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説教日:2007年10月14日 |
このイエス・キリストの教えは、6章1節〜15節に記されている出来事を背景にして語られています。 その時、「大ぜいの人の群れ」がイエス・キリストの御許にやって来ていました。その数は男性だけで5千人でした。女性や子どもたちを入れればその数倍であったと考えられます。そこは辺鄙なところでありましたが、イエス・キリストは、そこにいた少年が持ってきていた「大麦のパンを五つと小さい魚を二匹」をお用いになって、その人々が満腹になるまで食べて、なお余るようになる食べ物をお与えになりました。 このことを受けて、14節、15節には、 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。 と記されています。 人々はイエス・キリストのことを「世に来られるはずの預言者」であると思いました。この「世に来られるはずの預言者」は、申命記18章15節に記されている、 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。 というモーセの言葉を受けて、その当時のユダヤ社会の人々が期待していた存在であると考えられます。 このモーセの言葉の「ひとりの預言者」の「ひとりの」という言葉はなく、単数形で表されています。この申命記の文脈では、この単数形の「預言者」は集合名詞で、主がイスラエルに与えてくださる預言者たちのことを指していると考えられます。その預言者たち、イスラエルの歴史において主が遣わしてくださった預言者たちは、モーセが据えた土台の上に立って預言者としての活動をしました。 同時に、新約聖書は、このモーセの言葉はイエス・キリストにおいて、最終的に成就していることが示されています。使徒の働き3章22節、23節には、そのことを述べたペテロの教えが記されています。 その当時のユダヤ社会では、モーセに匹敵する預言者の到来が期待されていました。それで、人々はイエス・キリストがその預言者であると考えたわけです。そして、モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放してくれたように、イエス・キリストは自分たちをローマの圧制から解放してくれるとして、イエス・キリストを王として立てようとしたのです。 イエス・キリストはこれをご存知であられ、それを避けて、お一人で山に登って、祈りによる父なる神さまとの交わりをもたれました。父なる神さまのみこころの行われることを祈り求められたのだと考えられます。 そして、いろいろなことがあって、対岸に渡られたイエス・キリストと弟子たちの許に群衆が押し掛けてきた時、イエス・キリストが人々に語られた言葉を記しているヨハネの福音書6章26節、27節には、 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」 と記されています。 モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放したことは、契約の神である主の恵みに満ちた知恵と力の現れでした。しかし、それは、やがて神である主が遣わしてくださる贖い主、すなわち、イエス・キリストによる、主の民の最終的な解放をあかしする地上的なひな型でした。モーセもやがて神である主が遣わしてくださる贖い主の地上的なひな型でした。 出エジプトを経験したイスラエルの民の第1世代は、自らの罪による不信仰によって神である主に背き続け、荒野において滅びてしまいました。いくら政治的、軍事的な力によって、ある状況から解放されたとしても、また、たとえそれが神さまの奇跡的なお働きによることであっても、それはその人が置かれている状況が変わるということであって、神さまが与えてくださる真の解放ではありません。 人のうちに罪があるかぎり、人は罪の奴隷です。ヨハネの福音書8章34節には、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。 というイエス・キリストの教えが記されています。 人は自らのうちに罪を宿しており、神さまに対して罪を犯します。それで、その罪に対するさばきとしての死を迎え、それは滅びに至ります。これは、地上で大帝国の皇帝として君臨した者であっても、免れることができないことです。 神さまが備えてくださった贖い主、イエス・キリストによる解放は、この罪の力からの解放であり、罪の結果である死と滅びからの解放です。しかし、それはイエス・キリストによる解放の消極的な面でしかありません。イエス・キリストによる解放は、さらに、永遠のいのちへの解放です。 政治的な解放は、それとしての意味をもっています。このことはしかと認められなければなりません。しかし、政治的な解放は人間の根本的な問題を解決するものではありません。すべての人は造り主である神さまの御前に堕落しています。すべての人は自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に、罪を犯します。そのために、すべての人が例外なく、神さまの義の尺度にしたがってさばきを受け、罪に対する神さまの聖なる御怒りに服することになります。それが永遠の滅びです。 父なる神さまはこのすべてから私たち、ご自身の民を救い出してくださるために、そして、私たちに永遠のいのちを与えてくださるために、贖い主として、ご自身の御子を遣わしてくださいました。ヨハネの福音書3章16節に、 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 と記されているとおりです。 イエス・キリストは、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、私たちと一つとなってくださいました。そして、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを。私たちに代わって受けてくださいました。ですから、私たちの罪に対するさばきは、すでに、御子イエス・キリストにおいて執行されており、終っています。そのようにして、父なる神さまは御子イエス・キリストをとおして、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを罪とその結果である死と滅びからまったく解放してくださいました。 そればかりでなく、御子イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。それも、私たちご自身の民と一つとなってくださったイエス・キリストが、私たちのために受けてくださった栄光です。私たちをその栄光にあずかるものとしてくださるためのことです。このようにして、イエス・キリストは私たちをご自身の死にあずからせてくださって、私たちの罪をまったく贖ってくださっただけでなく、私たちをご自身のよみがえりにもあずからせてくださって、私たちをご自身の復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。それによって、私たちが永遠のいのちを持つようにしてくださったのです。 私たちを、このようにイエス・キリストと一つに結び合わせてくださっているのは御霊です。私たちはこの御霊のお働きによってイエス・キリストと一つに結び合わされ、御霊のお働きによって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれています。そして、永遠のいのちをもつ者としていただいています。永遠のいのちの本質は、栄光のキリストにあって、父なる神さまとの愛にある交わりに生きることにあります。このことを私たちのの現実としてくださっているゆえに、御霊は「いのちの御霊」と呼ばれます。 ヨハネの福音書3章3節には、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 というイエス・キリストの教えが記されています。この「新しく生まれなければ」と訳されている言葉の「新しく」という言葉(アノーセン)は「上から」ということをも表します。ヨハネはこの二つの意味をこの言葉に込めていると考えられます。このイエス・キリストの教えを聞いたニコデモがこの言葉を「新しく」生まれるという意味に取ってイエス・キリストに質問したときに、イエス・キリストはそれにお答えになっておられますから、これには「新しく」生まれるという意味があることが分かります。それとともに、5節において、同じことが、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 と言われていることからも分かります。これは、父なる神さまが「上から」遣わしてくださる御霊によって生まれるということを意味しています。 実際に、父なる神さまは、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいて、御霊を遣わしてくださいました。ヨハネの福音書14章26節では、イエス・キリストがこの御霊のことを「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と呼んでおられます。 また、御霊は御子イエス・キリストが父なる神さまの御許から遣わしてくださった御霊でもあります。使徒の働き2章33節には、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 というペテロのあかしが記されています。 このように、御霊は父なる神さまが御子イエス・キリストの御名によって遣わしてくださった御霊であり、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊です。その意味で、御霊は「上から」遣わされた方、天からの御霊です。これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、御霊は「第三の天」、「最も高い天」から遣わされた御霊です。 御霊は、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいて、天から遣わされた方として、また、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいてお働きになる方として、私たちをイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずからせてくださいます。そして、「天のもの」、「天に属するもの」、「天的な特性をもつもの」と言ったらいいでしょうか、御霊は私たちを、そのようなものとしてくださいます。 この御霊のお働きの中心は、私たちを父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリスト、「第三の天」、「最も高い天」の中心におられるイエス・キリストと一つに結び合わせてくださることです。この栄光のキリストこそは「天のもの」、「天に属するもの」、「天的な特性をもつもの」の中心であり、土台です。そして、私たちは、実際に、御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされているので、イエス・キリストのうちにあります。そして、そのゆえに、「天のもの」、「天に属するもの」、「天的な特性をもつもの」とされています。それで、私たちは、父なる神さまがイエス・キリストにある者のために備えてくださった天にある祝福にあずかる者とされています。エペソ人への手紙1章3節に、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と記されていることが、私たちの現実となっているのです。 このこと、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされていることの第1の現れは、私たちがイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれることです。それは御霊のお働きによること、御霊によって生まれることです。 言うまでもなく、このイエス・キリストの復活のいのちは「天のもの」、「天に属するもの」、「天的な特性をもつもの」です。私たちは、天からの御霊のお働きによって、このイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれているので、「天のもの」、「天に属するもの」、「天的な特性をもつもの」となっています。 これが、イエス・キリストが、 人は、新しく(上から)生まれなければ、神の国を見ることはできません。 と教えておられること、また、 人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 と教えておられることに当たります。 ちなみに、私たちが御霊のお働きによって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれていることは、私たちが福音の御言葉にしたがって、イエス・キリストを信じるようになったこと、そして、イエス・キリストの御許に来ていることに現れています。ヨハネの福音書6章44節には、 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 というイエス・キリストの教えが記されています。父なる神さまが「引き寄せられないかぎり、だれも」イエス・キリストの御許に行くことはありません。私たちがイエス・キリストを信じて、イエス・キリストの御許に来たのは、父なる神さまが私たちをイエス・キリストの御許へと「引き寄せ」てくださったからです。 先ほど引用しましたヨハネの福音書6章27節には、 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。 というイエス・キリストの教えが記されていました。 私たちは、すでに、御霊のお働きによって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれた者、永遠のいのちをもつ者、「天のもの」、「天に属するもの」、「天的な特性をもつもの」とされています。しかし、このことの完全な実現は、終りの日に栄光のキリストが再び来られて、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださる時まで待たなければなりません。初めに引用しました、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えは、その完成の時を視野に入れて、強調しています。 その終りの日の完成の時までの間、私たちは「天のもの」、「天に属するもの」、「天的な特性をもつもの」によって養われなければなりません。この世限りの「なくなる食物」ではなく「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」によって養われなければなりません。 27節に記されている、 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。 というイエス・キリストの教えを受けて、続く28節、29節には、 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 と記されています。ユダヤ人たちは、自分たちが何かを行って「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」を受け取ることを考えたようです。しかし、イエス・キリストは「神が遣わした者を信じること」こそが「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」を受け取ることであると教えられました。 そして、いくつかのやり取りの後、イエス・キリストは、ご自身こそが、その「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」であられることを示しておられます。そのイエス・キリストの教えを見てみましょう。 6章35節には、 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 と記されています。さらに、50節、51節には、 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 と記されており、53節〜55節には、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 と記されています。 ここに引用した以外にも見られますが、イエス・キリストはご自身が「天から下って来たパン」であられることを強調しておられます。「天から下って来たパン」は「天のもの」、「天に属するもの」、「天的な特性をもつもの」のための「まことの食物」です。 先ほどのイエス・キリストの教えに示されていますように、「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」であられるイエス・キリストの「肉を食べ」、「その血を」飲むということは、イエス・キリストを信じることによります。逆に言いますと、イエス・キリストを信じるということは、これほどまでにイエス・キリストご自身にあずかることであるのです。これは、私たちが御霊のお働きによって、栄光のキリストと一つに結び合わされているということを考えますと、なるほどとうなずかざるをえない現実です。 どうか、御霊が私たちにこの現実を悟らせてくださいますように。そして、私たちが栄光のキリストと一つに結び合わされていることを御霊による現実として信じることができるように導いてくださいますように。 |
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