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説教日:2007年9月30日 |
これまで、まず、この主の祈りの第3の祈りには、父なる神さまが、恵みによって、私たちをご自身のみこころを行う者としてくださるように祈り求めるという面があるということ、そして、それは大切なことであるということをお話ししました。このことを踏まえた上でのことですが、先週と先々週は、この広く受け入れられている理解で、 みこころが天で行なわれるように ということは、「ちょうど天使たちが天においてしているように」ということを意味しているとされていることの問題をお話ししました。 そのことに関して、合わせて三つのことをお話ししました。 第1のことは、「天」において父なる神さまのご臨在の御前において仕えているのは御使いたちだけではないということです。 ルカの福音書23章43節に記されていますように、十字架につけられたイエス・キリストは、ともに十字架につけられた強盗がご自身に対する信仰を告白したとき、その強盗に、 まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。 と言われました。 このことから、イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じている主の契約の民は、肉体的な死によってこの世を去るとき、イエス・キリストとともに「パラダイス」、すなわち、「第三の天」、「最も高い天」にあるようになることが分かります。そして、そのように「天」においてイエス・キリストとともにある主の民は、そこにご臨在される父なる神さまの御前での礼拝に参与して、御前で仕えていると考えられます。ですから、この世を去って主イエス・キリストとともにある主の民たちの間においても、父なる神さまのみこころが完全な形で行われていると考えられます。 第2のことは、主の祈りの第3の祈りにおいては、父なる神さまのみこころが行われることの中心は、御使いたちや私たち主の民が父なる神さまのみこころを行うことにあるのではなく、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることにあるということです。この祈りにおいては、私たち主の民が父なる神さまのみこころを行うことは大切なこととして含まれていますが、そのことが中心にあるのではないということです。 父なる神さまは、どのような場合にも、御子イエス・キリストにあって、また御子イエス・キリストをとおして、ご自身のみこころを実現してくださいます。後ほど詳しくお話ししますが、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって、また御子イエス・キリストをとおしてでない形で、この世界に対するみこころを行われることはありえません。父なる神さまは、「天」にあっても「地」においても、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、ご自身のみこころを実現してくださいます。そして、その父なる神さまのみこころの中心は、ヨハネの福音書6章38節〜40節に記されている、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えに示されています。 父なる神さまは、「天」にあっても「地」においても、このイエス・キリストの教えに示されているみこころを実現してくださいます。 先週も引用しましたが、十字架にかかってご自身の民のために罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが天に上られる前のことを記している、マタイの福音書28章18節〜20節には、 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 と記されています。 イエス・キリストは、 わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 と言われました。この「天においても、地においても」という言葉は、主の祈りの第3の祈りの「天にあってのように地においても」(直訳)という言葉と同じことを示しています。イエス・キリストに「いっさいの権威」を与えられたのは父なる神さまです。父なる神さまがイエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、「天においても、地においても」ご自身のみこころを実現してくださるのです。 第3のことは、聖書の中に、私たち地にある主の民が父なる神さまのみこころを行うことの基準や模範が御使いたちであるという教えを見つけることができないということです。 主の祈りの第3の祈りにおいては、天において父なる神さまのみこころが行われていることが基準となっています。そして、先ほどの広く受け入れられている理解では、それは御使いたちが父なる神さまのみこころを行っていることであるとされています。そうしますと、御使いたちが父なる神さまのみこころに従っていることが、地にある主の民の間で父なる神さまのみこころが実現することの基準となるということになります。ところが、聖書の中に、私たち地にある主の民が父なる神さまのみこころを行うことの基準や模範が御使いたちであるという教えを見つけることができないのです。聖書の中では、私たちの主イエス・キリストご自身が、私たち地にある主の民の存在と行いの基準であり、模範であり、目標であると言われています。 イエス・キリストは十字架につけられる前の夜、弟子たちとともにゲツセマネにある園において、3度、同じ主旨の祈りを祈られました。最初の祈りを記しているマタイの福音書26章39節には、 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 と記されています。 十字架は人間が考え出した最も残酷な刑罰の一つです。イエス・キリストは人の手によってこの十字架に付けられただけでなく、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってお受けになりました。それは私たちの想像も追いつかない恐ろしいさばきです。それを前にして、イエス・キリストは、おののきつつ、なおも父なる神さまのみこころがなされることを祈り求められました。そのようにして、私たちご自身の民のための贖いを成し遂げてくださいました。そのように、イエス・キリストは父なる神さまのみこころがなされることを祈り続けられ、父なる神さまのみこころを行われました。このようなイエス・キリストご自身とその歩みこそが、私たち主の民の模範であり目的です。 これら三つのことから、主の祈りの第3の祈りにおける「みこころが天で行なわれている」ということは、「天」において父なる神さまのご臨在の御前に仕えている御使いや主の民たちが父なる神さまのみこころを行っているというということを指しているのではないのではないのではないかと思われます。 このこととの関連で、改めて注目したいのは、 みこころが天で行なわれるように と言われているときの「天」のことです。 すでにお話ししていますように、これは、 天にいます私たちの父よ。 という父なる神さまへの呼びかけの言葉に出てくる「天」に呼応していると考えられます。そして、これはコリント人への手紙第2・12章2節〜4節に記されているパウロのあかしに出てくる「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」のことであると考えられます。この「第三の天」が「最も高い天」であると考えられるのは、そのパウロのあかしにおいて「第三の天にまで引き上げられました」(2節)と言われているときの「にまで」という言葉(ヘオース)が最終地点を表すものであるからです。また、「三」という完全数で表されている「第三の天」という表現自体が「最も高い天」を表している可能性もあります。 今お話ししていることとのかかわりで言いますと、この「最も高い天」としての「第三の天」は、 天にいます私たちの父よ。 という父なる神さまへの呼びかけの言葉に出てくる「天」に呼応していて、父なる神さまがその充満な栄光のうちにご臨在しておられる所です。とはいえ、それは物理的な空間、すなわちこの宇宙のどこかにあるのではなく、「第三の天」という言葉が暗示していますように、物理的な空間、この宇宙を越えた所です。 さらに、父なる神さまがこの「第三の天」にご臨在しておられると言っても、父なる神さまが「第三の天」の中に納まってしまわれるということではありません。歴代誌第2・6章18節には、主のためにエルサレム神殿を建てたソロモンが、その神殿の奉献の時に祈った祈りの1部が記されています。それは、 それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。 というものです。ソロモンは、 実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。 と言いました。これを言い換えれば、「第三の天」であっても神さまをお入れすることはできないということです。神さまは存在と栄光において無限、永遠、不変であられます。無限の存在であられ、無限の栄光の神さまが、たとえ「第三の天」であっても、そこに納まってしまうということはありえません。 それでは、父なる神さまが「第三の天」におられるということはどのようなことでしょうか。 それは、 天にいます私たちの父よ。 という父なる神さまへの呼びかけの言葉についてお話ししたときにもお話ししましたが、父なる神さまが特別な意味でそこにご臨在してくださるということです。先ほど、父なる神さまは充満な栄光のうちにご臨在してくださっていると言いましたが、それは無限、永遠、不変の栄光においてご臨在しておられるという意味ではなく、「第三の天」にふさわしい充満な栄光ということです。 もし、父なる神さまが無限、永遠、不変の栄光においてご臨在されるとしたら、「第三の天」において御前に仕えている御使いたちも、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、この世を去り、罪をまったくきよめられた者として、御前において仕えている主の民たちも、その御前に焼き尽くされてしまい、存在しえないはずです。そればかりでなく、「第三の天」そのものが御前に焼き尽くされてしまい、存在しえなくなってしまいます。 無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまと、神さまによって造られた被造物の間には絶対的な区別があります。このことを示すのが神さまの「聖さ」です。この区別を踏み越えて神さまに近づくものは、人であれ御使いであれ、神さまの聖さを冒すものとして、たちまちのうちに聖なる御怒りによって滅ぼされてしまいます。テモテへの手紙第1・6章15節、16節に記されている、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 という教えは、イエス・キリストの贖いの恵みにあずかってこの世を去り、罪をまったくきよめられた者として、「第三の天」において父なる神さまのご臨在の御前に仕えている主の民にとっても、そのまま当てはまります。 言うまでもなく、神さまがご自身から、この絶対的な区別を踏み越えられるということはありません。そのようにして、ご自身の聖さを否定するようなことは決してなさいません。今お話ししていることとのかかわりで言いますと、父なる神さまが、無限、永遠、不変の栄光において「第三の天」にご臨在されることも、それによって、御使いや聖徒たちに直接的に触れられるということはありません。 いろいろな機会にお話ししてきましたが、聖書の御言葉が教えていることによりますと、三位一体の神さまは、この世界とかかわってくださるために、人間的な言い方ですが、御父、御子、御霊の間に役割分担をしておられます。父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられ、創造の御業と贖いの御業をご計画された方です。そして、御子は父なる神さまのご計画、父なる神さまのみこころにしたがって創造の御業と贖いの御業を遂行される方です。御子は無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、その栄光を隠して、この世界にかかわってくださり、創造の御業と贖いの御業を遂行してくださるのです。そして御霊は御子が遂行された御業を私たちを初めとして、いのちあるものもないものも、この世界のすべてのものに当てはめてくださる方です。 父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられますので、御使いであれ人であれ、どのような被造物も、父なる神さまを、直接、見ることはできません。そのような直接的に触れ合う形で、父なる神さまとともにあることはできません。それは、私たちが、直接、太陽に触れることができないということ以上のことです。父なる神さまは、常に、御子にあって、また御子をとおしてご自身を示してくださいます。また、御子にあって、また御子をとおして私たちに出会ってくださいます。先ほど、父なる神さまは、常に、御子イエス・キリストにあって、また御子イエス・キリストをとおして、みこころを実現してくださると言ったことも、これに符合しています。 そのようなわけで、父なる神さまは御子にあって、また御子をとおして、この世界にご臨在してくださいます。父なる神さまが充満な栄光において「第三の天」にご臨在してくださるのも、御子にあって、また御子をとおしてご臨在してくださるということです。そして、そのご臨在が充満な栄光に満ちたものであるというのも、「第三の天」にふさわしい充満な栄光に満ちているということであって、無限、永遠、不変の栄光に満ちているということではありません。 ですから、「第三の天」は神さまの必要のために設けられたものではありません。神さまはご自身のお住まいが必要だから「第三の天」を設けられたのではありません。「第三の天」といえども、存在と栄光において無限、永遠、不変の神さまを入れることはできないのです。 ではどうして「第三の天」があるのでしょうか。どうして、神さまはわざわざ「第三の天」を設けられ、そこにご臨在しておられるのでしょうか。 それは私たちご自身の民への祝福のためです。繰り返しお話ししていますが、イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じている主の契約の民は、肉体的な死によってこの世を去るとき、その罪をまったくきよめられ、イエス・キリストとともに、そしてイエス・キリストにあって、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」にあるようになります。つまり、そこに特別な意味でご臨在される父なる神さまの御前にあるようになるのです。このことは、「第三の天」が私たちイエス・キリストの民への祝福のために設けられたものであることを示しています。 先ほども触れましたが、イエス・キリストにあって、イエス・キリストをとおして遂行される父なる神さまのみこころの中心は、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えに示されています。 イエス・キリストは、 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。 と言われました。この「永遠のいのち」の本質は、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまを知り、父なる神さまとの愛の交わりに生きることにあります。そして、イエス・キリストは、この「永遠のいのち」をあらゆる意味で私たちの現実としてくださるために、終りの日に再臨されて、私たちを栄光あるものとしてよみがえらせてくださいます。そのようにして、私たちはイエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、充満な栄光においてご臨在される父なる神さまの御前にある者、御前に仕える者となるのです。 これは、エペソ人への手紙1章3節〜4節に、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されている、父なる神さまの「永遠のみこころ」が、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、実現されることでもあります。 私たちは、福音の御言葉に示されている神さまの約束に基づいて、終りの日の完成の時を待ち望んでいます。そして、その日を待ち望みつつ、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 と祈ります。 |
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