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説教日:2007年8月26日 |
主の祈りの第3の祈りは、直訳調に訳しますと、 あなたのみこころが、天にあってのように地においても、行なわれますように。 となります。これは、基本的に、父なる神さまのみこころが実現することを祈り求めるものです。そして、最初の二つの祈りと同じように、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを、丁寧な形で願うものであると考えられます。 そうではあっても、これは、私たちは何もしないで神さまがご自身のみこころを実現してくださるのを待っていればいいという意味ではありません。これには、神さまが私たちを通してみこころを実現してくださるという面があると考えられます。 この点は、直訳の、 天にあってのように地においても という祈りの言葉とかかわっています。それで、まず、この言葉についてお話ししたいと思います。 この、 天にあってのように地においても という言葉の意味するところについては、二つの理解の仕方があります。 一つは、天におけることが基準となっているという理解です。つまり、この祈りは、天においては神さまのみこころが完全に行われているので、それと同じように、地においてもみこころが完全に行われるようになりますようにと祈るものであるというものです。これは、私たちの間で広く受け入れられている理解の仕方です。 もう一つの理解は、天における霊的な戦いはまだ終っていないということの上に立っています。エペソ人への手紙6章12節には、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と記されています。ここに記されていますように、私たちは霊的な戦いにおいて「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちと相対しています。それで、この理解では、天が基準になっているのではなく、天においても地においても同じように神さまのみこころが行われること、実現することを祈り求めるものであるということになります。 この二つの理解のどちらを取るか決めるのは難しい気がします。けれども、いくつかの理由によって、最初の理解、すなわち、天におけることが基準となっていると理解したほうがよいと思われます。 その一つの理由は、マタイの福音書においては「天」という言葉は一貫してそれが完全な所という意味合いにおいて用いられているということです。それはまた、この「天」には、そこおいてなお霊的な戦いが展開されているという意味合いはないということでもあります。それが完全な所を表すという点は、たとえば、誓いに関するイエス・キリストの教えを記している5章34節に、 天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。 と記されています。また、6章20節には、 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここでは、「天」には暗やみの力、悪の影響がいっさい及ばないことが示されています。 もう一つの理由は、これと関連しているのですが、主の祈りは大きく二つに分かれます。最初の三つの祈りは神さまご自身にかかわることが中心になっており、それに続く三つの祈りは私たちの必要にかかわることが中心になっています。その意味で、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という第3の祈りは、神さまご自身にかかわることを中心とした祈りです。それで、この祈りにおける「天」(単数)は、 天にいます私たちの父よ。 という主の祈りにおける、神さまご自身への呼びかけの言葉に出てくる「天」(複数)と(単数と複数の違いはありますが)呼応していると考えられます。 すでにお話ししましたように、 天にいます私たちの父よ。 という呼びかけにおける「天」は、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまが特別な意味においてご臨在される場所として、まったく聖別された所です。それはコリント人への手紙第2・12章2節に記されている「第三の天」とか、同じ個所の4節に出てくる「パラダイス」と呼ばれる所ですが、そこには、先ほどのエペソ人への手紙6章12節に記されていました「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちは近づくこともできません。しかし、ルカの福音書23章43節に記されていますように、十字架につけられたイエス・キリストは、同じ時に十字架につけられてイエス・キリストに出会って、イエス・キリストを信じた強盗に、 まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。 と宣言されました。 これらのことから、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という第3の祈りにおいては、父なる神さまのみこころが「天で行なわれる」ことが基準となっていて、それと同じように、「地でも行なわれ」、実現するようになることを祈り求めるものであると考えられます。 言うまでもなく、このことはエペソ人への手紙6章12節に記されている、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 という教えを否定するものではありません。「天」にもいくつかの階層があって、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」がいるところとしての「天」は「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」ではないというだけのことです。 イエス・キリストの地上の生涯において、イエス・キリストが70人の弟子たちを神の国の福音の宣教のためにお遣わしになった時のことを記しているルカの福音書10章17節〜20節には、 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」 と記されています。また、イエス・キリストが女の子孫のかしらとして来られて、その十字架の死によって贖いの御業を成し遂げられた後、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座された後のことを記している黙示録12章7節〜9節には、 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。 と記されています。 私たちはこのような歴史的な状況の中で、エペソ人への手紙6章12節に記されているような、霊的な戦いを戦うように召されています。 このように、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という第3の祈りにおいては、父なる神さまのみこころが「天で行なわれる」ことが基準となっていて、それと同じように、「地でも行なわれ」、実現するようになることを祈り求めるものであると考えられます。そうしますと、父なる神さまのみこころが「天で行なわれる」ということが何を指しているかが問題となります。 これについて、『ウェストミンスター小教理問答』の問103の、 第三の祈願でわたしたちは何を祈り求めるのですか。 という問への答は 第三の祈願、すなわち、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」でわたしたちは、神がその恵みにより、ちょうど天使たちが天においてしているように、わたしたちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように、と祈ります。(松谷訳) となっています。 初めにお話ししたこととかかわっていますが、この答は、主の祈りの第3の祈りは、基本的には神さまがご自身のみこころを実現してくださることを祈り求めるものであるけれども、それは私たちを用いてくださってのことであるという理解を示しています。そして、これがこの第3の祈りの主旨であると考えられます。 「みこころが天で行なわれる」ということに関してですが、この小教理問答の答は、それは御使いたちが神さまのみこころに従っていることを意味しているとしています。 このことに関しては、この他にも、いくつかの見方があります。天体が定められた軌道を運行することを意味するという見方もあります。また、御使いたちと天体の両方を指すという見方もあります。さらに、御使いたちとイエス・キリストを信じて天に帰った聖徒たちが神さまのみこころに従っていることを意味しているという見方もあります。 これらについてどのように考えたらいいのでしょうか。まず、心に留めておかなければならないのは、この第3の祈りではこの点について明確に示されていないということです。そのことを踏まえたうえでのことですが、第3の祈りにおける「みこころが天で行なわれる」ということに天体を含めることには無理があると思われます。というのは、天体は、物理的な天にあるものです。しかし、すでにお話ししましたように、「みこころが天で行なわれる」というときの「天」は、 天にいます私たちの父よ。 という、神さまへの呼びかけにおける「天」と符合していると考えられます。この「天」は、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまの特別な意味でのご臨在の場としての「天」、「パラダイス」とも呼ばれる「第三の天」です。天体はこの「天」のうちにあるものとして存在してはいません。この「第三の天」にあるのは、そこにご臨在される神である主の御前に近づくことを許された者たちです。それは、先ほど引用しましたルカの福音書23章43節に記されているイエス・キリストの御言葉に示されていますように、イエス・キリストを信じて罪を贖われた主の民です。また、後ほど引用いたします、黙示録4章、5章に記されています、天における礼拝の記事に示されていますように、御使いたちです。それで、「みこころが天で行なわれる」ということは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまのご臨在の御前に近づくことを許された主の契約の民と御使いたちの間に実現していることであると考えられます。 黙示録4章、5章には天における礼拝の様子が記されています。4章1節〜11節には、 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」 と記されています。 これは天における礼拝の中心にあることを示しています。この天における礼拝には広がりがあって、その天を越えて全被造物に及んでいます。その礼拝の広がりは、5章11節〜14節に、 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。 と記されています。 この天における礼拝を中心として全被造物に広がる礼拝こそは「みこころが天で行なわれる」ということの中心にあることです。父なる神さまのみこころが行われることの中心にして出発点にあるのは、神さまを礼拝することです。 ここに記されていることから分かりますように、この天における礼拝は、先ほどの「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちによって少しも妨げられることがないものです。 この天における礼拝は、十字架にかかってご自身の民のために贖いを成し遂げられたイエス・キリストが栄光をお受けになってよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されてからすでに現実となっています。もちろん、私たちはいまだ地にあり、天にはおりませんので、直接的にこの天における礼拝に参加しているわけではありません。そうではあっても、御子イエス・キリストの御名による礼拝にして全被造物に及ぶ礼拝は一つです。それで、イエス・キリストの御名によって父なる神さまを礼拝している私たちは、御霊のお働きによって、この天における礼拝に連なっています。 私たちは、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りによって、父なる神さまのみこころが実現することを祈ります。このことは何よりもまず、私たちがイエス・キリストの御名によって、父なる神さまを礼拝することから始まります。そして、この礼拝は終りの日に再臨される栄光のキリストによって、まったきものとして完成します。 |
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