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説教日:2007年9月9日 |
ここで、一つの疑問が出てきます。それは、どうして、この主の祈りの第3の祈りでは、「天」において父なる神さまのみこころが行われていることが基準として取り上げられているのかということです。もちろん、それは、「天」においては父なる神さまのみこころが完全に行われているからだということなのですが、そうであれば、 あなたのみこころが完全に行われますように。 というように、あるいは、 あなたのみこころが地において完全に行われますように。 というように祈ってもいいのではないかと思われます。しかし、実際には、そのようには言わないで、父なる神さまのみこころが「天においてのように地にあっても」(直訳)行われるようにと祈っているわけです。これには、理由というか意味があるのではないかと思われます。 今日は、このことについてお話ししたいと思います。 これについて考えるために、すでにお話ししたことを思い起こしたいと思います。それは、同じ「主の祈り」を記しているルカの福音書にはこの第3の祈りがないということです。このこと、すなわち、ルカの福音書にはこの第3の祈りがないということから、 御国が来ますように。 という第2の祈りと、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という第3の祈りは同じことを別の面から見ていると言えるほどに密接に結びついていると考えられます。それで、この第3の祈りが、「御国」が来るようになることの説明として付け加えらえたか、あるいは、「御国」が来るようになることと同じことを示しているとして省略されたか、いずれかの選択がなされたのだと考えられます。 このこと、第2の祈りと第3の祈りの密接な結びつきから、第2の祈りに終末論的な意味があるのと同じように、第3の祈りにも終末論的な意味があると考えられます。 ある祈りに終末論的な意味があるということは、その祈りが、現在のことだけでなく、歴史の終末すなわち終りの日における完成とかかわっているということ、終りの日の完成を祈り求めるものであるということです。 私たち自身も、福音の御言葉にしたがって、終りの日の救いの完成を信じ、その実現を祈り求めつつ、今この時を生きています。それで、私たちの生き方も終末論的な意味をもつ生き方です。 すでにお話ししたことの復習という感じになりますが、まず、 御国が来ますように。 という第2の祈りに終末論的な意味があることについて、お話ししたいと思います。 ひと言で言いますと、それは、この第2の祈りに示されている「御国」すなわち神の国は、現在の事実であるとともに、世の終わりに完成するものであるということです。 神の国は基本的に王の「支配」や「支配権」を意味しています。そして、 御国が来ますように。 という第2の祈りにおける神の国は、約束のメシヤとして来られた御子イエス・キリストが神の国の王としてのお働きを始められたときに、そこに来ていると考えられます。 このイエス・キリストの神の国の王としての支配は、その主権の下にある民の上に立って権力を振るうものではありませんでした。むしろ、ご自身の民の罪を贖うためにご自身のいのちをお捨てになることにありました。このことを示すものとして、マタイの福音書20章28節には、 人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである というイエス・キリストの教えが記されています。 このように、イエス・キリストの神の国の王としての支配は、ご自身の民の罪のために、ご自身のいのちを「贖いの代価」としてお与えになることを頂点としているとともに、特徴とするものでした。そして、実際に、イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまのさばきを、私たちに代わって余すところなく受けてくださいました。そのようにして、私たちの罪を完全に清算してくださいました。 イエス・キリストの王としての支配はこれで終ってはいません。 イエス・キリストが私たちご自身の民のための「贖いの代価」としてご自身のいのちをお捨てになったことは、父なる神さまのみこころに従うことでありました。ヨハネの福音書6章38節には、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 イエス・キリストは十字架の死に至るまでも父なる神さまのみこころに従い通されました。それで、その完全な従順への報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。そして、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されました。ピリピ人への手紙2章6節〜9節に、 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 と記されているとおりです。 イエス・キリストは、今、父なる神さまの右の座に着座された王として支配しておられます。いろいろな機会にお話ししていますが、この父なる神さまの右の座こそ、主がダビデに約束してくださった永遠の王座です。 ルカの福音書1章31節〜33節には、マリヤのところに遣わされた御使いガブリエルがマリヤに伝えた言葉が記されています。それは、 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。 というものでした。これは神である主のダビデに対する約束が成就することを示しています。主のダビデに対する約束はサムエル記第2・7章12節、13節に、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 と記されています、 そして、ペンテコステ(聖霊降臨節)の日の出来事を記している使徒の働き2章29節〜33節には、 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。」と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 という、ペテロのあかしが記されています。 このペテロのあかしは、主がダビデの子であるメシヤに約束された「永遠の王座」は、天における父なる神さまの右の座であることを示しています。 イエス・キリストは十字架にかかってご自身の民の罪のための「贖いの代価」としてご自身のいのちをお捨てになった後、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上り、ダビデに約束された永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座されました。それでイエス・キリストは、今、父なる神さまの右の座に着座された王として治めておられます。 この父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストが治めてくださっている御国が、私たちが主の祈りの第2の祈りにおいて、、 御国が来ますように。 と祈り求めている神の国です。その意味で、神の国は今すでに歴史の現実です。しかし、それは「剣」による支配、すなわち軍事力などの血肉の力に基づく権力を振るう支配ではありません。それは、ペテロが、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 とあかししていますように、御霊による支配です。ですから、神の国は、国家の支配は「剣」すなわち武力などの血肉の力に基づく権力によっていると考えている人々の目には隠されています。 イエス・キリストは、ご自身の民が福音の御言葉を信じるようになるように、御霊によって導いてくださいます。また、その福音の御言葉にあかしされている、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛と恵みを信じて、御子イエス・キリストに従うようになるように、御霊によって導いてくださいます。 具体的には、二つのことがあります。一つは、いまだ父なる神さまの御許に帰ってきていないご自身の民に福音の御言葉を悟らせてくださり、父なる神さまの御許に帰るように導いてくださることです。もう一つは、すでに父なる神さまの御許に帰った私たち主の民が、やはり福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストの恵みを受けて、父なる神さまを愛し、お互いに愛し合うことによって、御子イエス・キリストのかたちに造り変えられていくように導いてくださることです。 これが、いま、御子イエス・キリストが治めておられる神の国の支配の特質です。 このような御子イエス・キリストの御霊による支配としての神の国は、世の終わりに、イエス・キリストが再び来られて、ご自身の民の救いを完成してくださることによって完成します。ヘブル人への手紙9章28節には、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです と記されており、ピリピ人への手紙3章20節、21節には、 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 と記されています。 このように、今すでに、イエス・キリストが御霊によって支配しておられることによって現実となっている神の国が、世の終わりに完成するということが、神の国に終末論的な意味があるということです。そして、このようなことを踏まえて、 御国が来ますように。 と祈る第2の祈りには終末論的な意味があるのです。 これと同じように、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という第3の祈りにも、終末論的な意味があると考えられます。父なる神さまのみこころは、すでにイエス・キリストのお働きを通して歴史の中に実現しています。それとともに、 終りの日に、イエス・キリストが再臨されることを通して完成するという面があるのです。 先ほど引用しましたヨハネの福音書6章38節には、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。 というイエス・キリストの教えが記されていました。これに続く39節、40節には、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここには父なる神さまが御子イエス・キリストをお遣わしになったことにかかわるみこころの中心にあることが示されています。そして、ここに示されている父なる神さまのみこころの中心は、「終わりの日」における完成にあります。 初めに触れましたように、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という第3の祈りは、基本的に、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを祈り求めるものです。それは、また、父なる神さまが御子イエス・キリストを通して、また御子イエス・キリストによって、ご自身のみこころを実現してくださることを祈り求めるものです。そうであれば、この父なる神さまのみこころの中心は、先ほど引用しました、イエス・キリストの教えに示されていますように、「終わりの日」に、イエス・キリストが私たちご自身の民を栄光あるものへとよみがえらせてくださるということにあります。 これにはもう一つの面があります。やはり先ほど引用しましたピリピ人への手紙2章6節〜〜9節には、 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 と記されていました。これに続く10節、11節には、 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 と記されています。これは、これまでお話ししてきたことでもありますが、主の祈りの第3の祈りにおいて「みこころが天で」行われているということの中心にあるのは、イエス・キリストの御名によって父なる神さまを礼拝することである、ということを意味しています。 これら二つのことを併せて見ますと、一つのことが見えてきます。それは、「終わりの日」に、イエス・キリストが私たちを栄光あるものとしてよみがえらせてくださることは、 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 と記されていることが、私たちの間の現実となるためであるということです。つまり、「終わりの日」に主の民が栄光のうちによみがえることによって、イエス・キリストの御名によって父なる神さまを礼拝する礼拝が、天においても地においてもまったき礼拝として完成するようになるということです。これが、私たちが、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という第3の祈りにおいて祈り求めていることです。 「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」においては、御使いたちと、この世を去って主イエス・キリストとともにある主の民たちによるまったき礼拝が実現しています。それで、主の祈りの第3の祈りにおいては、それと同じように、地においても、イエス・キリストの御名による父なる神さまへの礼拝がまった礼拝として完成することを祈り求めるのだと考えられます。ですから、 みこころが天で行なわれるように という言葉は、ただ基準を示すだけのものではなく、歴史における主の贖いの御業の目的を示すものでもあるのです。言い換えますと、第3の祈りが「終わりの日」において、イエス・キリストの御名による父なる神さまへの礼拝が、天においても地においても、まったき礼拝として完成するようになることを見据えた祈り、終末論的な意味をもった祈りであるために、 みこころが天で行なわれるように という言葉が用いられていると考えられます。 |
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