(第121回)


説教日:2007年10月7日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 まず、この祈りについて基本的な二つのことを確認しておきます。
 第1に、この祈りは、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、ていねいな形で祈り求めるものであると考えられます。
 第2に、この祈りの、

 みこころが天で行なわれるように

と言われているときの「」は、

 天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけの言葉に出てくる「」に呼応していると考えられます。
 それで、この「」は、コリント人への手紙第2・12章2節〜4節に記されているパウロのあかしに出てくる「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」のことであると考えられます。そして、この「第三の天」はパウロのあかしにおいては「最も高い天」とされていると考えられます。


 これらのことを踏まえて、これまで、この祈りについて私たちがなじんでいる一般的な理解を取り上げ、それを足がかりとして、この祈りの意味を考えてきました。その一般的な理解は、『ウェストミンスター小教理問答』の問103への答に示されている、

第三の祈願、すなわち、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」でわたしたちは、神がその恵みにより、ちょうど天使たちが天においてしているように、わたしたちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように、と祈ります。(松谷訳)

というものです。
 この理解では、

 みこころが天で行なわれるように

ということは「ちょうど天使たちが天においてしているように」という意味であるということです。この理解は一昔前に記された主の祈りに関する書物にはよく出てきますが、最近出版されたものにも見られる理解です。私の手元にあるものでは、2002年に出版された本に、この理解が表されています。
 これに対して、三つのことをお話ししました。
 第1に、「第三の天」において、神さまのご臨在の御前に仕えているのは御使いたちだけではないということです。
 十字架にかかってご自身の民のための贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストを信じている主の民は、御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わされています。罪を贖われて、新しくイエス・キリストの復活のいのちによって生きる者とされています。その主の民が肉体的な死によってこの世を去るときには、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいて罪をまったくきよめられ、イエス・キリストとともに「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」にあるようになります。
 このことは、ルカの福音書23章43節に記されていますが、十字架につけられたイエス・キリストが、ともに十字架につけられて、そこでご自身を信じた強盗に、

まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

と言われたことから分かります。
 ですから、福音の御言葉をとおして啓示されているイエス・キリストを信じ、御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされている主の民で肉体的な死をとおしてこの世を去った人々は、イエス・キリストとともに「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」にあって、父なる神さまのご臨在の御前において神さまを礼拝することを中心として神さまに仕えています。
 第2に、

 みこころが天で行なわれるように

ということは「ちょうど天使たちが天においてしているように」という意味であるという理解では、天において神である主に仕えている御使いが、地にある主の民が父なる神さまのみこころを行うことの模範とされています。けれども、聖書の中に、御使いたちが私たち主の民の模範であるという教えを見つけることができないということです。私たち主の民の模範であり目標であるのはイエス・キリストご自身です。
 第3に、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という主の祈りの第3の祈りは、基本的に、父なる神さまがイエス・キリストをとおしてご自身のみこころを実現してくださることを祈り求めるものであるということです。そして、イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神さまのみこころの中心は、ヨハネの福音書6章38節〜40節に記されている、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えに示されています。
 これら三つのことから、主の祈りの第3の祈りにおける、

 みこころが天で行なわれるように

ということは、「」においては、父なる神さまが、イエス・キリストをとおして、ご自身のみこころをより完全な形で実現しておられるということを意味していると考えられます。そして、その父なる神さまのみこころの中心は、イエス・キリストが、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

とあかししておられることにあると考えられます。
 先週は、これらのことを踏まえて、父なる神さまが「」にご臨在しておられることの意味についてお話ししました。今日は、そのことをさらに補足するお話をします。
 このこととの関連で、改めて明確にしておきたいと思いますが、

 天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけや、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という第3の祈りに出てくる「」は、神さまがお造りになったものであって、この被造物世界に属するものです。気をつけていませんと、「」は永遠にあって、そこに神さまが住んでおられるというようなイメージをもってしまいます。それは、私たち人間が住む所を必要としているということから、神さまも住む所が必要であると考えてしまうことによっています。もし「天」は永遠にあって、そこに神さまが住んでおられるのであれば、神さまより「」の方が大きな存在であるということになってしまいます。そうであれば、神さまは、もはや、存在と栄光において無限、永遠、不変の主ではないことになってしまいます。
 ですから、神さまがこの造られた世界に「」を設けてくださり、そこにご臨在してくださっているのです。
 先週もお話ししましたように、このご臨在は、御子イエス・キリストにあるご臨在です。
 テモテへの手紙第1・6章15節、16節に、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

と記されていますように、御使いであろうと人であろうと、いかなる被造物も、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまを直接的に見ることはできません。もちろん、神さまは肉眼でものを見る人間の目で見ることはできません。ここでは、そのことではなく、神さまが存在と栄光において無限、永遠、不変の方であるから、直接的に見ることも知ることもできないという意味です。霊的な存在である天使であっても、神さまを直接的に見ることはできません。まして、被造物が神さまに直接的に触れるというようなことはできないのです。そのようなことができると考えるのは、無限、永遠、不変の栄光の主にして創造者であられる神さまと、神さまによって造られたものの間にある絶対的な区別をわきまえていないからです。それは、考え方において神さまの聖さを冒すことです。
 これとともに、ヨハネの福音書1章18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまは、御子にあって、また御子をとおして、ご自身を私たちに啓示してくださっています。
 御子は無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、その栄光を隠して、この世界にかかわってくださいます。
 ヨハネの福音書1章3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていますように、御子が父なる神さまのみこころに従って「すべてのもの」をお造りになりました。言い換えますと、父なる神さまが御子をとおして「すべてのもの」をお造りになったということです。
 また、ヘブル人への手紙1章3節前半に、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されていますように、御子はお造りになった「すべてのもの」を、父なる神さまのみこころに従って、保ってくださり導いてくださっておられます。
 そればかりでなく、ヘブル人への手紙1章3節後半に、

また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されていますように、御子は、父なる神さまのみこころに従って、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださいました。そして、私たちご自身の民の救いを完成してくださるために「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」。これまでお話ししてきたことからお分かりになりますが、この「すぐれて高い所」とは「第三の天」すなわち「最も高い天」のことです。そして「すぐれて高い所の大能者の右の座」とは「第三の天」、「最も高い天」にご臨在される父なる神さまの右の座のことです。
 イエス・キリストが「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」ということは、イエス・キリストがこの上なく高い栄光と権威を授けられたことを意味しています。それはイエス・キリストが成し遂げられた贖いが父なる神さまのみこころにかなったものとして受け入れられたことのあかしです。イエス・キリストはこの至高の権威、この上なく高い権威をもって「大能者」すなわち父なる神さまのみこころに従って、ご自身の民のために救いを完成してくださるのです。言い換えますと、イエス・キリストご自身があかししておられる、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

という父なる神さまのみこころを実現し、完成に至らせてくださるのです。
 ヨハネの福音書14章2節、3節には、

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

という、イエス・キリストが十字架につけられる前の夜に弟子たちに語られた教えが記されています。
 2節に記されている「わたしの父の家」は、言うまでもなく、これまでお話ししてきました、父なる神さまがご臨在される「」すなわち「第三の天」、「最も高い天」のことです。イエス・キリストは、

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

と言われました。先ほど引用しました、ヘブル人への手紙1章3節後半には、イエス・キリストのことが、

また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されていました。このことには、イエス・キリストが、

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

とあかししておられるような意味もあったのです。
 さらに、イエス・キリストは、

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

と言われました。この「また来て」ということは、終りの日のイエス・キリストの再臨のことを指しています。
 先ほど引用しましたヨハネの福音書6章39節には、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

というイエス・キリストの教えが記されていました。イエス・キリストは終りの日に再臨されて、ご自身の民を「ひとりも失うことなく、ひとりひとりを」よみがえらせてくださいます。このことには、イエス・キリストが、

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

とあかししておられる意味があるのです。イエス・キリストは私たちを父なる神さまがご臨在される「」すなわち「第三の天」、「最も高い天」に迎え入れてくださるために、終りの日に再び来られて、私たち一人一人を栄光あるものによみがえらせてくださいます。
 イエス・キリストはご自身に与えられた至高の権威、この上なく高い権威をもってこのことを実現してくださいます。
 この復活について、コリント人への手紙第1・15章42節〜44節には、

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。

と記されています。ここでは、復活のからだのことが「朽ちないもの」、「栄光あるもの」、「強いもの」、「御霊に属するからだ」と言われています。復活のからだは「不死」あるいは「不朽」、「栄光」、「強さ」、「御霊のもの」という特性をもっています。これらは、父なる神さまがご臨在される「」すなわち「第三の天」、「最も高い天」にふさわしいものとしての特性です。
 このことは、少し後の、47節〜49節に記されていることから分かります。そこには、

第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。

と記されています。
 47節に出てくる「第一の人」、

第一の人は地から出て、土で造られた者です

と言われている「第一の人」は、最初の人アダムのことです。そして、

 第二の人は天から出た者です。

と言われているのは、言うまでもなく、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは「天から出た者」であり、「」に属する方です。そして、48節で、

天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。

と言われていますが、この「天からの者」(複数形)は私たちのことです。私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされ、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたことによって、「天から出た者」(単数形)すなわちイエス・キリストと似たものとなり、「天からの者」(複数形)としての特性をもつようになりました。そして、このことは、終りの日にイエス・キリストが再臨されて、私たちを栄光あるものへとよみがえらせてくださるときに完全な形で実現し、完成します。49節では、

私たちは・・・天上のかたちをも持つのです。

と言われていますが、これは未来時制で記されていて、終りの日の完成のことに触れています。
 このように、イエス・キリストが、父なる神さまのみこころに従って、終りの日に再臨されて、私たち一人一人を栄光あるものによみがえらせてくださるのは、私たちを父なる神さまがご臨在される「」すなわち「第三の天」にふさわしいものとしての特性をもつ者としてくださるためです。そして、それは父なる神さまがご臨在される「」において、永遠にご自身とともにある者としてくださるためです。
 これらのことから、父なる神さまがこの造られた世界に「」を設けてくださり、そこにご臨在してくださっていることの意味が分かります。それは、先ほど引用しましたヨハネの福音書14章3節に記されている、

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

というイエス・キリストの教えが示しているとおりです。御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされた私たちが、永遠にイエス・キリストとともにあるようになるために、父なる神さまが備えてくださった「場所」が「」すなわち「第三の天」、「最も高い天」なのです。
 このことを考えますと、イエス・キリストを福音の御言葉のあかしに基づいて信じ、御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされている主の民で肉体的な死をとおしてこの世を去った人々が、イエス・キリストとともに「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」にあるということ、そして、父なる神さまのご臨在の御前において神さまを礼拝することを中心として神さまに仕えているということは、父なる神さまが「」すなわち「第三の天」、「最も高い天」を設けて、そこにご臨在してくださっていることの目的にかなったことです。
 私たちは主の祈りにおいて、まず、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけます。この呼びかけは、「」にある私たちと「天にいます」父なる神さまとの間の「距離」を感じさせます。もちろん、私たちは父なる神さまに向かって「私たちの父よ」と親しく呼びかけることを許されています。しかし、そうであるからこそ、よりいっそう「距離感」を感じないではいられません。
 しかし、終りの日にイエス・キリストが再臨されて私たちを栄光ある者としてよみがえらせてくださるとき、私たちは「」すなわち「第三の天」にふさわしいものとしての特性をもつ者としていただき、そこにご臨在される父なる神さまの御前にあるようになります。その時には、今、私たちが「」にある者として感じている、ある種の「距離感」はまったく取り去られます。
 私たちは御言葉に記されている主の約束に基づいてこのことを信じて、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈ります。

 


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