(第119回)


説教日:2007年9月23日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 いつものように、これまでお話ししたことを復習しながらお話を進めていきます。
 この祈りは、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、ていねいな形で祈り求めるものであると考えられます。
 また、この祈りの、

 みこころが天で行なわれるように

という言葉は、「」において父なる神さまのみこころが行われていることを基準として示していると考えられます。そして、この第3の祈りは、それと同じように、「」においても父なる神さまのみこころが行われ、実現するようになることを祈り求めるものであると考えられます。
 さらに、この「」において父なる神さまのみこころが行われているというときの「」は、

 天にいます私たちの父よ。

という父なる神さまへの呼びかけの言葉に出てくる「」に呼応していると考えられます。それで、この場合の「」は、コリント人への手紙第2・12章2節〜4節に記されているパウロのあかしに出てきます「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」、すなわち「最も高い天」のことであると考えられます。


 先週は、

 みこころが天で行なわれるように

ということについて広く受け入れられている理解の問題についてお話ししました。その理解は『ウェストミンスター小教理問答』の問103への答に示されています。それは、

第三の祈願、すなわち、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」でわたしたちは、神がその恵みにより、ちょうど天使たちが天においてしているように、わたしたちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように、と祈ります。(松谷訳)

というものです。
 この理解では、「ちょうど天使たちが天においてしているように」という言葉に示されていますように、天において御使いたちが父なる神さまのみこころを行っていることが基準となっています。そして、そのように、地でも父なる神さまのみこころが行われるようになることを祈り求めるということです。具体的には、父なる神さまが、恵みによって、私たちを、天における御使いたちのように、ご自身のみこころを行う者としてくださるように祈り求めるということです。
 これに対しまして、これまで二つのことをお話ししてきました。
 第1のことは、「」において父なる神さまのご臨在の御前において仕えているのは、御使いたちだけではないということでした。
 ルカの福音書23章43節に記されていますように、十字架につけられたイエス・キリストは、ともに十字架につけられた強盗が、そこでご自身に対する信仰を告白したとき、その強盗に、

まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

と言われました。このことから、イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じている主の契約の民は、肉体的な死によってこの世を去るとき、イエス・キリストとともに「パラダイス」、すなわち、「第三の天」、「最も高い天」にあるようになることが分かります。そして、そのように「」においてイエス・キリストとともにある主の民は、そこにご臨在される父なる神さまの御前での礼拝に参与して、御前で仕えていると考えられます。ですから、この世を去って主イエス・キリストとともにある主の民たちの間においても、父なる神さまのみこころが完全な形で行われていると考えられます。
 これまでずっとこのことにこだわってきたのは、この主の祈りの第3の祈りにおける、

 みこころが天で行なわれるように

ということの中心は御使いたちではなく、主イエス・キリストとともにある主の民の間に父なる神さまのみこころが実現していることにあるのではないかと考えられるからです。このことは、後ほどお話しすることから明らかになってくると思います。
 第2のことは、父なる神さまのみこころが行われることの中心は、御使いたちや私たち主の民が父なる神さまのみこころを行うことにあるのではなく、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることにあるということです。
 確かに、この祈りには、先ほどの『ウェストミンスター小教理問答』の問103への答に示されていますように、私たち主の民が、神さまの恵みによって、神さまのみこころを行うようになることが含まれています。しかも、それは父なる神さまが恵みによって私たちをそのような者へと造り変えてくださり、導いてくださることによっていることでもあります。しかし、それは、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることの一つの面であるということです。
 父なる神さまは、どのような場合にも、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、ご自身のみこころを実現してくださいます。天にあっても地においても、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、ご自身のみこころを実現してくださるのです。そして、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして実現される父なる神さまのみこころの中心は、繰り返しの引用になりますが、ヨハネの福音書6章38節〜40節に記されている、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えに示されています。
 以上はこれまでお話ししてきたことの復習です。
 御言葉に記されていることについて、キリストのからだである教会の間で広く受け入れられている理解とは違った理解をする場合には、それなりの理由がなくてはなりません。この主の祈りの第3の祈りの、

 みこころが天で行なわれるように

ということについて、一般的な理解とは少し違った理解をお話ししていますので、その理由をお話ししておきたいと思います。
 その理由の一つは、これまで復習としてお話ししてきました二つのことです。このことは、もう繰り返すことはいたしません。
 これはもう一つの理由があります。
 主の祈りの第3の祈りにおいては、天において父なる神さまのみこころが行われていることが基準となっています。そして、一般には、それは御使いたちが父なる神さまのみこころを行っていることにあると理解されています。そうしますと、御使いたちが父なる神さまのみこころに従っていることが、地にある主の民の間で父なる神さまのみこころが実現することの基準となるということになります。
 ところが、聖書の中に、私たち地にある主の民が父なる神さまのみこころを行うことの基準や模範が御使いたちであるという教えを見つけることができないのです。むしろ、地にある主の民の模範は、アブラハムを初めとする信仰の先達たちであることが示されています。コリント人への手紙第1・11章1節には、

私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

というパウロの言葉が記されています。同じようなことは、同じ手紙の4章16節、ピリピ人への手紙3章17節、テサロニケ人への手紙第1・1章6節などに記されています。
 そして、それ以上に、主イエス・キリストご自身が私たち主の民の歩みの基準であり、模範であり、目標であると言われています。そのいくつかの例を見てみますと、ピリピ人への手紙2章1節〜5節には、

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

と記されています。そして、最後の、

それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

という言葉を受けて、6節〜11節には、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。イエス・キリストはしもべとなられ、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことが記されています。そのイエス・キリストが私たちの模範であることが記されています。
 また、ペテロの手紙第1・2章21節〜24節には、

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

と記されています。これはしもべたちへの戒めですが、そのまま私たちにも当てはまります。
 さらに、ヨハネの福音書13章34節に記されていますように、イエス・キリストご自身も、

あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

という戒めをお与えになりました。そして、ヨハネも、ヨハネの手紙第1・3章16節において、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と述べています。
 先ほど引用しましたが、パウロも、

私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

と述べて、最終的な模範はイエス・キリストご自身であることを示しています。
 これらのことから、「私たち地にある主の民が父なる神さまのみこころを行うことの基準は何か」と問われるなら、「それは私たちの主であられるイエス・キリストご自身である」と答えなければなりません。そして、このことを踏まえますと、主の祈りの第3の祈りにおける「みこころが天で行なわれている」ということは、「」において父なる神さまのご臨在の御前に仕えている御使いや主の民たちが父なる神さまのみこころを行っているというということを指しているのではないのではないかと思われます。もちろん、「」において父なる神さまのご臨在の御前に仕えている御使いや主の民たちは父なる神さまのみこころを行っています。けれども、第3の祈りの、

 みこころが天で行なわれるように

という言葉はそのことに焦点を合わせてはいないということです。
 このようなことから、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りは、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、ていねいな形で祈り求めるものであると考えられるということに注目してきました。また、父なる神さまがご自身のみこころを行われるのは、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおしてであるということを心に留めてきました。そして、そのように実現される父なる神さまのみこころの中心は、ヨハネの福音書6章38節〜40節に記されています、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えに示されていることに注目してきました。父なる神さまはこのイエス・キリストの教えに示されていることを、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして実現してくださり、完成してくださいます。これが父なる神さまのみこころが行われることの中心にあります。
 このこととの関連で注目したいのは、イエス・キリストが天に上られて、父なる神さまの右の座に着座される前に、弟子たちに与えられた命令です。マタイの福音書28章18節〜20節には、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されています。
 18節には、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

というイエス・キリストの宣言としての教えが記されています。今日は詳しいことはお話しできませんが、主の祈りの第3の祈りの「天にあってのように地においても」(直訳)という言葉は、このマタイの福音書28章に記されているイエス・キリストの教えの「天においても、地においても」という言葉と関連づけて理解することができます。
 このマタイの福音書28章に記されているイエス・キリストの教えは、ご自身が十字架におかかりになり、死者の中からよみがえられて、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださったことを踏まえています。イエス・キリストは、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、ご自身の民の救いを実現してくださり、完成してくださるお方として、「天においても、地においても、いっさいの権威」を授けられたのです。そして、父なる神さまの右の座に着座されて、「天においても、地においても」この権威を行使しておられます。
 このことを、先ほどの、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えに示されている父なる神さまのみこころの中心にあることをかかわらせてみるとどうなるでしょうか。イエス・キリストはこの父なる神さまのみこころを実現してくださるために「天においても、地においても、いっさいの権威」を授けられたということになります。すべてのものの上に立ってそれらを牛耳るというのではなく、ご自身の民の救いの完成のためにお働きになる「いっさいの権威」を授けられたということです。そして、実際に、父なる神さまの右の座に着座されて、「天においても、地においても」父なる神さまのみこころを実現しておられます。
 そして、その目的は、先ほど引用しましたピリピ人への手紙2章10節、11節に、

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されていることにあります。
 すでにお話ししてきましたように、このことは、「」において父なる神さまのご臨在の御前に仕えている御使いや主の民たちの礼拝において、より完全な形で実現しています。これは、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と宣言された主イエス・キリストが「天において」父なる神さまのみこころを実現しておられることの現れです。
 マタイの福音書28章では、18節に記されている、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

という宣言に続いて、19節、20節に、

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

という戒めが記されていました。これは、一般に「大宣教命令」と呼ばれていますが、基本的には、

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

と約束された主イエス・キリストが、ご自身の民を通して成し遂げてくださることです。言い換えますと、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と宣言された主イエス・キリストが「地において」父なる神さまのみこころを実現してくださるということです。イエス・キリストは私たちのあかしをとおして、地の「あらゆる国の人々」の中からご自身の民を召してくださり、ご自身のからだである教会に加えてくださいます。これによって、

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

という父なる神さまのみこころの目的が「地においても」実現するようになるのです。
 ただ、今は、このことの実現の程度というか、豊かさにおいては、「」にあってと「」においての間には違いがあります。「」にあってはより完全な形において実現していますが、「」においては、今なおさまざまな問題と障害にさらされています。しかし、主の民の贖いが完成する終りの日には、「天においても、地においても」父なる神さまのみこころが完全な形で実現します。

 


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