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説教日:2007年9月16日 |
この「天」において父なる神さまのみこころが行われているということが具体的にどのようなことであるかということについては、『ウェストミンスター小教理問答』の問103への答に一般的な理解が示されています。その答は、 第三の祈願、すなわち、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」でわたしたちは、神がその恵みにより、ちょうど天使たちが天においてしているように、わたしたちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように、と祈ります。(松谷訳) となっています。この理解の一つのポイントは、「ちょうど天使たちが天においてしているように」という言葉にあります。御使いたちが父なる神さまのみこころを知り、それに従うことを願い、実際に従っていることが基準であるということです。 この理解には問題があるということで、これまで、二つのことをお話ししてきました。 第1のことは、父なる神さまのご臨在の御前において仕えているのは、御使いたちだけではないということです。ルカの福音書23章43節に記されていますように、十字架につけられたイエス・キリストは、ともに十字架にかかった強盗がご自身に対する信仰を告白したとき、その強盗に、 まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。 と言われました。このことから、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストを信じている主の契約の民は、肉体的な死によってこの世を去るとき、イエス・キリストとともに「パラダイス」、すなわち、「第三の天」、「最も高い天」にあるようになることが分かります。そのようにイエス・キリストとともにある主の民は、そこにご臨在される父なる神さまの御前での礼拝に参与して、御前で仕えていると考えられます。ですから、この世を去って主イエス・キリストとともにある主の民たちの間においても、父なる神さまのみこころが完全な形で行われていると考えられます。 第2のことは、これまであまりはっきりとはお話ししてきませんでしたので、今日はこのことについてお話ししたいと思います。 それは、最初にお話ししたとおり、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という第3の祈りは、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、ていねいな形で祈り求めるものであるということです。つまり、この祈りの強調点は、父なる神さまがなしてくださること、父なる神さまがイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストをとおして、ご自身のみこころをなしてくださることにあります。 第1のこととしてお話ししましたように、神さまのご臨在の御前においては御使いたちや、イエス・キリストの贖いの恵みにあずかった主の民が仕えています。そして、御使いも主の民も父なる神さまのみこころにしたがっています。しかし、そのことは、父なる神さまがイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストをとおして、ご自身のみこころをなしてくださっていることの枠の中にあるのです。父なる神さまのみこころが行われるということは、御使いたちや主の民が父なる神さまのみこころを行うということより意味が広いと考えられます。父なる神さまのみこころが行われるということは、御使いたちや主の民が父なる神さまのみこころを行うことよりも基本的で中心的なことがあると思われるということです。 どういうことかと言いますと、御使いたちのことはおいておきますが、主の民が父なる神さまの御前に近づくことが許されているのは、二つのことによっています。一つは、イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従って、ご自身の民のために罪の贖いの御業を成し遂げてくださったことです。もう一つは、主の民が、御言葉に基づいて、イエス・キリストを父なる神さまがお遣わしになった贖い主として信じたということです。この二つのことのどちらも、父なる神さまが、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、ご自身のみこころを実現してくださったものです。そして、そのようにして父なる神さまの御前に近づけられた主の民が、父なる神さまのみこころを行っているのです。 まず、「イエス・キリストが」父なる神さまのみこころにしたがって、ご自身の民のために罪の贖いの御業を成し遂げてくださったことは、「父なる神さまが」ご自身のみこころを実現してくださったことであるということについてお話ししたいと思います。 皆さんがよくご存知のように、イエス・キリストは無理やり押し付けられてではなく、ご自身の自由な意志で私たちご自身の民の贖い主となってくださいました。イエス・キリストは人となって来てくださり、十字架におかかりになり、私たちに代わって、私たちの罪に対する父なる神さまのさばきをすべて受けてくださいました。そして、その完全な従順に対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。このすべては、イエス・キリストがご自身の権威によって、また、ご自身の自由な意志によってお選びになったことです。 ヨハネの福音書10章11節には、 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 というイエス・キリストの言葉が記されています。そして、18節には、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここには、イエス・キリストがご自身の民のためにいのちをお捨てになることは、ご自身に委ねられた権威に基づくことであり、ご自身の意志によることであることが示されています。そして、それは父なる神さまのみこころを行うことであるということが示されています。 イエス・キリストを十字架につけたのはローマの兵士たちでした。イエス・キリストをローマの手に渡したのはユダヤ社会の当局者たちでした。しかし、そのすべては、イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従って、ご自分のいのちをお捨てになることに用いられました。主であられるイエス・キリストが彼らのさまざまな思惑を用いて、父なる神さまのみこころを実現されたのです。 さらに、ヨハネの福音書に記されていますイエス・キリストの教えのいくつかを見てみましょう。5章19節には、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。 と記されています。30節には、 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。 と記されています。また、12章49節には、 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。 と記されています。 これらの教えは、イエス・キリストが父なる神さまのみこころを行っておられることをあかししています。それらは、その前後に記されていることを見ていただけば分かりますが、イエス・キリストが父なる神さまとまったくお一つであられることに基づいて語られたものです。 このことがよりはっきりと示されているのは、14章9節、10節に記されている、 ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください。」と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。 というイエス・キリストの教えです。 10節初めに記されている、 わたしが父におり、父がわたしにおられる という言葉は、イエス・キリストが父なる神さまとまったく一つであられることを意味しています。それゆえに、イエス・キリストは、 わたしを見た者は、父を見たのです。 と言うことがおできになりました。 10節で、これに続いて記されています、 わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、 という言葉の後には、「話しておられるのです。」という言葉が来るのではないかと思われます。 わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、話しておられるのです。 というようにです。しかし、イエス・キリストは、 わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。 と言われました。イエス・キリストのうちにおられる父なる神さまが「ご自分のわざをしておられるので」イエス・キリストは語っておられるということです。これは、イエス・キリストの御業のすべてに当てはまります。ですから、父なる神さまがイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストをとおして、ご自身の御業をなさっておられます。それによって、父なる神さまはご自身のみこころを実現してくださいました。このことが、父なる神さまがご自身のみこころを行われることの中心にあります。 その父なる神さまのみこころの内容的な中心は、先週も引用しましたが、ヨハネの福音書6章38節〜40節に記されています、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えに示されています。これにはすでに私たち主の民の間に実現していることと、「ひとりひとりを終わりの日によみがえらせる」という、終りの日における完成を待たなければならないことがあります。 このように、イエス・キリストは父なる神さまとまったく一つであられる方として、ご自身の自由な意志を働かせて、父なる神さまのみこころに従っておられましたし、今も、従っておられます。これを言い換えますと、父なる神さまを愛して、父なる神さまのみこころに従われたし、今も従っておられるということです。それを、父なる神さまの側から見ますと、父なる神さまがイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストをとおして、ご自身のみこころを実現しておられるということです。 同じようなことが、主の民が父なる神さまのみこころを行うことについても言えます。 ヨハネの福音書14章の18節〜20節には、 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。 というイエス・キリストの教えが記されています。 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。 という言葉は、イエス・キリストが十字架につけられて殺された後、栄光を受けて死者の中からよみがえられて、弟子たちにご自身を現してくださることを意味していると考えられます。これは終りの日における再臨のことを指すという意見もありますが、「いましばらくで」という言葉などに示されていますように、より間近なこととして起こることを指していると考えられます。 そして、 わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。 という言葉は、私たち主の民が栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストと、御霊によって、一つに結び合わされて、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、そのいのちによって生きるようになることを意味しています。それで、イエス・キリストは、 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。 と教えられたのです。 このことは、十字架にかかってご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、そこから、御霊を注いでくださったことによって、私たちご自身の民の間に実現しています。 この御霊によって、私たちは父なる神さまとまったく一つであられるイエス・キリストと一つに結び合わされており、イエス・キリストの復活のいのちによって生きる者とされています。それで、ガラテヤ人への手紙2章20節に記されていますように、パウロは、 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 と告白しています。これは、先ほど引用しました、 わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。 というイエス・キリストの教えが実現していることを示しています。 先ほどはヨハネの福音書14章18節〜20節を引用しましたが、続く21節には、 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。 というイエス・キリストの教えが記されています。 父なる神さまとまったく一つであられるイエス・キリストと一つに結び合わされている主の民は、イエス・キリストを愛します。それは、主の民を生かしているイエス・キリストの復活のいのちの本質的な特性が愛であり、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださっている御霊の実の第1の現れが愛であるからです。 そして、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされている主の民、 キリストが私のうちに生きておられる と告白するまでにイエス・キリストと一つに結び合わされている主の民は、イエス・キリストが父なる神さまを愛してそのみこころに従われたように、イエス・キリストの戒めを守ります。15章9節、10節に、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。 と記されているとおりです。 イエス・キリストの復活のいのちによって生かされている主の民は自由な意志を働かせますし、働かせなければなりません。そして、その自由な意志はイエス・キリストへの愛において働きますので、イエス・キリストの戒めを守ることとして現れてきます。このヨハネの福音書14章〜16章に記されているイエス・キリストの教え、それはひとまとまりになっている教えですが、その中では、イエス・キリストの戒めは15章12節に記されています、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 というイエス・キリストの教えにまとめられます。これと呼応するのが、ガラテヤ人への手紙5章13節、14節に記されています、 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。 というパウロの教えです。 私たちは、 キリストが私のうちに生きておられる と告白するほどに、御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わされ、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。それで、私たちはイエス・キリストにある自由な者として、互いに愛し合うものです。それは、私たちのうちに生きておられるキリストが私たちの間に実現してくださることです。それを今お話していることに則して言いますと、父なる神さまがイエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、ご自身のみこころを私たちの間に実現してくださることとしての意味をもっています。 これら二つのことから、父なる神さまのみこころが行われるということは、私たち主の民が父なる神さまのみこころを行うということよりは、はるかに広いものであることが分かります。その中心は、先ほども引用しましたヨハネの福音書6章38節〜40節に記されているイエス・キリストの教えに示されていますように、私たちがイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、罪を贖われ、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、永遠のいのちをもつ者、神の子どもとしていただくことです。これが父なる神さまのみこころの行われることの中心にあると考えられます。そして、父なる神さまがそのことを実現してくださった結果、私たちは父なる神さまのみこころに従って、互いに愛し合うようになったのです。このすべては、父なる神さまがご自身のみこころを、イエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして私たちの間に実現してくださったことの現れです。 これとともに、父なる神さまが私たちの間に実現してくださったご自身のみこころは、いまだ完全な形では実現していません。先ほどのヨハネの福音書6章38節〜40節に記されているイエス・キリストの教えにおいては、イエス・キリストが私たちを終りの日によみがえらせてくださることが強調されていました。父なる神さまは、終りの日のイエス・キリストの再臨の日に、栄光のキリストにあって、また栄光のキリストをとおしてご自身のみこころを完全な形で私たちの間に実現してくださいます。私たちはこのことを福音の御言葉に基づいて信じて、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という祈りを祈ります。 |
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