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説教日:2007年12月2日 |
聖書の最初の言葉である創世記1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。これは、創世記1章1節〜2章3節に記されている神さまの創造の御業の記事の見出しに当たります。そして、神さまがこの世界の「すべてのもの」を創造されたことを示しています。ギリシャ語には「宇宙」を表す言葉として「コスモス」があります。しかし、ヘブル語にはそのような言葉がありません。それで、この創世記1章1節のように「天と地」という言い方によって、この世界の「いっさいのもの」を表します。対比される二つの言葉を重ねることによって「すべての」という意味合いを伝えるのです。このような表現の仕方を「メリスムス」と呼びます。このように、聖書の中では「天」と「地」の組み合わせで、「この世界のすべてのもの」とか「この世界のすべての所」というようなことを表します。具体的にその個所に当たることはできませんが、その例は、エレミヤ書23章24節(「天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」)やイザヤ書66章1節(「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」)、新約聖書では、マタイの福音書28章18節(「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」)などに見られます。 このようなことから、エペソ人への手紙1章10節でも、「天にあるもの地にあるもの」は「いっさいのもの」を意味していると理解することもできます。けれども、エペソ人への手紙1章10節に記されていることには、少し違いがあります。というのは、ここでは、先に、 いっさいのものがキリストにあって一つに集められる と言われたあとで、「いっさいのもの」をさらに「天にあるもの地にあるもの」と説明しているという構造になっています。このような言い換え、あるいは説明を加えるという構造は、創世記1章1節、エレミヤ書23章24節、イザヤ書66章1節、マタイの福音書28章18節などでは見られません。それで、エペソ人への手紙1章10節で「いっさいのもの」をさらに「天にあるもの地にあるもの」と説明していることには、何らかの意味があるのではないかと考えられます。 実際、エペソ人への手紙を全体として見てみますと、「天」にあることと「地」にあることとが別々に述べられている個所がいくつかあります。それは、先ほどお話ししました、「天的な領域において」(エン・トイス・エプウーラニオイス)という言葉が用いられている、1章3節、20節、2章6節、3章10節、6章12節です。1章3節はすでに引用しましたので、それ以外の個所を見てみましょう。1章20節には、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、 と記されています。そして、2章6節には、 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 と記されています。また、3章10節には、 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、 と記されています。さらに、6章12節には、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と記されています。これらの「天的な領域において」という言葉が用いられている個所においては、「天的な領域において」ということが「地」においてということと組み合わされてはいません。 一方、「天」におけることと「地」におけることが関連づけられているいる個所を見てみましょう。最初に出てくるのは、今、問題としています1章10節の「天にあるもの地にあるもの」です。次に出てくる個所は3章14節、15節です。そこには、 こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。 と記されています。その次は、4章9節10節です。そこには、 この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。 と記されています。これらの個所においては、「地」におけることと「天」におけることが関連づけられています。 これらのことから、エペソ人への手紙では、「天」におけることが「地」におけることと組み合わされている個所とともに、二つが組み合わされることなく述べられている個所がいくつがあることが分かります。そして、このことから、父なる神さまの「みこころの奥義」のことを述べている1章10節において、まず、それは、 いっさいのものがキリストにあって一つに集められる ことであると言われたあと、さらに、 天にあるもの地にあるものがこの方にあって という説明が加えられていることには意味があると考えられます。これは、神さまの贖いの御業の御業の遂行の歴史の今の段階、すなわち、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられてから、世の終わりに至るまでの間においては、「天にあるもの地にあるもの」をひとまとめにして見ることはできない面があることを示していると考えられます。「天にあるもの」と「地にあるもの」との間に、ある種の隔たりがあるということです。なお、この場合の、「天にあるもの」と「地にあるもの」の「もの」は文法的には中性の複数形ですから、「ものごと」というような広い意味をもっています。存在する個々のものすべてというだけでなく、それらの相互関係によって引き起こされるあらゆる出来事をも含んでいるということです。 このような「天にあるもの」と「地にあるもの」との間に、ある種の隔たりがあるということは、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りにおける「天にあってのように、地においても」(直訳)という言葉にも見られることです。その意味で、エペソ人への手紙1章10節で、 天にあるもの地にあるものがこの方にあって と言われていることは、主の祈りの第3の祈りにおいて「天にあってのように、地においても」(直訳)と言われていることと対応していると思われます。 結論的には、このように考えられます。しかし、ここには考えておかなければならないことがあります。それは、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りにおいては、「天にあって」のことが、「地において」のことの標準、あるいは目標のようになっています。それで、何となく、「天にあって」のことには問題がないのではないかという印象を受けます。これに対しまして、先ほど見ました、エペソ人への手紙に出てくる「天的な領域において」(エン・トイス・エプウーラニオイス)という言葉が用いられている個所を見ますと、たとえば、6章12節には、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と記されています。ここでは「天的な領域において」なおもサタンをかしらとする暗やみの力や主権者たちが活動していることが示されています。これは、主の祈りの第3の祈りにおける「天にあって」のこととは違っているのではないかというような気がします。 けれども、6章12節において、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と記されていることは、1章20節、21節において、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と記されていることとの関連で理解しなければならないのです。すでにいろいろな機会にお話ししましたが、ここに出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたこととのかかわりで出てきます。それで、詩篇110篇1節の、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 という御言葉の成就であると考えられます。つまり、「すべての支配、権威、権力、主権」は、贖い主に敵対して働く、サタンをかしらとする悪霊たちであるのです。ですから、6章12節で、私たち主の民が霊的な戦いにおいて戦うように召されている「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちは、すでに、私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けてよみがえってくださり、「天」に上って父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストの主権の下に服しているのです。 このことに当たることが黙示録12章7節〜9節には、 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。 と記されています。 これらのことから分かりますように、私たち主の民が霊的な戦いにおいて戦うように召されている「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちは、すでに、「天」においては、そのいっさいの権威を失っています。 黙示録12章では、先ほど引用しました7節〜9節に続く10節〜13節において、 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。 「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。 と記されています。 このことから、なぜ、今この世すなわち「地」にある私たちが「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちとの霊的な戦いに召されているかが理解できます。13節で、 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。 と言われているときの「男の子」は約束のメシヤ、私たちの贖い主イエス・キリストのことです。そして、「男の子を産んだ女」は「地」にある教会のことです。この「女」は一二章の初めからの流れでは、古い契約と新しい契約の下にある教会を意味しています。そして、この一三節の段階では新しい契約の下にある教会を指しています。「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちは「天」から「地上に投げ落とされた」ことによって、「天」においてはいっさいの権威を奪われてしまっています。それで、「地」にある主の契約の民に対して最後の戦いを挑んでいると言われています。 これが、エペソ人への手紙6章12節で、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と言われていることの真相です。 この霊的な戦いは主の民の勝利に終ります。なぜなら、2章6節に記されていますように、父なる神さまは私たちを、 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて くださったからです。 黙示録12章11節でも、 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 と言われていました。これは、あくまでも霊的な戦いにおいて勝利したという意味であって、物理的な戦い、血肉の戦いにおいて勝利したという意味ではありません。 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 と言われていますように、物理的な戦い、血肉の戦いにおいては、「兄弟たちは」迫害を受けて苦しめられたのです。中には、殺された者たちもいたのです。 ローマ人への手紙8章31節〜39節には、 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 と記されています。 ここに記されている言葉を用いますと、霊的な戦いにおいてサタンをかしらとする暗やみの主権者たちが実現しようとしているのは、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すこと」です。そのために、地上において主の聖徒たちを迫害します。そして、死にまで追いやることもあります。けれども、契約の主の真実と恵みの確かさのために、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すこと」はできないのです。 これらのことを見据えますと、今は、「天にあって」のことと「地において」のことの間には、ある種の違いがあることが分かります。また、私たちの主、栄光のキリストが父なる神さまの右の座に着座しておられる「天にあって」のことの方が、「地において」のことの標準、あるいは目標となっているという面があることが分かります。 それで、私たちは、これらのことを踏まえて、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 と祈るのです。 |
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