(第125回)


説教日:2007年11月11日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りの、

 みこころが天で行なわれるように

という部分についていくつかのことをお話ししてきました。
 ここに出てくる「」は、

 天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけの言葉に出てくる「」に呼応していると考えられます。そして、この「」は、コリント人への手紙第2・12章2節〜4節に記されているパウロのあかしに出てくる「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」のことであると考えられます。
 先週は、この「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」についてお話ししました。パウロのあかしの中では、これは「最も高い天」のことであると考えられます。そして、そこに神さまがご臨在してくださっておられますが、それは、神さまが存在されるために「」が必要であるからではありません。「」は、永遠にあって、そこに神さまが住んでおられるというものではありません。「」は神さまによって造られたものです。ただ神さまだけが永遠に存在される方であり、「」も神さまがお造りになったので、その時から存在しています。
 神さまが「」をお造りになったのはご自身の必要のためではなく、私たち主の民のためです。神さまは、私たちをご自身のご臨在の御前に住むもの、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるために「」をお造りになり、そこにご臨在しておられるのです。
 また、先週は、父なる神さまがこのことを実現してくださっていることが、エペソ人への手紙2章4節〜6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されているということもお話ししました。
 ここでは、4節の、

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

という言葉に示されていますように、ここに記されているすべてのことが、父なる神さまの豊かなあわれみから出た大きな愛によっている、ということが示されています。この父なる神さまの「あわれみ」(エレオス)は旧約聖書に出てくるヘブル語の「ヘセド」に当たる言葉で、神である主の契約に基づく、それゆえに真実な、いつくしみやあわれみを表しています。ですから、これは一時的な憐愍の情ではなく、とこしえに変わることなく私たちに注がれている、父なる神さまのいつくしみであり、あわれみです。
 私たちは「罪過の中に」あるいは「罪過によって」「死んでいた」ものであって、神さまの聖なる御怒りの下にあり、永遠の滅びに至るべきものでした。そのような私たちを、父なる神さまは真実で変わることがない豊かなあわれみをもって深く愛してくださいました。また、今も、そのような大きな愛をもって私たちを愛してくださっています。私たちが「罪過の中に」あるいは「罪過によって」「死んでいた」状態にあったときに、そのような愛をもって愛してくださっただけではありません。贖いの御業にあずかって死と滅びの中から救い出された今は、なおのこと、父なる神さまの大きな愛にあずかっています。
 さらに、ここでは、父なる神さまはここに記されているすべてのことを、イエス・キリストにあって実現してくださったということが示されています。
 5節では、父なる神さまが「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださったと言われており、6節では、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われています。これは、父なる神さまが私たちを御霊のお働きによって、イエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、このすべてのことを実現してくださったということを意味しています。
 父なる神さまがこのすべてのことを実現してくださったことには、確かな土台、確かな根拠があります。それは、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのち、永遠のいのちに生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださったということ、そして、天に上り父なる神さまの右の座に着座されたということです。これは、今から2千年前にイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業、すでに完成している御業です。
 私たちは私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストと、御霊のお働きによって一つに結び合わされています。それで、私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われていますし、イエス・キリストとともに古い自分に死んでいます。また、私たちはイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれ、復活のいのちに生きています。そればかりでなく、父なる神さまは私たちをイエス・キリストと「ともに天の所にすわらせて」くださいました。
 このようにして、父なる神さまは「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださり、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。これによって、父なる神さまが「」をお造りになって、そこにご臨在しておられることの目的が実現しています。そして、それは、終りの日にイエス・キリストが再び来られて、私たちのからだを栄光あるものとしてよみがえらせてくださり、父なる神さまのご臨在の御前に立たせてくださる時に完成いたします。


 このことと関連して、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という主の祈りの第3の祈りに出てくる父なる神さまの「みこころ」についてすでにお話ししたことを振り返ってみたいと思います。
 この父なる神さまの「みこころ」の中心は、ヨハネの福音書6章38節〜40節に記されている、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えに示されています。
 このイエス・キリストの教えは、

わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせること

という言葉や、

わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます

という言葉から分かりますように、父なる神さまのみこころは「終わりの日」にイエス・キリストが私たちご自身の民をよみがえらせてくださることによって、完全な形で実現するということを示しています。
 これは、先ほど触れましたエペソ人への手紙2章4節〜6節に記されている御言葉に示されていることと符合しています。そこでは、父なる神さまが「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださり、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われていました。これは、イエス・キリストが十字架にかかって、ご自身のいのちを私たちの罪のための贖いの代価としてささげてくださる前に、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

と言われたことが、その贖いの御業の完成の後に、私たちご自身の民の間に実現し始めていることを示しています。
 そして、エペソ人への手紙2章4節〜6節で、父なる神さまが「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださり、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われていることは、イエス・キリストが私たちを「ひとりひとり終わりの日によみがえらせ」てくださることによって完全な形で実現します。それはまた、私たちが主の祈りの第3の祈りで、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈り求めていることが完全な形で実現することでもあります。
 これらのことを踏まえて、父なる神さまのみこころについてさらに考えたいと思います。前もってお話ししておきますと、先ほど引用しましたヨハネの福音書6章38節〜40節に記されているイエス・キリストの教えでは、父なる神さまのみこころの中心にあることとして、私たちご自身の民一人一人の贖いのことが示されていました。エペソ人への手紙では、そのことを中心として、父なる神さまのみこころが全被造物を包むみこころとして示されています。そのことを見ていきたいと思います。
 そのために、もう一度、エペソ人への手紙2章4節〜6節に記されていることに戻ってみましょう。そこでは、父なる神さまが「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださり、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われていました。
 ここで注目したいのは、先週も取り上げました「天の所に」と訳されている言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)です。この「天の所に」と訳されている言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)は、エペソ人への手紙においては、ここ2章6節を含めて5回出てきます。それは、1章3節と20節、そして、ここ2章6節、さらに3章10節と6章12節です。これらの個所から、父なる神さまのみこころがなされることについて、さらに別の面、先ほど触れました、父なる神さまのみこころの宇宙大の意味を理解することができると思われますので、それを見てみたいと思います。ただし、今日は、すでにお話ししたことの復習のようなお話になってしまいます。
 この「エン・トイス・エプウーラニオイス」という言葉が最初に出てくるのは1章3節です。そこには、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と記されています。これは、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

という讃美から始まっています。そして、父なる神さまがほめたたえられるべき理由が、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と記されています。原文のギリシャ語では、「ほめたたえられますように」という言葉(エウロゲートス)と「祝福」という言葉(エウロギア)と「祝福してくださいました」(エウロゲーサス)は「よい・ことば」という意味合いの同じ語幹から出ている同族語で、「祝福」にかかわる意味をもっています。ですから、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

という言葉は、「祝福」にかかわる三つの同族語によって結び合わされていることになります。ここでは、この「祝福」が私たちから父なる神さまに向けられるとともに、父なる神さまから私たちご自身の民へと向けられてもいるわけです。そして、それが父なる神さまに向けられるときには、私たちが父なる神さまの上に立って祝福することはできませんから、私たちの父なる神さまへの讃美となります。そして、父なる神さまから私たちに向けられるときには、私たちへの祝福となります。その祝福のことは、

天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました

というように、つまり、「祝福をもって」「祝福してくださいました」というように、同じ意味の言葉の名詞と動詞を重ねて強調されています。さらに、これが「すべての霊的祝福」というように、「すべての」という言葉を加えて強調されています。この「すべての霊的祝福」は単数形で、御霊による祝福の総体を示していると考えられます。
 ここでは、先ほどの「エン・トイス・エプウーラニオイス」という言葉は「天にあるすべての霊的祝福」と言われているときの「天にある」と訳されている言葉です。この「天にあるすべての霊的祝福」の「霊的」(プネウマティケー)は、「御霊に属する」とか「御霊による」という意味合いを示しています。ここで「御霊による」というときの「御霊」は、十字架におかかりになって私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊のことです。最初の聖霊降臨節の日にペテロが語ったあかしの言葉を記している使徒の働き2章33節に、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と記されているとおりです。御霊は、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業から溢れ出るすべての祝福を私たちの間に実現してくださるために、父なる神さまと御子イエス・キリストの御許から遣わされました。それでこの「霊的祝福」すなわち御霊による祝福は天的な性格をもった祝福であり、天に属している祝福であるのです。
 さらに、ここでは、父なる神さまは、「キリストにおいて」(エン・クリストー)、「キリストにあって」、この「天にあるすべての霊的祝福」をもって、私たちを祝福してくださっていると言われています。御霊は私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、「天にあるすべての霊的祝福」を私たちの現実としてくださいます。私たちが父なる神さまとイエス・キリストの御許から遣わされた御霊を受けるということと、私たちがイエス・キリストと一つに結ばれるということは、一つのことの裏表です。もし私たちが御霊をもっているなら、私たちは必ずイエス・キリストと一つに結び合わされています。また、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされているなら、必ず、御霊をもっています。そして、父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福」をもって祝福してくださったと言われている「祝福」にあずかっています。
 それでは、父なる神さまがイエス・キリストにあって「天にあるすべての霊的祝福」をもって、私たちを祝福してくださったと言われているときの「祝福」とはなんでしょうか。これは二つの面から考えることができます。二つの面というのは一つのことの二つの面です。
 一つの面は、私たちが御霊を受けているということ、そして、そのゆえに、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わされているということ自体が、「天にあるすべての霊的祝福」のすべてを尽くしています。私たちが御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされていることは、私たちのいのちであり幸いであり存在の目的です。イエス・キリストと一つに結び合わされていることを離れては、「天にあるすべての霊的祝福」の一かけらもありえません。
 「天にあるすべての霊的祝福」のもう一つの面は、それはエペソ人への手紙1章4節〜14節に記されているされている祝福のすべてであるということです。ご存知のように、エペソ人への手紙1章3節〜14節は長い一つの文です。その主節が3節で、4節〜14節は、さまざまな形でつなげられた従属節です。このような構文によって、4節〜14節に記されていることは、3節で、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と言われていることを説明していると考えられます。ですから、3節で言われている「天にあるすべての霊的祝福」が具体的にどのようなものであるかは4節〜14節において説明されています。
 しかも、3節の中心は、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

という部分です。それで、3節〜14節全体の主題が「私たちの主イエス・キリストの父なる神」への讃美にあります。4節〜14節においても、6節の、

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

という言葉、12節の、

それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

という言葉、そして、14節の、

これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

という言葉に示されていますように、すべてが父なる神さまの栄光がほめたたえられることを目的としているということが分かります。
 4節〜14節はさまざまな形で区分されるでしょうが、今引用しました三つの目的を表わす言葉をもって区切るとしますと、4節〜6節では、父なる神さまの永遠の聖定における祝福が記されています。また、7節〜12節では、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業によってもたらされた祝福のことが記されています。そして、13節、14節では、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊による祝福が記されています。
 4節〜6節に記されている、父なる神さまの永遠の聖定における祝福において、父なる神さまは私たちを「キリストのうちに」お選びになりました。イエス・キリストにあって私たちをお選びになるとともに、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わされたものとなるようにお選びになったということです。そして、私たちがそのような者として「御前で聖く、傷のない者」となり、「ご自分の子」となるように定めてくださいました。
 このことは、先ほどの「天にあるすべての霊的祝福」のすべては、父なる神さまの永遠の聖定における定めから出ているということを示しています。神さまの永遠の聖定は、何ものによっても妨げられることがない神さまの主権に基づくものです。それで、この「天にあるすべての霊的祝福」は確かなものであるのです。
 ここでは、その父なる神さまの永遠の聖定の中心にあるのは、私たちを「御前で聖く、傷のない者」として、また「ご自分の子」として、ご自身のご臨在の御前に立たせてくださることであるということが示されています。そして、これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、この父なる神さまの永遠の聖定における祝福が実現するために、神さまは「」をお造りになり、そこにご臨在しておられるということになります。そして、初めに触れました2章4節〜6節においては、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、そのことが私たちの間で実現し始めていることが示されています。
 「天にあるすべての霊的祝福」を説明している1章4節〜14節では、さらに、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という主の祈りの第3の祈りにおける父なる神さまのみこころにかかわること、父なる神さまのみこころの宇宙大の意味が示されています。それにつきましては、日を改めてお話しします。

 


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