![]() |
説教日:2007年11月11日 |
このことと関連して、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りに出てくる父なる神さまの「みこころ」についてすでにお話ししたことを振り返ってみたいと思います。 この父なる神さまの「みこころ」の中心は、ヨハネの福音書6章38節〜40節に記されている、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えに示されています。 このイエス・キリストの教えは、 わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせること という言葉や、 わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます という言葉から分かりますように、父なる神さまのみこころは「終わりの日」にイエス・キリストが私たちご自身の民をよみがえらせてくださることによって、完全な形で実現するということを示しています。 これは、先ほど触れましたエペソ人への手紙2章4節〜6節に記されている御言葉に示されていることと符合しています。そこでは、父なる神さまが「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださり、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われていました。これは、イエス・キリストが十字架にかかって、ご自身のいのちを私たちの罪のための贖いの代価としてささげてくださる前に、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と言われたことが、その贖いの御業の完成の後に、私たちご自身の民の間に実現し始めていることを示しています。 そして、エペソ人への手紙2章4節〜6節で、父なる神さまが「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださり、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われていることは、イエス・キリストが私たちを「ひとりひとり終わりの日によみがえらせ」てくださることによって完全な形で実現します。それはまた、私たちが主の祈りの第3の祈りで、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 と祈り求めていることが完全な形で実現することでもあります。 これらのことを踏まえて、父なる神さまのみこころについてさらに考えたいと思います。前もってお話ししておきますと、先ほど引用しましたヨハネの福音書6章38節〜40節に記されているイエス・キリストの教えでは、父なる神さまのみこころの中心にあることとして、私たちご自身の民一人一人の贖いのことが示されていました。エペソ人への手紙では、そのことを中心として、父なる神さまのみこころが全被造物を包むみこころとして示されています。そのことを見ていきたいと思います。 そのために、もう一度、エペソ人への手紙2章4節〜6節に記されていることに戻ってみましょう。そこでは、父なる神さまが「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださり、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われていました。 ここで注目したいのは、先週も取り上げました「天の所に」と訳されている言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)です。この「天の所に」と訳されている言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)は、エペソ人への手紙においては、ここ2章6節を含めて5回出てきます。それは、1章3節と20節、そして、ここ2章6節、さらに3章10節と6章12節です。これらの個所から、父なる神さまのみこころがなされることについて、さらに別の面、先ほど触れました、父なる神さまのみこころの宇宙大の意味を理解することができると思われますので、それを見てみたいと思います。ただし、今日は、すでにお話ししたことの復習のようなお話になってしまいます。 この「エン・トイス・エプウーラニオイス」という言葉が最初に出てくるのは1章3節です。そこには、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と記されています。これは、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。 という讃美から始まっています。そして、父なる神さまがほめたたえられるべき理由が、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と記されています。原文のギリシャ語では、「ほめたたえられますように」という言葉(エウロゲートス)と「祝福」という言葉(エウロギア)と「祝福してくださいました」(エウロゲーサス)は「よい・ことば」という意味合いの同じ語幹から出ている同族語で、「祝福」にかかわる意味をもっています。ですから、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 という言葉は、「祝福」にかかわる三つの同族語によって結び合わされていることになります。ここでは、この「祝福」が私たちから父なる神さまに向けられるとともに、父なる神さまから私たちご自身の民へと向けられてもいるわけです。そして、それが父なる神さまに向けられるときには、私たちが父なる神さまの上に立って祝福することはできませんから、私たちの父なる神さまへの讃美となります。そして、父なる神さまから私たちに向けられるときには、私たちへの祝福となります。その祝福のことは、 天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました というように、つまり、「祝福をもって」「祝福してくださいました」というように、同じ意味の言葉の名詞と動詞を重ねて強調されています。さらに、これが「すべての霊的祝福」というように、「すべての」という言葉を加えて強調されています。この「すべての霊的祝福」は単数形で、御霊による祝福の総体を示していると考えられます。 ここでは、先ほどの「エン・トイス・エプウーラニオイス」という言葉は「天にあるすべての霊的祝福」と言われているときの「天にある」と訳されている言葉です。この「天にあるすべての霊的祝福」の「霊的」(プネウマティケー)は、「御霊に属する」とか「御霊による」という意味合いを示しています。ここで「御霊による」というときの「御霊」は、十字架におかかりになって私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊のことです。最初の聖霊降臨節の日にペテロが語ったあかしの言葉を記している使徒の働き2章33節に、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と記されているとおりです。御霊は、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業から溢れ出るすべての祝福を私たちの間に実現してくださるために、父なる神さまと御子イエス・キリストの御許から遣わされました。それでこの「霊的祝福」すなわち御霊による祝福は天的な性格をもった祝福であり、天に属している祝福であるのです。 さらに、ここでは、父なる神さまは、「キリストにおいて」(エン・クリストー)、「キリストにあって」、この「天にあるすべての霊的祝福」をもって、私たちを祝福してくださっていると言われています。御霊は私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、「天にあるすべての霊的祝福」を私たちの現実としてくださいます。私たちが父なる神さまとイエス・キリストの御許から遣わされた御霊を受けるということと、私たちがイエス・キリストと一つに結ばれるということは、一つのことの裏表です。もし私たちが御霊をもっているなら、私たちは必ずイエス・キリストと一つに結び合わされています。また、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされているなら、必ず、御霊をもっています。そして、父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福」をもって祝福してくださったと言われている「祝福」にあずかっています。 それでは、父なる神さまがイエス・キリストにあって「天にあるすべての霊的祝福」をもって、私たちを祝福してくださったと言われているときの「祝福」とはなんでしょうか。これは二つの面から考えることができます。二つの面というのは一つのことの二つの面です。 一つの面は、私たちが御霊を受けているということ、そして、そのゆえに、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わされているということ自体が、「天にあるすべての霊的祝福」のすべてを尽くしています。私たちが御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされていることは、私たちのいのちであり幸いであり存在の目的です。イエス・キリストと一つに結び合わされていることを離れては、「天にあるすべての霊的祝福」の一かけらもありえません。 「天にあるすべての霊的祝福」のもう一つの面は、それはエペソ人への手紙1章4節〜14節に記されているされている祝福のすべてであるということです。ご存知のように、エペソ人への手紙1章3節〜14節は長い一つの文です。その主節が3節で、4節〜14節は、さまざまな形でつなげられた従属節です。このような構文によって、4節〜14節に記されていることは、3節で、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と言われていることを説明していると考えられます。ですから、3節で言われている「天にあるすべての霊的祝福」が具体的にどのようなものであるかは4節〜14節において説明されています。 しかも、3節の中心は、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。 という部分です。それで、3節〜14節全体の主題が「私たちの主イエス・キリストの父なる神」への讃美にあります。4節〜14節においても、6節の、 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 という言葉、12節の、 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。 という言葉、そして、14節の、 これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。 という言葉に示されていますように、すべてが父なる神さまの栄光がほめたたえられることを目的としているということが分かります。 4節〜14節はさまざまな形で区分されるでしょうが、今引用しました三つの目的を表わす言葉をもって区切るとしますと、4節〜6節では、父なる神さまの永遠の聖定における祝福が記されています。また、7節〜12節では、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業によってもたらされた祝福のことが記されています。そして、13節、14節では、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊による祝福が記されています。 4節〜6節に記されている、父なる神さまの永遠の聖定における祝福において、父なる神さまは私たちを「キリストのうちに」お選びになりました。イエス・キリストにあって私たちをお選びになるとともに、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わされたものとなるようにお選びになったということです。そして、私たちがそのような者として「御前で聖く、傷のない者」となり、「ご自分の子」となるように定めてくださいました。 このことは、先ほどの「天にあるすべての霊的祝福」のすべては、父なる神さまの永遠の聖定における定めから出ているということを示しています。神さまの永遠の聖定は、何ものによっても妨げられることがない神さまの主権に基づくものです。それで、この「天にあるすべての霊的祝福」は確かなものであるのです。 ここでは、その父なる神さまの永遠の聖定の中心にあるのは、私たちを「御前で聖く、傷のない者」として、また「ご自分の子」として、ご自身のご臨在の御前に立たせてくださることであるということが示されています。そして、これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、この父なる神さまの永遠の聖定における祝福が実現するために、神さまは「天」をお造りになり、そこにご臨在しておられるということになります。そして、初めに触れました2章4節〜6節においては、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、そのことが私たちの間で実現し始めていることが示されています。 「天にあるすべての霊的祝福」を説明している1章4節〜14節では、さらに、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りにおける父なる神さまのみこころにかかわること、父なる神さまのみこころの宇宙大の意味が示されています。それにつきましては、日を改めてお話しします。 |
![]() |
||