(第126回)


説教日:2007年11月18日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りは、基本的に、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、ていねいな形で祈り求めるものであると考えられます。そして、すでに、その父なる神さまのみこころの中心は、ヨハネの福音書6章39節、40節に記されています、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えに示されているということをお話ししました。
 このイエス・キリストの教えには、イエス・キリストがご自身の民の「ひとりひとりを終わりの日によみがえらせる」という「終末論的な」側面があり、それが繰り返し述べられて強調されています。父なる神さまのみこころは、終りの日にイエス・キリストが私たちご自身の民をよみがえらせてくださることによって、完全な形で実現するというのです。
 イエス・キリストは終りの日に私たちを栄光のうちによみがえらせてくださるために、そして、そのようにして父なる神さまのみこころを完全な形で実現してくださるために、贖いの御業を成し遂げてくださいました。私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのち、永遠のいのちに生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。そして、私たちを「」にご臨在される父なる神さまの御前に立たせてくださるために、「」に上り父なる神さまの右の座に着座されました。この「」が、主の祈りにおける父なる神さまへの呼びかけの言葉に出てくる「」であり、コリント人への手紙第2・12章2節〜4節に記されているパウロのあかしに出てくる「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」、「最も高い天」のことであると考えられます。さらに、イエス・キリストは、父なる神さまの右の座から御霊を注いでくださいました。
 イエス・キリストは、今から2千年前に、これらすべてのことを、私たちのために成し遂げてくださいました。「」すなわち父なる神さまと御子イエス・キリストのご臨在の御許から遣わされた御霊は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになります。そして、私たちを父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストと一つに結び合わせてくださっています。このことによって、今から2千年前にイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いが、2千年後の今ここにいる私たちに当てはめられ、私たちのうちに実現しています。
 このことは、先週も引用しましたエペソ人への手紙2章4節〜6節に記されています、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

という御言葉に示されています。


 先週もお話ししましたように、ヨハネの福音書6章39節、40節に記されているイエス・キリストの教えに示されているのは、私たち主の民の一人一人についての父なる神さまのみこころにかかわることです。そして、これは父なる神さまのみこころの中心にあることです。これとともに、父なる神さまのみこころは、この中心にあることから、さらに全被造物に関するみこころとして広がっています。先週から、そのことを、エペソ人への手紙に基づいて確認しようとしています。そして、そのための手がかりとして、先ほど引用しましたエペソ人への手紙2章6節において、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われているときの、「天の所に」と訳されている「エン・トイス・エプウーラニオイス」という言葉に注目しています。この「エン・トイス・エプウーラニオイス」という言葉は1章3節、20節、2章6節、3章10節そして6章12節に出てきます。
 先週は、1章3節に記されています、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

という御言葉にしたがって、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって、「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったということについてお話ししました。
 ここで「天にある」と訳されている言葉が「エン・トイス・エプウーラニオイス」です。そして、この言葉によって「天にあるすべての霊的祝福」が、父なる神さまがご臨在される「」に属するもの、「」にふさわしいものとしての特性をもっていることが示されています。
 そして、それが「霊的」な「祝福」であるということは、この「祝福」が御霊によってもたらされる「祝福」であるということを意味しています。この場合の御霊は、十字架にかかって私たちに代わって私たちの罪に対するさばきを受けてくださったイエス・キリスト、そして、私たちをご自身の復活のいのちに生かしてくださるために栄光を受けてよみがえってくださり、「」に上り、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが父なる神さまのご臨在の御許から遣わしてくださった御霊のことです。それで、御霊はイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を私たちに当てはめてくださいます。
 そのお働きの中心は、御霊ご自身が私たちのうちに宿ってくださることです。これによって、御霊は私たちを父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリスト、栄光のキリストと一つに結び合わせてくださいましたし、今も、またとこしえに、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださいます。このことによって「天にあるすべての霊的祝福」が私たちのものとなっています。御霊が私たちのうちに宿ってくださることと、私たちが栄光のキリストと一つに結び合わされることは、一つのことの裏表です。御霊が私たちのうちに宿ってくださっているなら、私たちは栄光のキリストと一つに結び合わされています。そして、私たちが栄光のキリストと一つに結び合わされているなら、「天にあるすべての霊的祝福」にあずかっています。このことに例外はありません。
 この「天にあるすべての霊的祝福」は単数形で表されています。このことは「天にあるすべての霊的祝福」はひとまとまりのものであって、そのひとまとまりの全体、「すべて」が私たちに与えられているということを意味しています。
 エペソ人への手紙では、この1章3節に出てくる「天にあるすべての霊的祝福」がどのようなものであるかが、4節〜14節において説明されています。そして、先週もお話ししましたように、この「天にあるすべての霊的祝福」が、父なる神さまの永遠の聖定とのかかわり(4節〜6節)、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業とのかかわり(7節〜12節)、御霊のお働きとのかかわり(13節、14節)という観点から示されています。
 4節、5節には、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。父なる神さまはご自身の永遠の聖定において私たちをイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストと一つに結び合わされたものとなるようにお選びになりました。そして、私たちを「御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」定められました。これは、父なる神さまの永遠の聖定における定めです。これによって、「天にあるすべての霊的祝福」が父なる神さまの永遠の聖定から出ていることが示されています。永遠の聖定は父なる神さまの主権的なみこころで、何ものによっても妨げられることなく、必ず実現します。
 そして、7節〜10節には、新改訳第3版は第2版をかなり改定していますので、3版を引用しますと、

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

と記されています。
 先週もお話ししましたように、ギリシャ語の原文では3節〜14節が長い一つの文です。それで、一つ一つの句がどこにかかるのかの判断がとても難しいことになります。第2版と第3版の違いも、また、本文と欄外別訳の違いも、このようなことを反映しています。ここではそのすべての問題を取り上げることはできません。ただ、今お話ししている父なる神さまのみこころに関連することだけを取り上げたいと思います。
 父なる神さまのみこころにかかわることは9節と10節に、

みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

と記されています。
 ここでは父なる神さまが、

みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

と言われています。これを、これに先立つ部分で述べられていることとのかかわりで見ますと、4節、5節で、父なる神さまがご自身の永遠の聖定において「御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「ご自分の子にしようと」定められたと言われている私たち、さらに、7節で、父なる神さまの「豊かな恵み」により、イエス・キリストの「血による贖い、罪の赦しを受けて」いると言われている私たちに、「みこころの奥義」を知らせてくださったということを意味しています。
 このことと関連して、8節の最後に出てくる「あらゆる知恵と思慮深さをもって」という言葉が何を意味しているかが問題となっています。
 一つの理解は、「あらゆる知恵と思慮深さをもって」は、この後に続く部分にかかるというものです。そうしますと、神さまが「あらゆる知恵と思慮深さをもって」、「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました」という意味であるということになります。この場合は、「あらゆる知恵と思慮深さ」は神さまの「知恵と思慮深さ」であるということになります。これは新改訳の理解でもあります。
 もう一つの理解は、「あらゆる知恵と思慮深さをもって」と訳されている言葉が、その前の部分にかかるというものです。そうしますと、8節は、

神はこの恵みを、あらゆる知恵と思慮深さとともに、私たちの上にあふれさせてくださいました。

というようになります。この場合は、「あらゆる知恵と思慮深さ」は神さまが私たちに与えてくださった賜物であるということになります。
 この二つの理解のどちらも可能であり、どちらにも言い分があります。おそらく、1章17節に記されている、

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

というパウロの祈りにおいて、「知恵」は神さまが与えてくださる賜物とされていることに照らして、「あらゆる知恵と思慮深さ」は神さまが私たちに与えてくださった賜物であると理解したほうがいいのではないかと思われます。そうであれば、ここでは、神さまが「あらゆる知恵と思慮深さ」をともなう「恵みを」「私たちの上にあふれさせて」くださったので、私たちは父なる神さまが知らせてくださった「みこころの奥義」を理解することができるようになったということが示されていることになります。
 このことは、神さまが「あらゆる知恵と思慮深さをもって」「みこころの奥義を私たちに知らせて」くださったという、もう一つの理解でも考えられることです。神さまがそのように「知恵と思慮深さ」を尽くして「みこころの奥義を私たちに知らせて」くださったのであれば、当然、私たちにその「みこころの奥義」を理解するための「知恵と思慮深さ」をも与えてくださっているはずです。ただ、その場合には、このことは明確に述べられているのではなく、当然のこととして推察されるということになります。
 10節では、父なる神さまの「みこころの奥義」のことが、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

と説明されています。
 ギリシャ語の原文では、

いっさいのものがキリストにあって一つに集められる

という言葉が先に来て、「いっさいのものがキリストにあって」ということをさらに詳しく述べる、

天にあるもの地にあるものがこの方にあって

という言葉が続いています。第2版では、最後の「この方にあって」がこの後に続く11節にかかるようになっていますが、第3版のように前の部分につながっていて、「キリストにあって」ということを強調していると考えられます。
 ここで「一つに集められる」と訳されている言葉(アナケファライオオー)は「中心点」、「要点」、「まとめ」などを意味する言葉(ケファライオン)から派生している言葉であると考えられています。それで、

いっさいのものがキリストにあって一つに集められる

ということは、「いっさいのものがキリストにあって一つに集められる」ということとともに、「いっさいのものがキリストを中心として一つに集められる」という意味合いを伝えていると考えられます。
 先ほどお話しましたように、ここでは、

いっさいのものがキリストにあって一つに集められる

ということの「いっさいのものがキリストにあって」ということをさらに詳しく述べる、「天にあるもの地にあるものがこの方にあって」という言葉が続いています。ここでは、「キリストにあって」という言葉に「この方にあって」という言葉が重ねられることによって、「いっさいのものが・・・一つに集められる」ことは「キリストにあって」のことであることが強調されています。
 この「キリストにあって」ということに注目しますと、3節では、父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったのは「キリストにあって」(第3版)のことであると言われていました。また4節では、父なる神さまは「私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに[直訳「彼にあって」(第3版)]」選ばれ、「御前で聖く、傷のない者にしようと」されたと言われています。さらに5節では、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」定められたと言われています。そして、父なる神さまの「みこころの奥義」のことを述べている10節では、「いっさいのものが・・・一つに集められる」のは「キリストにあって」のことであると言われています。これによって、父なる神さまのみこころが「いっさいのものがキリストにあって一つに集められる」ことへと広がっていることが示されています。
 このように、父なる神さまのみこころは「キリストにあって」実現しますが、その根底には父なる神さまが「キリストにあって」、「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったという事実があります。そして、それが、父なる神さまが永遠の聖定において、私たちを「キリストにあって」お選びになり、「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としようと定めてくださったことに現れていることが示されています。さらに、「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったことは、私たちが父なる神さまの「豊かな恵み」により、「キリストにあって」「その血による贖い、罪の赦し」を受けていることに現れていると言われています。これは、父なる神さまが永遠の聖定において、私たちを「キリストにあって」お選びになり、「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としようと定めてくださったことを、やはり「キリストにあって」実現してくださったことをも意味しています。
 そして、それだけでなく、父なる神さまは、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

という「ご自身のみこころの奥義を私たちに知らせて」くださり、「あらゆる知恵と思慮深さ」を備えてくださってそれを理解し悟ることができるようにしてくださったと言われています。これも、父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったことの現れであり、私たちを「キリストにあって」「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださったことの現れです。
 これらのことから、私たちが主の祈りの第3の祈りにおいて、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈ることの意味が見えてきます。この祈りの「天にあってのように地においても」(直訳)という言葉は、父なる神さまの「みこころの奥義」の「天にあるもの地にあるもの」に関連しています。
 この祈りは、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することを願い求める祈りです。そして、これは、父なる神さまによって「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」いただいている者としての祈りであり、「キリストにあって」「御前で聖く、傷のない者」、「ご自分の子」としていただいている者としての祈りです。

 


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