てくるのは、3章10節です。10節と11節には、

これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

と記されています。
 ここには「教会を通して」という言葉が出てきます。エペソ人への手紙でこれより前に「教会」のことが出てくるのは、1個所だけで、1章22節、23節です。そこには、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 ここに記されていることにつきましては、すでにいろいろな機会にお話ししましたが、日を改めて、今お話ししていることとのかかわりでもお話ししたいと思います。ここでは一つのことに注意したいと思います。それは、これに先立つ1節20節、21節には、すでに引用しましたように、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されているということです。このことを受けて記されている22節、23節においては、「教会」は「天的な領域において」父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストの「からだ」であるということが示されています。
 言うまでもなく、この栄光の「キリストのからだからだ」である「教会」は、私たち「」にある主の民によって成り立っているだけではなく、肉体的な死をとおして、栄光のキリストとともに「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」に入れていただいている主の民によっても成り立っています。これは「」と「」を貫き、歴史を通して存在する一つの「教会」で、一般に「普遍の教会」と呼ばれます。
 さらに、このことを、2章4節~6節で、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われていることの光で見ますと、「教会」は栄光のキリストと「ともに天の所に[天的な領域において]すわらせて」いただいている主の民によって成り立っています。2章4節~6節に記されていることは、肉体的な死をとおして、栄光のキリストとともに「第三の天」に入れていただいている主の民にも当てはまりますが、ここで言われているのは、私たち「」にある主の契約の民のことです。
 このことから、「キリストのからだからだ」である「教会」は、「」にあるとしても、「天的な領域において」重大な意味をもっているものであることが分かります。
 このようなことを背景として、3章10節、11節には、

これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

と記されています。
 特に、「教会」が1節20節、21節において、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

とあかしされている栄光の「キリストのからだからだ」であるということを考慮しますと、ここに記されている「天にある支配と権威」は、私たちの贖い主、栄光のキリストに敵対している暗やみの主権者たちのことであると考えられます。
 また、ここで、

今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示される

と言われているときの「教会を通して」ということは、一般に、「教会」の働きによるあかしをとおしてということではなく、「教会」の存在そのものをとおしてということであると理解されています。栄光の「キリストのからだ」である「教会」の存在そのものが、「天にある支配と権威とに対して」示される父なる神さまの「豊かな知恵」の現れであるということです。
 この場合も、「教会」には、肉体的な死をとおして、栄光のキリストとともに「第三の天」に入れていただいている主の民も含まれていると考えることはできます。けれども、これに先立つ8節、9節に、

すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。

と記されていることとのかかわりで見ますと、ここに記されている「教会」は、パウロによる福音の宣教の結果、「異邦人」たちがユダヤ人たちとともに、栄光のキリストのご臨在の御許に集められたことによって成り立っているものです。それで、ここでは「」にある「教会」の存在に焦点が合わされていると考えられます。また、

今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示される

と言われているときの「」という言葉(ヌン)も、このことに沿っていると考えられます。
 このように、父なる神さまは「」にある「キリストのからだからだ」である「教会」の存在をとおしても「天にある支配と権威とに対して」ご自身の「豊かな知恵」をお示しになられます。
 これらのことから、今、私たちが「」にある小さな群れでありながらも、栄光の「キリストのからだからだ」である「教会」として存在していることは、父なる神さまの「豊かな知恵」の現れであり、「天的な領域において」重大な意味をもっているということが分かります。
 私たちとしましては、このようなことを深く心に留めて、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈り続けたいと思います。

 


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