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説教日:2007年10月28日 |
このように、イエス・キリストが私たちを終りの日によみがえらせてくださるのは、私たちが「永遠のいのち」を持つことが完全な形で実現するようになるためのことです。その「永遠のいのち」につきましては、ヨハネの福音書17章3節に、 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 というイエス・キリストの御言葉が記されています。 「永遠のいのち」とは、私たちが「唯一のまことの神」であられる父なる神さまを知ることにあります。しかし、私たちは、無限、永遠、不変の栄光の神さまを直接的に見ることも知ることもできません。私たちが父なる神さまを知ることができるのは、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって、また御子イエス・キリストをとおして、ご自身を私たちに啓示してくださっておられるからです。ヨハネの福音書1章18節には、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されています。また、14章9節には、 ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください。」と言うのですか。 というイエス・キリストの教えが記されています。 このように、私たちは、ただ、御子イエス・キリストにあって、また御子イエス・キリストをとおして、父なる神さまを知ることができます。先ほどの、17章3節に記されている、 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 というイエス・キリストの御言葉は、このことを踏まえています。「永遠のいのち」は、私たちが「唯一のまことの神」であられる父なる神さまを知ることにあります。そして、私たちは、ただ、イエス・キリストを知ることによってのみ、父なる神さまを知ることができます。 この場合、私たちが「唯一のまことの神」であられる父なる神さまを知るということは、父なる神さまを遠くから眺めるようにして知るということではありません。父なる神さまとの愛にある交わりのうちにあって、父なる神さまを知るということです。 私たち人間の間であっても、私たちが誰かを知っているというときには二通りの知り方があります。一つは、その人のことを見たり聞いたりして知っているということです。もう一つは、その人との交流、交わりがあって、その交わりをとおしてその人を知っているということです。このことは、特に家族の交わりに典型的に現れています。親とその子どもたちは、生活をともにする家族関係における交わりの中にあって、お互いを知っています。私たちが父なる神さまを知るということも、父なる神さまとの交わりのうちにあって、父なる神さまを知るということを意味しています。 すでにお話ししましたように、私たちが父なる神さまとの交わりができるのも、その交わりの中で父なる神さまを知ることができるのも、御子イエス・キリストにあってのことです。父なる神さまが御子イエス・キリストにあって私たちの間にご臨在してくださるので、私たちは、父なる神さまとの愛の交わりに生きることができますし、その交わりの中で父なる神さまを知ることができるのです。このような、イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛の交わりに生きることの中で父なる神さまを親しく知ることこそが「永遠のいのち」の本質です。 このことを時間的な面から見てみましょう。 父なる神さまは、永遠からのみこころによって、私たちを御子イエス・キリストにあるものとしてお選びくださり、「聖く、傷のない者」として御前に立たせてくださり、「ご自身の子」としてくださるように、定めてくださいました。エペソ人への手紙1章4節、5節に、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されているとおりです。 父なる神さまが、永遠からのみこころによって、私たちを御子イエス・キリストにあるものとしてお選びくださり、「聖く、傷のない者」として御前に立たせてくださり、「ご自身の子」としてくださるように定めてくださったのは、私たちが神の子どもとしての親しさ、近さにおいて、父なる神さまのご臨在の御許に近づき、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためです。そして、この父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりが「永遠のいのち」の本質です。 父なる神さまは、この永遠のみこころを実現してくださるために、天地創造の御業を遂行されました。それは御子によって遂行された御業です。ヨハネの福音書1章1節〜3節に、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されているとおりです。 そして、父なる神さまはこの創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、ご自身との愛の交わりのうちに生きる者としてくださいました。実際に、神のかたちに造られた人は、神さまの聖なるご臨在の御前において生きる者であり、神さまとの愛の交わりのうちに生きていました。 神のかたちに造られた人が神さまとの愛の交わりのうちに生きることができるためには、人が神さまの御前に近づかなければなりません。しかし、神さまは無限、永遠、不変の栄光の主であられます。神さまが直接的にこの世界に触れるなら、この世界が一瞬のうちに焼き尽くされてしまいます。ですから、人がいくら神のかたちに造られているといっても、人は一介の被造物でしかありません。それで、人は直接的に神さまに触れることができないばかりか、直接的に神さまの御前に近づくこともできません。それでも人が父なる神さまとの愛の交わりができるのは、神さまが御子にあって無限に身を低くされて、この世界にご臨在してくださるからです。人は御子にあってこの世界にご臨在してくださる父なる神さまの御前に近づき、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きることができるのです。父なる神さまは御子にあってこの世界にご臨在してくださり、人は御子にあって父なる神さまのご臨在の御前に近づくのです。 このことは、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることと、人が神さまによって造られた被造物であることによっています。それで、このことは人が罪を犯して御前に堕落してからのことではなく、天地創造の御業の初めから変わらないことです。 創世記2章8節、9節には、 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。 と記されています。この「エデンに園」は契約の神である主が特別に設けられたものです。主は特別な意味で「エデンに園」にご臨在されて、そこで神のかたちに造られた人がご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださいました。この主との愛にあるいのちの交わりを表示し保証していたのが、主が「エデンに園」の中央に生えさせた「いのちの木」でした。 また、神である主は「エデンに園」の中央に「善悪の知識の木」をも生えさせられました。この「善悪の知識の木」の意味については、すでにいろいろな機会にお話ししてきたことですので、ここでは結論的なことだけをお話しします。 「善悪の知識の木」は「いのちの木」とともに契約の神である主が備えてくださった恵みの手段であったと考えられます。主がこの木から取って食べてはならないと戒められたことにより、人は契約の神である主が主であられ、自分が主のしもべであり、主の戒めを守るべきものであるということを思い起こすことができるようにされていたのです。実際に、サタンが人を誘惑したときに「善悪の知識の木」に関する戒めが用いられたからといって、神さまが人を誘惑にあわせるために「善悪の知識の木」を備えられたと考えてはなりません。ヤコブの手紙1章13節には、 神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 と記されています。 さらに、この「善悪の知識の木」という名前自体が、人は最初に神のかたちに造られたときの状態から、さらに栄光ある状態になるべきものであることを指し示していたと考えられます。それは、人が「善悪の知識の木」において示されている主のしもべとしての立場に立ち続けることによってのことです。 人が神のかたちに造られたときには、神のかたちとしての栄光がありました。しかし、人は最初の神のかたちとしての栄光の状態に留まるべきものではなく、それより豊かな栄光をもつ者となるように召されていたのです。もちろん、被造物としての限界のうちにあってのことですが、充満な栄光をもつ者となるように召されているのです。 このことは、神さまがご自身の契約において示してくださったみこころです。神のかたちに造られた人は、契約の神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きつつ、主への愛によって主のみこころに従いとおすことによって、その愛による従順に対する報いとして、より豊かな栄光、充満な栄光を受けるようになるということです。それは、神のかたちに造られた人がより栄光あるものとなって、神さまのより豊かな栄光のご臨在、充満な栄光のご臨在の御前に近づいて、より深く豊かな愛にあるいのちの交わりに生きるようになるということを意味しています。 このことを、先ほどお話ししました言葉で言いますと、神さまとの愛にあるいのちの交わりには、終末論的な意味があるということです。神さまとの愛にあるいのちの交わりは、歴史の終わりに完全な形で実現し、完成するということです。それはまた、父なる神さまが、永遠からのみこころによって、私たちを御子イエス・キリストにあるものとしてお選びくださり、「聖く、傷のない者」として御前に立たせてくださり、「ご自身の子」としてくださるように定めてくださったことが、完全な形で実現するということでもあります。 これを契約の神である主のご臨在という観点から見ますと、天地創造の御業の初めに、神さまは「エデンの園」にご臨在され、神のかたちにお造りになった人をそこに住まわせられました。これには、今お話ししました、終末論的な意味があります。人はさらに豊かな栄光あるものとなり、神さまの充満な栄光にあるご臨在の御前に立って、「永遠のいのち」にある交わりに生きるようになるべきものでした。そうしますと、そこには、「エデンの園」における神さまのご臨在よりもさらに豊かな栄光にある神さまのご臨在、充満な栄光にある神さまのご臨在があるはずです。実は、この充満な栄光にある神さまのご臨在がある所が、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」、すなわち「最も高い天」であると考えられます。 しかし実際には、そのように、神さまとの愛の交わりのうちに生きていた人が神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。人は神さまの聖なるご臨在の御前から退けられ、神さまとの愛の交わりを失ってしまいました。そればかりでなく、自らの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきに服すべきものとなってしまいました。そのようにして、人は霊的に死んだもの、神さまとの関係において死んだもの、失われたものとなり、最終的な滅びへの道を歩むものとなってしまいました。これによって、父なる神さまが、永遠からのみこころによって、私たちを御子イエス・キリストにあるものとしてお選びくださり、「聖く、傷のない者」として御前に立たせてくださり、「ご自身の子」としてくださるように定めてくださったことが無に帰してしまったように見えました。 これに対して、父なる神さまは、やはりご自身の永遠からのみこころにしたがってのことですが、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださり、御子によって贖いの御業を成し遂げてくださいました。御子イエス・キリストは私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、まことの人となられました。そして、その地上の生涯において、父なる神さまのみこころに従いとおされました。そして、最後には、父なる神さまのみこころにしたがって、十字架にかかられ、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪は完全に贖われています。そして、自らの罪のために神さまの御前から退けられていた私たちが、再び、神さまとの愛の交わりに生きることができるようになったのです。 そればかりでなく、イエス・キリストはその十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。私たちは、御霊のお働きによって、この栄光をお受けになられたイエス・キリストと一つに結び合わされています。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、イエス・キリストの復活のいのちによって生きる者とされています。これによって、父なる神さまが、永遠からのみこころによって、私たちを御子イエス・キリストにあるものとしてお選びくださり、「聖く、傷のない者」として御前に立たせてくださり、「ご自身の子」としてくださるように定めてくださったことが、私たちの間に実現しているのです。 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 というイエス・キリストの御言葉に示されている「永遠のいのち」が私たちのものとなっているのです。 イエス・キリストは、人々に、 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。 と教えられました。そのことが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちの間に実現しています。 しかし、このことには、なお完成の時があります。それは、イエス・キリストが、これに続いて、 わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と言われたとおり、終りの日に栄光をお受けになったイエス・キリストが再び来られて、私たちの救いを完成してくださることによっています。 これを、再び、神さまのご臨在という観点から見てみますと、天地創造の御業の初めに、神さまは人を神のかたちにお造りになり、ご自身がご臨在される「エデンの園」に住まわせられました。そのように、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きていた人は、さらに豊かな栄光あるものとなり、神さまの充満な栄光にあるご臨在の御前に立って、「永遠のいのち」にある交わりに生きるようになるべきものでした。その充満な栄光にある神さまのご臨在がある所が、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」、すなわち「最も高い天」であると考えられます。その意味で、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」は、「エデンの園」の終末論的な完成としての意味をもっています。 この「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」は、今は、地上にある私たちとは隔たっています。しかし、 天にいます私たちの父よ。 という主の祈りの最初の呼びかけの言葉が示していますように、そこには、父なる神さまのご臨在があります。そして、私たちは御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかり、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれて、父なる神さまの子とされているので、父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と親しく呼びかけることができるのです。 そればかりではありません。「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」では、私たちのために贖いの御業を成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、父なる神さまの右の座に着座しておられます。そして、私たちは今すでにこの栄光のキリストと、御霊のお働きによって一つに結び合わされています。 これらすべての意味において、私たちは栄光のキリストにあって、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」にご臨在される父なる神さまの子どもであり、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」に籍を持っている者です。 そのような者として、私たちは、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 と祈ります。この祈りにおいて、私たちは、父なる神さまのみこころの完全な実現、すなわち、私たちが御子イエス・キリストにあって、「ご自身の子」として、父なる神さまの充満な栄光のご臨在の御前に立って、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることの完全な実現を祈り求めています。 |
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