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説教日:2007年8月12日 |
先週は、この私たちの地上の生涯を通して繰り返しなされる悔い改めとのかかわりで、ヨハネの手紙第1・1章8節〜10節に記されていることを取り上げました。そこには、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 と記されています。 先週は8節と9節に記されていることをお話ししました。まず、それに補足を加えながら復習をしたいと思います。 8節の、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 という教えで「罪はない」というのは、文字通りには、「罪を持っていない」という言い方で、現在時制で表されています。しかも、この場合の「罪」は単数形です。それで、 もし、罪はないと言うなら、 というのは、自分のうちに罪の性質はないと言い張ることを意味しています。 イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、自らの罪を悔い改め、神さまの御許に帰った神の子どもたちは、自分の罪に対する感受性が鋭くなっています。それで、自分のうちに罪の性質があり、自分は罪を犯してしまう者であるということを心痛く感じるようになります。ローマ人への手紙7章15節に記されている、 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 というパウロの告白や、24節に記されている、 私は、ほんとうにみじめな人間です。 という告白は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、自分の罪に対する感受性が鋭くなっている神の子どもたちの告白です。 これが神の子どもたちの現実であるのに、自分のうちに罪の性質はないと主張するのは、その当時の教会に入り込んできていた誤った教えにしたがってのことです。その教えはその当時の社会に広く行き渡っていた考え方に沿って福音の御言葉を理解しようとするものです。ヨハネはそのような教えにしたがって自分のうちに「罪はない」と主張する人は「自分を欺いて」いると述べています。そのような場合、その人は他の人から欺かれているのではなく、その人が自らの意志によってその誤った教えを受け入れ、そのために、福音の御言葉に教えられている神の子どもたちの現実を認めることをしなくなってしまっているということが示されています。そのことの責任は自分にあるということです。 イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業は、私たちの罪のための贖いを成し遂げてくださいました。この贖いの恵みは、私たちが自らの罪を悔い改めて父なる神さまの御許に帰った時に私たちを覆ってくださった恵みであるだけでなく、父なる神さまの御許に帰った神の子どもたちをも覆ってくださる恵みです。しかし、私たちが自分のうちに「罪はない」と主張することは、私たちはもはやイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを必要としていないと主張することに他なりません。そのような人は福音の御言葉に示されている真理を自らのうちから締め出しています。それで、福音の御言葉とともにお働きになる真理の御霊、いのちの御霊のお働きによって、神さまとの愛にある交わりのうちを歩むことはできません。 9節に記されています、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という教えに出てくる「自分の罪」と「その罪」はともに複数形で、私たちが実際に犯したさまざまな罪を指しています。つまり、ここでは「私は罪人です」というような一般的な告白ではなく、実際に自分が犯した罪を告白するということです。今私たちが取り上げている神の子どもたちの悔い改めは、このような具体的な罪の告白を伴うものです。 神の子どもたちがそのように罪の告白をしますと、神さまは「真実で正しい方ですから、その罪を赦し」てくださると言われています。 この「真実で」ということは、神さまがご自身の契約に対して真実であられることを意味しています。私たちはイエス・キリストの血によって確立された新しい契約の民としていただいています。イエス・キリストが渡される夜になされた過越の食事の席で、イエス・キリストが聖礼典を定められたことを記しているマタイの福音書26章27節、28節には、 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。・・・」 と記されています。これは、イエス・キリストが間もなく経験される十字架の死の意味を明らかにする言葉です。聖書の中ではイエス・キリストの「血」は、イエス・キリストの十字架の死が罪の贖いのための死であったことを表すものです。具体的な引用は省きますが、この これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。 という言葉には旧約聖書の背景があります。そして、イエス・キリストの十字架の死が、旧約聖書に約束の形で示されている罪の贖いと、その罪の贖いによって回復される神さまとご自身の民の交わりを実現するものであることを示しています。神さまは旧約聖書において示されたいくつか契約において、私たちご自身の民の贖いと、それによる神さまとの愛にあるいのちの交わりの回復を約束してくださっていました。それが、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって確立された新しい契約において、すべて成就しています。神さまはこの契約に対して真実であられます。それで、イエス・キリストが十字架にかかって血を流し、私たちのための罪の贖いを成し遂げてくださったことに基づいて、私たちの罪をすべて赦してくださるのです。 また、神さまが「真実で正しい方ですから」と言われているときの「正しい」というのは、神さまが「義であられる」ということを表しています。神さまは「義であられる」ので私たちの罪をそのままにはされないで、すべての罪を完全に清算されます。けれども、私たちは自分の一つの罪をも清算することはできません。というのは、すべての罪は無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪であり、無限の重さをもっているからです。それで、神さまは私たちの罪を贖ってくださるために、やはり無限、永遠、不変の栄光の主であられるご自身の御子を、私たちの贖い主として遣わしてくださったのです。そして、その方、無限、永遠、不変の栄光の主が私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださいました。そのようにして、神さまは私たちの罪をすべて清算してくださいました。これによって、神さまが義であられることが示されました。神さまはこのような意味で「義であられる」ので私たちの罪を赦してくださるのです。 このようにして、私たちが自分の犯した罪を告白しますと、神さまは「真実で正しい方ですから」その罪をすべて赦してくださいます。神さまが私たちの罪を赦してくださるということは、法的なことです。そして、イエス・キリストは私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。それで、これは部分的に赦してくださるということではなく、百パーセント赦してくださるということを意味しています。 神さまが私たちの罪を赦してくださる根拠は私たちのうちにはありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 という教えは、一見すると、私たちが罪を告白するから赦してくださるというように見えます。しかし、私たちが罪を告白したことが何らかの功績になって私たちの罪が赦されるのではありません。ここで、神さまが私たちの罪を赦してくださると言われているときの「赦す」という言葉(アフィエーミ)は、主の祈りの第5の祈りにおいて、私たちが、 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 と祈るときの「赦す」という言葉と同じで、罪や負債を免除し、放免することを意味しています。私たちが自分には負債がありますと告白したから、その告白が功績と認められて負債が免除されるというようなことはありません。それは罪の赦しも同じです。神さまが私たちの罪を赦してくださり、さばきから解放してくださることの根拠は、ただ一つ、イエス・キリストが十字架の上で私たちに代わって罪のさばきを受けてくださったことです。この点を間違わないようにしたいと思います。 このように、神さまが罪を赦してくださることは法的なことです。そればかりでなく、これに続いて、 すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 と言われています。この場合の「すべての悪」の「悪」はその前に記されている神さまが「義であられる」ことと対比されるもので、「不義」を意味しています。義であられる神さまは、私たちをあらゆる「不義」からきよめてくださり、御前に義と認められている者にふさわしい性質をもつ者としてくださいます。これは、私たちの実質をきよめ、造り変えてくださることを意味しています。神さまが私たちをあらゆる「不義」からきよめてくださることの根拠も、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、その罪をきよめてくださるために血を流してくださったことです。 ですから、9節で、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 と言われているときの、「私たちが自分の罪を言い表わす」ということは、自分が犯した罪を深く悲しんでなされることは言うまでもありません。しかし、それだけではありません。それより大切なことは、イエス・キリストがこの私のために十字架にかかって私の罪のさばきを受けて死んでくださり、私たちを罪からきよめてくださるために血を流してくださったということを信じて告白することです。 以上が、先週お話したことに補足を加えての復習です。 10節では、 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 と言われています。 ここで取り上げられているのは「罪を犯してはいないと言う」ことです。これと、8節に記されています「罪はないと言う」こととの違いが問題になります。すでにお話しましたように、「罪はないと言う」ことは、現在時制で表されていて、自分のうちに罪の性質はないと言い張ることを意味しています。これに対しまして、「罪を犯してはいないと言う」ことは、完了時制で表されていて、これまでに罪を犯したことはないというような意味合いを伝えています。この二つの主張は同じ誤った教えから出ています。それで、この二つの主張を合わせて見ますと、この誤った教えを受け入れている人々は、自分たちのうちには罪の性質がないので、これまで罪を犯したこともないという主張をしていると考えられます。 ここでは、「罪を犯してはいないと言う」人々には二つの問題があると言われています。 一つは、そのように言い張る人々は「神を偽り者とする」と言われています。これは、8節で言われている、自分を欺くことよりはるかに深刻な問題です。これは神さまの真実性を否定することですが、そのような一般的なことというより、具体的に、神さまが御言葉を通して啓示してくださったことが偽りであると言うことを意味しています。ここでは、「罪を犯してはいないと言う」ことが問題となっていますので、この問題との関連で「神を偽り者とする」ということを考えなければなりません。 神さまの御言葉は一貫して、すべての人は神さまに罪を犯して御前に堕落してしまっていることをあかししています。この点は、御言葉を引用するまでもありませんね。しかし、ここで「もし、罪を犯してはいないと言うなら」と言われているのは「もし、私たちが罪を犯してはいないと言うなら」ということです。それで、ここで問題となっているのは、すべての人が神さまに対して罪を犯しているわけではないというような主張ではなく、神さまを信じて救われた自分たちは「罪を犯してはいないと言う」ことであると考えられます。神さまを信じて救われている自分たちは罪をきよめられているので罪の性質はない。それで、自分たちは罪を犯したこともないということです。 すでに、8節に記されていることとの関連で取り上げたパウロの例に見られるように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを信じて義と認められ、神の子どもとされている者たちは、罪に対する感受性がより鋭くなり、自らの罪の現実を心痛く思い知らされるものです。神さまはそのような神の子どもたちのためにもイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを当てはめてくださいます。ローマ人への手紙7章において、自らの罪の現実を嘆いたパウロは、8章1節において、 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 と述べています。神さまは救われて神の子どもとされてもなお自らのうちに罪の性質を宿し、実際に罪を犯している者たちの罪をも、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって赦してくださるのです。これが福音の御言葉のあかしするところです。ですから、自分たちは「罪を犯してはいないと言う」人々は、この福音の御言葉を通しての神さまのあかしは偽りであると言っていることになります。 ヨハネはさらに、「罪を犯してはいないと言う」人々のうちに「神のみことば」はないと述べています。 この場合の「神のみことば」の「みことば」(ホ・ロゴス)には冠詞(定冠詞)がついています。この「神のみことば」が何を指すかについては二つの可能性があります。一つは、ヨハネの福音書1章1節において、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 とあかしされている永遠の「ことば」すなわち、私たちの罪を贖うために父なる神さまの御許から遣わされた御子イエス・キリストです。もう一つは、イエス・キリストとイエス・キリストによる罪の贖いをあかししている福音の御言葉です。 この二つの理解は相対立するものではありませんし、ヨハネはしばしば一つの言葉に二つの意味を込めています。それで、ここでは私たちの罪を贖うために父なる神さまの御許から遣わされた永遠の「ことば」としてのイエス・キリストと、イエス・キリストとその御業をあかしする福音の御言葉の両方を意味していると考えられます。そうしますと、ここでは、自分たちは「罪を犯してはいないと言う」人々のうちには、福音の御言葉においてあかしされているイエス・キリストが宿ってくださる余地はないということが示されていることになります。 ここで取り上げられている「罪はないと言う」ことと「罪を犯してはいないと言う」ことは、その当時の誤った教え受け入れたために生まれてくる主張です。このような主張をする人々のうちにある動機あるいは目的は、神さまに近くありたいというものです。この動機や目的はよいものであると思われるでしょうが、人がもつ動機や目的は主観的なものですし、それが実現するに至る道筋と切り離すことができません。この人々は、自分たち救われた者のうちには罪の性質がないし、自分たちは救われてから罪を犯したことがないとすることによって、自分たちが神さまに近くあるということを信じようとしているわけです。これは「完全主義」と呼ばれる救いの理解の仕方です。 これに対して、ヨハネは、このような教えにしたがって自分たちと神さまの関係を考えることは、8節に記されているように自らを欺いて罪の現実から目をそらすことであるとともに、神さまご自身を「偽り者とする」という、より深刻な罪を犯すことであると警告しています。 そして、私たちが神の子どもとして、さらに父なる神さまに近づく道は、罪の現実から目をそらして、あたかも罪がないかのように考えたり、振る舞うことではなく、罪を犯したときに、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いを信じて、その罪を告白することにあることを示しています。これこそが真の悔い改めです。 福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストこそは、私たちが父なる神さまの御許に帰ったときの唯一の道でしたし、父なる神さまの御許に帰った私たちが、さらにその御許に近づくための唯一の道であるのです。 ヘブル人への手紙10章19節〜22節には、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 と記されています。 |
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