(第116回)


説教日:2007年9月2日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてお話しします。
 この祈りを直訳調に訳しますと、

あなたのみこころが、天にあってのように地においても、行なわれますように。

となります。
 先週もお話ししましたが、この祈りは、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、ていねいな形で祈り求めるものであると考えられます。そうであっても、これは、この祈りを祈る私たちは父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださるのをただ待っていればいいという意味ではなく、父なる神さまが私たちを通してご自身のみこころを実現してくださることを祈り求めるという面があると考えられます。
 先週は、このこととのかかわりで、この祈りの(直訳の)「天にあってのように地においても」という言葉の意味するところについてお話ししました。それは、「」においては、父なる神さまのみこころが完全に行われているので、それと同じように父なる神さまのみこころが「」でも行われ、実現するようになることを祈り求めるものであるということでした。
 この「」において父なる神さまのみこころが行われているというときの「」は、

 天にいます私たちの父よ。

という、この祈りにおける父なる神さまへの呼びかけの言葉に出てくる「」に呼応していると考えられます。その場合の「」はコリント人への手紙第2・12章2節〜4節に記されているパウロのあかしに出てきます「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」のことであると考えられます。
 そして、この「」において父なる神さまのみこころが行われているということは、父なる神さまのご臨在の御前に仕えている御使いたちが父なる神さまのみこころを行っているということだけではありません。聖書では、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれた主の契約の民が肉体的な死を経験するとき、イエス・キリストとともに「パラダイス」にあるとあかしされています。そのようにして、この世を去って主イエス・キリストとともにある主の民たちの間においても、父なる神さまのみこころが完全な形で行われていると考えられます。
 このように、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りにおいては、神さまの恵みによって「第三の天」に入り、父なる神さまのご臨在の御前にあることを許された御使いたちと主の民の間において父なる神さまのみこころが実現しているということが基準となっています。そして、私たちは、地においても、それと同じことが実現することを祈り求めます。


 この場合、「」において父なる神さまのみこころが行われているということの中心にあるのは、「」における礼拝にあると考えられます。「」においても地においても、父なる神さまのみこころが行われることの出発点にして中心にあり、目的であることは、父なる神さまがあがめられることです。これこそが、私たちが第1の祈りにおいて祈り求めていることでもあります。
 先週は、黙示録4章、5章に記されています、天における礼拝を取り上げてお話ししました。長いので繰り返して引用することはいたしませんが、4章には、父なる神さまの栄光のご臨在の御前に仕えている「白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たち」と「前もうしろも目で満ちた四つの生き物」による礼拝が記されています。そして、5章11節〜14節には、その礼拝が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまのご臨在の場である「」、すなわち「第三の天」における礼拝であるだけでなく、それを越えて、全被造物の礼拝としての広がりを持っていることが記されています。
 この神さまのご臨在の場である「」における礼拝を中心として全被造物に及ぶ礼拝としての広がりを持っている礼拝は、イエス・キリストが十字架にかかってご自身の民のための罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、実現しています。イエス・キリストはこの礼拝にかかわる大祭司としてのお働きをしておられます。それで、私たちがイエス・キリストの御名によって父なる神さまを礼拝するとき、私たちもこの礼拝に参与することになります。ただ、私たちはいまだ地におりますので、直接的に天にある者たちの礼拝に参加しているわけではありません。しかし、私たちはこの地にありますが確かに御霊のお働きによって栄光を受けてよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わされています。その意味で、私たちはいまだ地にありながら、イエス・キリストを大祭司とする「」における礼拝に参与しているのです。
 「」においては、主の民は御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪をまったくきよめられた者として、父なる神さまを礼拝しています。これに対して、私たちいまだ地にある主の民のうちにはなおも罪の性質が残っており、私たちは日々に罪を犯します。そのために、私たちの礼拝には常に罪が影を落としており、欠けがあります。そうではあっても、私たちは、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった完全な罪の贖いに包まれています。それで、私たちが御子イエス・キリストの御名によってささげる礼拝も、イエス・キリストが成し遂げてくださった完全な罪の贖いに包まれています。このことのゆえに、地にある私たちの礼拝は父なる神さまの御前に受け入れられます。
 私たちはこのことを心に銘記しておく必要があります。
 私たちの礼拝が受け入れられる根拠は、私たちが心を込めて真剣に神さまを礼拝していることにあるのではありません。私たちがどんなに真剣であり、どんなに心を込めているつもりでも、私たちのうちには罪の性質があり、そのために私たちは神さまの聖なるご臨在の御前に立つことはできません。つまり、私たちはこのままでは、神さまのご臨在の御前で神さまを礼拝することができないのです。その私たちがなおも神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまを礼拝することができるのは、私たちが、御子イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっているからです。
 ヘブル人への手紙9章24節には、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

と記されています。言うまでもなく、「本物の模型にすぎない、手で造った聖所」とは、古い契約の下にあったイスラエルの民の間にあった地上の聖所のことです。これが「模型」として指し示している「本物」は「天そのもの」と言われています。ここで「天そのもの」と言われているときの「」は単数形です。ヘブル人への手紙ではこの他にも「」という言葉が出てきますが、この他ではすべて複数形です。このことは、この9章24節で「天そのもの」と言われているときの「」には特別な意味合いがあるということを示していると考えられます。
 このこととの関連で注目したいのは、4章14節に、

私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

と記されていることです。ここで「もろもろの天」と訳されているのは「」の複数形で、「もろもろの」という言葉はありません。けれども、動詞が「通っていく」(ヂィエルコマイ)ことを表すものですので、「もろもろの」という言葉を補って「もろもろの天を通られた」と訳されているわけです。この4章14節に記されていることと9章24節に記されていることを併せて見ますと、私たちの「偉大な大祭司である神の子イエス」は「もろもろの天」を通って「天そのものにはいられた」のだと考えられます。そして、この「天そのもの」が、先ほどの、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」のことであると考えられます。
 ヘブル人への手紙9章24節では、この「天そのもの」に関して、古い契約の下では地上の聖所がそれを指し示す模型、ひな型として用いられていたと言われています。このことは大切なことです。
 古い契約の下にある地上的な、模型、ひな型としての聖所は、契約の神である主の栄光のご臨在を表示しつつそれを守っているケルビムを織り出した垂れ幕によって仕切られていました。その奥には、さらにケルビムを織り出した垂れ幕によって仕切られた部分があり、それが「至聖所」と呼ばれます。これについては、ヘブル人への手紙9章3節〜5節に、

また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。

と記されています。さらに、7節、8節には、

第二の幕屋[「至聖所」]には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。

と記されています。
 古い契約の下において地上的なひな型として作られた聖所は、「まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということ」をあかししていました。それは、地上の聖所で仕えた大祭司が年に一度だけ「大贖罪の日」に至聖所に入ったときに携えていたのが、やはり地上的なひな型であったいけにえの動物の血であったからです。動物のいけにえの血は神のかたちに造られている人間の罪をきよめることはできません。10章4節に、

雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

と記されているとおりです。
 言うまでもなく、地上的なひな型、模型であったいけにえが指し示していた本体は、十字架にかかって私たちの罪のために贖いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストです。10章10節には、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

と記されており、10章14節には、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。また、9章11節、12節には、

しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

と記されています。
 このように、神である主の栄光のご臨在の場である「天そのもの」、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」は、古い契約の下での地上的なひな型において、至聖所として示されていました。そして、その至聖所のある聖所はイスラエルの民の中心にありました。このことは、神である主の栄光のご臨在の場である「天そのもの」、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」が、神である主の契約において約束されていたものであることを示しています。
 先に引用しましたヘブル人への手紙9章3節〜5節には、

また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。

と記されていました。古い契約のひな型である地上の至聖所には契約の箱が置かれていました。その上蓋が「贖罪蓋」です。これは、出エジプト記25章17節では「贖いのふた」と訳されています。この「贖いのふた」の両端に「贖いのふた」を「翼でおおっている栄光のケルビム」が「贖いのふた」と一体になるように作られました。この「栄光のケルビム」の間に契約の神である主のご臨在を表す、後に「シェキナの雲」と呼ばれるようになる「雲の柱」がありました。このことによって示されている契約の神である主のご臨在こそは、マタイの福音書1章23節に記されています、私たちの契約の主イエス・キリストの「インマヌエル」、「神は私たちとともにおられる」という御名が表している主の契約の祝福の中心にあることです。
 いろいろな機会にお話ししてきましたが、神さまの契約は大きく二つに区別されます。
 一つは、神さまが天地創造の御業において、神のかたちにお造りになった人に与えてくださった契約です。神さまは人をご自身との契約のうちにある者として神のかたちにお造りになりました。人は神のかたちに造られたその時から神さまとの契約関係のうちに置かれていました。この契約は伝統的に「わざの契約」と呼ばれるもので、「創造の契約」とも呼ばれます。神さまはこの契約に基づいて、ご自身のご臨在の場として設けられた「エデンの園」にご臨在されました。神のかたちに造られた人はこの「エデンの園」に置かれ、そこで神さまのご臨在の御前に生きる者、神さまとの愛の交わりのうちに生きる者となりました。この造り主である神さまとの愛の交わりこそが、神のかたちに造られている人間のいのちの本質です。
 聖書の中には「パラダイス」と「エデンの園」の結びつきを直接的に示すものはありませんが、「パラダイス」の原形は「エデンの園」であると考えられます。それは、新しい天と新しい地の完成の様子を記している黙示録22章1節〜5節においてより栄光化された「エデンの園」の表象が用いられていることから推察されます。そうであれば、「パラダイス」は「エデンの園」の完成の段階を示しています。
 いずれにしましても、造り主である神さまのご臨在は初めからご自身の契約に基づくものでした。そして、神のかたちに造られた人が神さまのご臨在の御前において、神さまとの愛の交わりのうちに生きることが神さまの契約の祝福の中心です。
 神さまのもう一つの契約は、そのような祝福のうちにあった人間が、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによって、最初の契約の違反者になり、その契約ののろいとしての死に服してしまったことを受けて、神さまが与えてくださったものです。これは伝統的に「恵みの契約」と呼ばれるものですが、「贖いの契約」あるいは「救済の契約」とも呼ばれます。これは、神さまが贖い主を与えてくださることと、その贖い主をとおしてご自身の民を再びご自身との愛にある交わりのうちに生きる者として回復してくださることを約束してくださったものです。そして、この「恵みの契約」(「贖いの契約」、「救済の契約」)において約束されている贖い主が、人となって来られた神の御子イエス・キリストです。
 この「恵みの契約」(「贖いの契約」、「救済の契約」)には、歴史的に、「古い契約」と「新しい契約」の二つの段階があります。先ほどお話ししましたように、古い契約の下においては、神さまの契約の祝福が、聖所を中心とする地上的なひな型を通して示されました。そして、新しい契約は、古い契約を成就するものであり、神の御子イエス・キリストの血によって実現しています。
 ごく大ざっぱな区分の説明ですが、これによって、神さまの契約の祝福には一貫性があることが分かります。それは、ご自身の契約の民をご自身のご臨在の御許に住まわせてくださり、ご自身との愛の交わりのうちに生きる者としてくださるということです。神さまは天地創造の御業においてこの祝福を実現してくださいました。そして、人間がご自身に対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、贖い主のお働きを通して、ご自身の民を再びご自身のご臨在の御前に住まう者、ご自身との愛の交わりに生きる者として回復してくださいました。そればかりでなく、贖い主、御子イエス・キリストの復活の栄光にあずからせてくださり、充満な栄光のうちにある交わりのうちに導き入れてくださいました。このイエス・キリストの血による新しい契約に基づく、神さまとの充満な栄光のうちにある交わりが「永遠のいのち」です。
 この神さまのご臨在の場が古い契約の下における地上的なひな型では「聖所」として示されていました。「聖所」はそこにご臨在される契約の神である主を礼拝するための場所です。そして、新しい契約の下では、この「聖所」が「天そのもの」であると言われています。イエス・キリストはこの「天そのもの」に入られ、そこで私たちの大祭司としてお働きになっておられます。
 これらのことを踏まえて、ヘブル人への手紙10章19節〜22節に記されていることを見てみましょう。そこには、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と記されています。
 19節では、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

と言われています。これまでお話ししてきたことからお分かりになりますが、この「まことの聖所」とは、9章24節で「天そのもの」と言われている所であり、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」のことです。
 ですから、イエス・キリストを大祭司としていただき、御霊によって、父なる神さまを礼拝している私たちは、いまだ地にありながら、「天そのもの」における礼拝に参与することができるのです。このことは私たちが肉体的な死によって地上を去ることによって失われるのではなく、むしろ罪からきよめられた者たちの礼拝として、豊かなものとなります。そして、終りの日に再臨されるイエス・キリストが私たちを栄光のうちによみがえらせてくださることによって、まったき礼拝として完成します。

 


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