(第124回)


説教日:2007年11月4日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りに関する基本的なことの確認ですが、この祈りは、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、ていねいな形で祈り求めるものであると考えられます。
 また、この祈りで、

 みこころが天で行なわれるように

と言われているときの「」は、

 天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけの言葉に出てくる「」に呼応していると考えられます。そして、この「」は、コリント人への手紙第2・12章2節〜4節に記されているパウロのあかしに出てくる「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」のことであると考えられます。
 この「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」については、すでに、

 天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけの言葉についてのお話の中で詳しくお話ししていますが、それに補足を加えつつ復習してから、さらにお話を進めたいと思います。
 列王記第1・8章27節には、

それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

と記されています。これは、ソロモンが主の神殿を奉献するときに祈った祈りの中の言葉です。また、ネヘミヤ記9章6節には、

ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。

と記されています。これは、バビロンの捕囚から帰還して主の神殿の再建に携わった人々が、主の律法の言葉を聞いて自らの罪と先祖たちの咎を告白した時のことを記している中に出てくるものです。
 これらの箇所には「」という言葉と「天の天」という言葉が出てきます。ヘブル語では「」は複数形で表されます。これは、いわゆる「尊厳の複数」で、「」の広大さを示すものです。また「天の天」という言い方は最上級を示すもので、「最も高い天」というような意味になります。
 これら二つの箇所から二つのことが分かります。
 一つは、「天も、天の天も」神さまをお入れすることはできないということです。もう一つは、前のお話では十分強調し切れていませんでしたが、神さまが「天と、天の天」をお造りになったということです。ネヘミヤ記9章6節で、

あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り・・・

と言われているとおりです。この二つのことはつながっています。「天も、天の天も」神さまによって造られた被造物であるので、無限、永遠、不変の栄光の神さまをお入れすることはできないということです。
 少し前にお話ししたことがありますが、注意していませんと、私たちは神さまは永遠から永遠に「」におられると考えてしまいます。そうしますと、「」も永遠にあるものであるということになってしまいます。また、神さまが存在されるために「」が必要である、神さまは「」に依存しておられるというようなことになってしまいます。私たちがそのように考えてしまうことは、神さまの存在を自分たちになぞらえて考えることによっています。私たち人間が存在するためには、そのための場所が必要です。それは人間だけでなくこの造られた世界のすべてのもに当てはまることです。それで、神さまも存在するためには場所が必要であると考えてしまうのです。
 しかし、「」は神さまがお造りになったものであって、永遠の存在ではありません。神さまが「」をお造りになる前には「」はありませんでした。また、神さまは無限、永遠、不変の豊かさに充ち満ちておられる方です。お造りになったすべてのものを、ご自身の無限、永遠、不変の豊かさのうちからの賜物をもって支えておられるお方ですが、ご自身は何ものにも依存しておられません。神さまはご自身が存在されるために「」を必要としてはおられません。


 これらの箇所に見られますように、聖書の中に「」という言葉と「天の天」という言葉の積み重ねがあります。このことに基づいて、その当時のユダヤ教のラビの神学においては、「」にはいくつかの階層があるという考え方がありました。しかし、その数については、2階層、3階層、5階層、7階層、10階層というように、意見が分かれていたようです。その中で最も一般的なものは7つの階層があるというもので、それは古代教会のクリスチャンの著作家たちにも受け継がれた意見であるようです。けれども、聖書の御言葉から、「」にいくつの階層があるかを結論づけることはできません。
 主の祈りの第3の祈りとの関連で繰り返しお話ししています、コリント人への手紙第2・12章2節〜4節にはパウロの経験が記されています。そこでは、

私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に―― 肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。―― 第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、―― それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。―― パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

と言われています。
 2節でパウロは、自分が「第三の天にまで」引き上げられたと言っています。この場合パウロは、この「第三の天」が「最も高い天」であると考えていたと考えられます。というのは、「第三の天にまで」というときの「にまで」という言葉(ヘオース)は最終地点を示す言葉であるからです。
 また、これと同じことが4節では、

 パラダイスに引き上げられ

と言われています。そして、そこで、

人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

と言われていますが、これは、パウロが啓示を受けたことを意味していると考えられます。
 このパウロの「第三の天にまで」引き上げられたという言葉から、「」には三つの階層があると結論づけることができるのではないかという気がしますが、そうとも言えません。というのは、この「第三の天」という言葉も、先ほどの「天の天」という言葉と同じように、「」という完全数を用いて最上級を示すもので「最も高い天」という意味であるという可能性もあるからです。その場合には、「第三の天」という言葉は具体的な階層の数を示しているのではないということになります。また、その場合には、「第一の天」は何か、「第二の天」は何かと論じることには意味がないことになります。
 「パラダイス」は、もともとはペルシャの王や貴族たちの「庭園」、「園」、壁で囲まれた「庭園」、「園」を表す言葉でした。これがギリシャ語化されて聖書の中で用いられています。聖書では、「パラダイス」は、創世記2章に記されている神さまのご臨在の場であったエデンの園を原形としています。聖書には、エデンの園を「パラダイス」という言葉で表している個所はありませんが、「パラダイス」の原形となっているのは神さまのご臨在の場であるエデンの園です。そして、このエデンの園がより豊かなものとして完成することが、黙示録22章1節〜5節に、

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

と記されています。
 ここに記されていることから分かりますように、「パラダイス」とは「神と小羊との御座」のあるところ、神さまのご臨在のあるところです。
 このこととの関連で、「第三の天」と「パラダイス」の関係が問題となっています。これに関してはいくつかのの見方があります。
 「第三の天」と「パラダイス」は別のものであると論じる人々は、パウロはまず「第三の天」に引き上げられて啓示を受け、次に、神さまの御座のある「パラダイス」にまで引き上げられたと主張します。そして、この「パラダイス」が「第7の天」であるというのです。この見方は、天には「第7の天」までの階層があるということを前提としています。けれども、天には「第7の天」までの階層があるということには御言葉の根拠がありません。むしろ、先ほどお話ししましたように、パウロの「第三の天にまで」という言葉は「第三の天」が終着点を示していると考えられますので、このような主張には無理があります。
 もう一つの見方は、「第三の天にまで」と言われているときの「にまで」という言葉(ヘオース)と「パラダイスに」と言われているときの「」という言葉(エイス)の違いに注目します。そして、「第三の天」と「パラダイス」を区別し、それらが全体と部分の関係にあると考えます。パウロは「第三の天」という「最高の天」にまで引き上げられ、さらに、その「第三の天」の中でも「パラダイス」という神さまの御座のあるところに引き上げられたというのです。
 これも可能な見方ですが、最初に「第三の天にまで」というように「にまで」という言葉(ヘオース)を使ったので、次には「パラダイスに」(エイス)といえば十分であったと考えることもできます。また、「パラダイス」が「神と小羊との御座」のあるところとして、「第三の天」の中でも特別なところであるというのであれば、まさにそこにまで引き上げられたことこそが大切なことなのですから、先ほどの「にまで」という言葉(ヘオース)を「パラダイス」の方につけた方がいいのではないかと思います。しかし、実際には、パウロは「第三の天にまで」というように、「第三の天」の方につけています。
 このように、「第三の天」と「パラダイス」を全体と部分の関係にあると考えることには十分な根拠はありません。むしろ、「第三の天にまで」という言い方からして、「第三の天」と「パラダイス」は同じものであると考えたほうがいいのではないかと思われます。
 このように、この「パラダイス」は「最も高い天」である「第三の天」のことであると考えられます。そして、そこは「神と小羊との御座」のあるところです。
 すでに繰り返しお話ししてきましたが、 ルカの福音書23章43節に記されていますように、イエス・キリストは、ご自身ともに十字架につけられた強盗の一人がご自身に対する信仰を告白したとき、その強盗に、

まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

と言われました。
 このことから分かりますように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれた主の契約の民は、肉体的な死によってこの世を去るとき、イエス・キリストとともに「パラダイス」にあるようになります。
 以上がすでにお話ししたことの補足的な復習ですが、これらのことを踏まえてエペソ人への手紙2章1節〜6節に記されていることを見てみましょう。
 まず、1節〜3節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 ここでは、かつての私たちが「死んでいる」(形容詞・直訳)状態にあったと言われています。これは、私たちの生まれながらの状態のことを述べています。そして、それは「自分の罪過と罪との中に」あってのことであると言われています。この「自分の罪過と罪との中に」は、与格で表されていますので、「自分の罪過と罪によって」と訳すこともできます。いずれにしましても、これは人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっているために、神さまとの愛にあるいのちの交わりから断たれてしまい、死の力に捕えられてしまっている状態にあることを指しています。
 そのような状態にあった私たちは、さらに「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」でもあったことが示されています。この「御怒り」は私たちの「罪過と罪」に対する、神さまの義に基づく聖なる「御怒り」のことです。この「御怒りを受けるべき子ら」は「御怒りの子ら」というような言い方で、すでに「罪過と罪」に対する神さまの「御怒り」の下にありつつ、なお「罪過と罪」に対する最終的なさばきにおいて表される「御怒りを受けるべき子ら」であることを意味しています。このことこそが、「死んでいる」状態にあることが最終的に行き着くところです。
 このところ、終りの日における最終的なあり方から現在のあり方の意味を理解するという、「終末論的」なものの見方についてお話ししてきました。「自分の罪過と罪との中に死んでいる」ということにも、終末論的な意味があるのです。
 エペソ人への手紙2章では、続く4節〜6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 5節では、父なる神さまが「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださったと言われています。そして、6節では、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われています。この場合の「ともによみがえる」ということも「ともにすわる」ということも、その前の5節で、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし

と言われているときの「ともに生かす」という言葉と同じように、「ともに」という意味の接頭辞(スン)がついている言葉で表されています。それで、6節の「ともによみがえる」ということも「ともにすわる」ということも「キリストと」ともにということであると考えられます。5節において「キリストと」という言葉がありますので、6節では省略されているということです。そして、これが「キリストと」ともにであるということが、原文のギリシャ語では最後に出てくる「キリスト・イエスにおいて」という言葉によってより明確にされていると考えられます。
 1節で「自分の罪過と罪との中に」あって、あるいは「自分の罪過と罪によって」「死んでいる」と言われている状態と対比されるのは、イエス・キリストとともに生きている状態にあることです。それは、イエス・キリストとともによみがえっていることによっています。イエス・キリストとともによみがえっていることこそが真の意味で「生きている」という状態にあることなのです。
 この場合、イエス・キリストとともにということは、「キリスト・イエスにおいて」という言葉に示されているように、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされていることによっています。私たちは、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのち、永遠のいのちに生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストと、御霊のお働きによって一つに結び合わされています。それで、私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって「自分の罪過と罪」を贖われており、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれ、永遠のいのち、復活のいのちに生きているのです。
 6節では、さらに、父なる神さまは私たちをイエス・キリストと「ともに天の所にすわらせて」くださったと言われています。これは、1章20節、21節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われていることを受けています。私たちは、父なる神さまが「死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ」られたイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともに死者の中からよみがえり、天の所に座らせていただいているのです。1章20節で、父なる神さまがイエス・キリストを「天上においてご自分の右の座に着かせられた」と言われているときの「天上において」と、2章6節で父なる神さまが私たちをイエス・キリストと「ともに天の所にすわらせて」くださったと言われているときの「天の所に」は、同じ言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)で表されています。
 もちろん、これは私たちがイエス・キリストとともに父なる神さまの右の座に着座しているという意味ではありません。父なる神さまの右の座に着座しておられるのは栄光のキリストお一人です。私たちは、御霊によって、その栄光のキリストと一つに結び合わされているので、「天の所に」座らせていただいているということです。言い換えますと、栄光のキリストを契約のかしらとする民として、そしてそのゆえに栄光のキリストの御前にある者として、「天の所に」座らせていただいているということです。
 これらのことから、神さまが「天と、天の天」をお造りになり、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」にご臨在されることの意味が分かります。それは、これまで繰り返しお話ししてきたことでもありますが、私たちご自身の契約の民を、イエス・キリストにあって、ご自身のご臨在の御前にあって生きる者としてくださるためです。このことは、終りの日に栄光のキリストが再び来られて、ご自身の契約の民を栄光のうちによみがえらせてくださる時に完全な形で実現します。
 同時に、このことは、イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださり、私たちをご自身の復活のいのちによって生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださったことによって、そして、私たちがそのことをあかしする福音の御言葉にしたがってイエス・キリストを信じた時、すでに、私たちの間で実現し始めています。
 エペソ人への手紙2章4節〜6節では、私たちがイエス・キリストとともに生かされたことも、ともによみがえったことも、ともに「天の所に」座らせていたただいたことも、すべて、過去の決定的な出来事を表す不定過去時制で表されています。それは、そのことがすでに私たちの間で実現し始めているということを示すとともに、そのすべてのことの完全な実現の確かさをも示しています。
 私たちは、御言葉の教えにしたがって、このことの完全な実現を信じて、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈ります。

 


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