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説教日:2007年11月25日 |
エペソ人への手紙では、この1章3節に出てくる「天にあるすべての霊的祝福」がどのようなものであるかが、4節〜14節において説明されています。 4節、5節には、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されています。父なる神さまはご自身の永遠の聖定において私たちをキリストにあって、また、キリストと一つに結び合わされたものとなるようにお選びになりました。そして、私たちを「御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」定められました。 そして、7節〜10節(新改訳第3版)には、 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。 と記されています。 ここでは、まず、父なる神さまが、永遠の聖定において「御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」定めておられる私たちを、「豊かな恵み」によって、イエス・キリストの「血による贖い、罪の赦し」にあずからせてくださったと言われています。そして、ご自身の「みこころの奥義」を知らせてくださったと言われています。さらに、この父なる神さまの「みこころの奥義」は、 いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。 ということにあると言われています。 ギリシャ語の原文では、 いっさいのものがキリストにあって一つに集められる という言葉が先に来て、「いっさいのものがキリストにあって」ということをさらに詳しく述べる、 天にあるもの地にあるものがこの方にあって という言葉が続いています。 先週詳しくお話ししましたが、ここで、 いっさいのものがキリストにあって一つに集められる と言われていることは、いっさいのものが「キリストにあって」集められるということだけでなく、いっさいのものが「キリストを中心として」集められるという意味合いを伝えていると考えられます。 また、ここでは、「キリストにあって」という言葉に「この方にあって」という言葉が重ねられることによって、「いっさいのものが・・・一つに集められる」ことは「キリストにあって」のことであることが強調されています。 この場合の「キリストにあって」ということは、「いっさいのもの」が栄光のキリストとの結びつきにおいて、先ほどの言葉でいえば、栄光のキリストを中心として「一つに集められる」ということを意味しています。そして、このことも、イエス・キリストが地上の生涯において成し遂げてくださった贖いの御業によっています。 コロサイ人への手紙1章19節、20節には、 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と記されています。ここでは、父なる神さまが、イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業に基づいて、「万物」を「ご自分と和解させてくださった」と言われています。 ちなみに、新改訳第2版で、 万物を、ご自分と和解させてくださった と訳されている部分は、第3版では、 万物を、御子のために和解させてくださった となっています。 (この「御子のために和解させてくださった」は「御子と和解させてくださった」とも訳せます。これらの訳のほうが直訳的な訳です。直訳は「彼へと和解させてくださった」、あるいは「彼のために和解させてくださった」です。この場合は、「彼」を「御子」と取っています。パウロが「和解」のことを述べるときには、御子との和解ではなく、父なる神さまとの和解のことを述べています。それで、第3版は「御子と和解させてくださった」ではなく、「御子のために和解させてくださった」というほうを取っていると考えられます。) しかし、これは御子によってもたらされた「和解」が、御子のためであったという他の個所には出てこないことです。さらに、この「和解」が誰との「和解」であるのかが明示されないことになります。 これに対して、第2版の、 万物を、ご自分と和解させてくださった という訳は、パウロにとって一般的なことですが、それが父なる神さまとの「和解」であることを示しています。また、詳しい議論は避けますが、この訳は文法的にも可能です。 (この場合は、「彼へと和解させてくださった」の「彼」を「父なる神さま」と取っています。そうしますと、通常は、「彼」が再帰代名詞、すなわち「彼自身」でなくてはなりません。しかし、この「彼」は再帰代名詞ではありません。けれども、この場合の「彼へと」が再帰代名詞的に「彼自身へと」でありえることが認められています。) それで、ここでは、 万物を、ご自分と和解させてくださった という第2版の訳を取るほうがいいと考えられます。 この「万物」とエペソ人への手紙1章10節に記されている父なる神さまの「みこころの奥義」に出てくる「いっさいのもの」は同じ言葉(タ・パンタ)で表されていて同じものを指しています。そして、このコロサイ人への手紙1章20節でも「万物」(「いっさいのもの」)が「地にあるものも天にあるものも」という言葉で説明されています。 ここには一つの問題があります。 同じく神さまによって造られたものでも、神のかたちに造られている人間や御使いたちとは違って人格的な存在でないもの、自由な意志をもっていないものたちは、造り主である神さまに対して罪を犯すことはありません。自由な意志をもち、自分の意志で自分自身のあり方を選び取ることができるものだけが、倫理的な責任を負っており、それゆえに、罪を犯すことがあります。そうしますと、どうして「いっさいのもの」が御子イエス・キリストの「十字架の血によって」神さまと「和解させて」いただいているというのでしょうか。 この問題を考えるうえで大切なのは、このコロサイ人への手紙1章20節では、「いっさいのもの」が御子イエス・キリストの「十字架の血によって」神さまと和解させていただいていると言われていますが、「いっさいのもの」が御子イエス・キリストの「十字架の血によって」その罪を贖われているとは言われていないということです。つまり、「いっさいのもの」の場合には、その罪の責任は問われていないのです。その点で、私たち主の契約の民のことを述べているエペソ人への手紙1章7節で、 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。 と言われているのとは違います。同じ御子イエス・キリストの「血」ですが、その「血」が私たち主の契約の民には罪の「贖い、罪の赦し」をもたらしてくれました。また、その罪の「贖い、罪の赦し」に基づいて、父なる神さまとの「和解」をもたらしてくれました。そして、「いっさいのもの」には、その御子イエス・キリストの「血」が、父なる神さまとの「和解」をもたらしてくれたのです。 このことを理解する鍵は、神のかたちに造られている人間と神さまによって造られたこの被造物世界の関係です。天地創造の初めに神さまは人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったこの世界を委ねられました。創世記1章27節、28節に、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されており、詩篇8篇5節、6節に、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されているとおりです。 このように、神さまはご自身がお造りになった「いっさいのもの」を、神のかたちに造られている人と一体にあるものとされました。それで、神のかたちに造られている人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったときに、「いっさいのもの」も人との一体にあって「虚無に服した」のです。このことから、逆に、神のかたちに造られている人の罪が贖われて、造り主である神さまとの本来の関係が回復されるなら、「いっさいのもの」も人との一体にあって「虚無」から解放され、造り主である神さまとの本来の関係を回復されるということになります。ローマ人への手紙8章19節〜21節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されているとおりです。 このように、同じ御子イエス・キリストの「血」が私たち主の契約の民には、罪の「贖い、罪の赦し」と、父なる神さまとの「和解」をもたらしてくれました。そして、その「血」が、「いっさいのもの」にも、父なる神さまとの「和解」をもたらしてくれたのです。ここには、御子イエス・キリストの贖いの御業の中心に、私たち主の契約の民の罪の「贖い、罪の赦し」があり、それが「いっさいのもの」の父なる神さまとの和解へと広がっているという図式があります。 これと同じ図式は、エペソ人への手紙1章3節〜14節に記されている「キリストにあって」という言葉との関連でも見ることができます。 3節では、父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったのは「キリストにあって」のことであると言われています。そして、10節では、父なる神さまの「みこころの奥義」は、「キリストにあって」 いっさいのものが・・・一つに集められる ことにあると言われています。この二つの「キリストにあって」は別々のことではなく、一つのことです。同じく「キリストにあって」のことですが、父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったことが中心にあり、そこから、「キリストにあって」 いっさいのものが・・・一つに集められる ことへと広がっているのです。 先ほどお話ししましたように、ギリシャ語の原文では、この、 いっさいのものがキリストにあって一つに集められる ということに続いて、 天にあるもの地にあるものがこの方にあって という言葉が続いています。この「天にあるもの地にあるもの」という言葉は、その前の「いっさいのもの」を説明するものです。同時に、この「天にあるもの地にあるもの」という言葉は、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りの、「天にあってのように、地においても」(直訳)という言葉とのつながりを思い起こさせます。 私たちは、主の祈りの第3の祈りにおいて、父なる神さまのみこころの中心にある、私たちご自身の民の贖いのさらなる実現と完成を祈り求めるとともに、 いっさいのものがキリストにあって一つに集められる という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現と完成を祈り求めるようにと招かれています。これは、父なる神さまを、 天にいます私たちの父よ。 と呼び求めることを許されている私たちに与えられている、さらなる特権です。 また、父なる神さまがご自身の「みこころの奥義」を私たちに啓示してくださったことにはいろいろな意味がありますが、主の祈りの第3の祈りとの関連を考えますと、何よりもまず、私たちが父なる神さまの「みこころの奥義」の実現と完成を祈り求めるようになるためであるとも言えるのです。私たちには、 いっさいのものがキリストにあって一つに集められる という父なる神さまの「みこころの奥義」を実現する力はありません。けれども、私たちは父なる神さまの「みこころの奥義」の実現と完成を祈り求めることができます。そして、私たちの祈りに答える形でご自身の「みこころの奥義」を実現し、完成に至らせてくださことが、父なる神さまのみこころでもあるのです。 これらのことを考えますと、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という祈りが、基本的に、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、ていねいな形で祈り求めるものであるということが、大きな意味をもっていることが分かります。 |
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