(第113回)


説教日:2007年8月5日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りについてのお話を続けます。この祈りの中心主題は神の国です。この神の国は、父なる神さまが贖い主として遣わしてくださった御子イエス・キリストが、御霊によって治めてくださることを指しています。
 これまで、マタイの福音書4章17節に記されています、

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

という御言葉に示されていることにしたがって、神の国に入るためには自らの罪を悔い改めなければならないということをお話ししてきました。
 私たちの悔い改めには、時間的な側面から見て、二つの面があります。一つは、生涯にただ一度なされる決定的な方向転換としての悔い改めです。もう一つは、地上の生涯をとおして繰り返しなされる悔い改めです。
 生涯にただ一度なされる決定的な方向転換は、神さまとの関係における方向転換のことです。私たちはかつて自らの罪のうちに死んでいました。造り主である神さまを神としてあがめることなく、礼拝することもなく、自らの罪の自己中心性に縛られて歩んでいました。その行き着く先は、そのような罪へのさばきによる滅びでした。そのように歩んでいた私たちが、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いの御業にあずかり、それまでの神さまに背を向けていた歩みを悔い改めて、神さまの御許へと帰ってきました。これが生涯にただ一度なされる悔い改めです。
 これに対しまして、私たちの地上の生涯を通して繰り返しなされる悔い改めは、このように、父なる神さまの一方的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪を悔い改め、父なる神さまの御許に帰って、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者となった私たちがなす悔い改めです。私たちは、なおも自分のうちに残っている罪の性質のために、罪を犯してしまいます。そのために、常に罪を悔い改めなければなりません。それは、神の子どもとして歩んでいる者が、その道を逸れてさまよってしまうときに、その本来の道へと引き返すことを意味しています。


 この私たちの地上の生涯を通して繰り返しなされる悔い改めとのかかわりで、ヨハネの手紙第1・1章8節〜10節を見てみましょう。そこには、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されています。
 今日は8節と9節に記されていることについてしかお話しすることはできませんが、私たちが地上の生涯を通して繰り返してなす悔い改めとの関連はお話しできると思います。
 8節において、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と言われているときの「罪はない」と訳されている言葉は、直訳では「私たちは罪をもっていない」となります。「罪をもっている」という言い方は、新約聖書の中では、ヨハネがこの手紙と福音書において用いているだけです。そして、この場合の「」は単数形です。この「罪をもっている」ということは、私たちのうちに罪の性質、罪を犯す傾向があることを意味しています。そして、この罪の性質があるので、実際に、私たちはいろいろな罪を犯すということです。
 ヨハネが、

もし、罪はないと言うなら

ということを問題として取り上げているのは、その当時、主の民と称する人々の中に、もはや自分たちのうちには罪はないということを主張し、教えている人々がいたからです。ヨハネは自分の手紙の読者たちを、そのような教えから守ろうとしています。
 ヨハネは、もし私たちが自分には「罪はない」、罪の性質がないというような主張をするなら、

私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と述べています。「私たちは自分を欺いており」というのは、気づかないうちに誰かに欺かれているというのとは違います。自分で自分を欺いているということです。つまり、意図的に自らの現実から目をそむけて、自分のうちに罪の性質があるということを認めようとしないということです。
 なぜそのようなことをしてしまうのでしょうか。それは、その誤った教えを受け入れてしまっているからです。今日でも、異端と呼ばれる宗派に属している人々がいます。その人々と話をしたことがある人なら、このことがどのようなことかよくお分かりになると思います。教えられたことに心酔してしまっているのか、恐怖によってマインドコントロール状態にあるのか、いろいろな場合があるでしょう。いずれにしましても、そのようにして植え付けられた教えによって、聖書の教えさえも歪めて受け止めてしまいます。そうなりますと、聖書が教えている人間の現実から目をそらせてしまうことになります。「私たちは自分を欺いており」というヨハネの言葉は、それは他人から欺かれたということではなく、自らの意志によって、その教えに心を開き、その見方を自分が選んでいるのであり、その責任は自分自身にあるという意味合いを伝えています。
 さらにヨハネは、言葉を続けて、

真理は私たちのうちにありません。

と教えています。
 この「真理」は、福音の「真理」とも言うべきものです。イエス・キリストにおいて具体的な形で啓示されている、神さまがどのような方であられるかということと神さまのみこころ、特に、ご自身の民の救いに関する神さまのみこころを指しています。その意味で、イエス・キリストご自身が「真理」であられます。
 ヨハネの福音書14章6節、7節には、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。さらに、同じ14章9節には、

わたしを見た者は、父を見たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 イエス・キリストが、

あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。

と言われ、

わたしを見た者は、父を見たのです。

と言われたほどに、父なる神さまは、御子イエス・キリストにおいてご自身を啓示してくださったのです。それは、イエス・キリストご自身がとこしえに父なる神さまとの交わりのうちにおられ、完全な意味において父なる神さまと一つであられる、まことの神であられるからです。
 このようにして父なる神さまを啓示してくださったイエス・キリストこそが「道であり、真理であり、いのち」であられます。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

という御言葉においては、イエス・キリストが父なる神さまの御許に至る唯一の「」であられることが最初に出てきて強調されています。そのことは、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

というイエス・キリストご自身についての教えに続いて、

わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

と言われていることからも分かります。そして、私たちが父なる神さまの御許に至ることは、御子イエス・キリストにおいて、また、御子イエス・キリストを通してご自身を啓示してくださっている父なる神さまを知り、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためのことです。そのことが、イエス・キリストが「真理であり、いのち」であられるという御言葉において示されています。イエス・キリストは父なる神さまとそのみこころを私たちに啓示してくださっておられる方として「真理」であられ、私たちを父なる神さまとの交わりのうちに生かしてくださっておられる方として「いのち」であられます。
 このように、唯一のまことの「」であられる御子イエス・キリストを通して、父なる神さまの御許に帰ることは、私たちの悔い改めを通してなされます。
 これらのことを踏まえて、ヨハネの手紙第1・1章8節に戻りたいと思います。そこには、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と記されていました。誤った教えを選び取り、その教えにしたがって、自分のうちには罪の性質はないと主張するなら、「真理は私たちのうちにありません」。それで、父なる神さまのみこころにしたがって、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかることはできなくなってしまいます。ルカの福音書5章31節、32節に、

そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

と記されているとおりです。もし私たちが「丈夫な者」にたとえられる「罪のない者」であるなら、私たちはイエス・キリストから招かれてはいません。そして、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかることはできないのであれば、イエス・キリストを通して、また、イエス・キリストにおいて、ご自身を啓示してくださっている父なる神さまを親しく知り、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることもできなくなります。
 これまでの悔い改めについてのお話の中で、お話ししましたように、私たちはイエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、古い自分に死に、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、父なる神さまの御許に帰り、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになって初めて、自分の罪が父なる神さまに対する罪であることを知るようになりました。また、その罪のために御子イエス・キリストが十字架にかかってくださったこと、その意味で、自分が御子イエス・キリストを十字架につけたことを認めるようになりました。そのようにして、私たちは御子イエス・キリストを通って、父なる神さまの御許に帰ったことによって、真の意味で罪を知り、罪の恐ろしさを知るようになりました。
 そうではあっても、なおも、私たちのうちには罪の性質が残っていて、実際に、私たちはさまざまな罪を犯してしまいます。そのような自らの現実を痛感しますと、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

というヨハネの教えは、私たちにとってなんという慰めの言葉であることでしょうか。私たちは神さまの御前に罪がない者であるかのように振る舞う必要はないし、そのように振る舞ってはならないのです。私たちは神さまの御前において正直に自らの罪の現実を認めるようにと招かれています。そして、そのようにすることこそが、私たちのうちに福音の御言葉によってあかしされている「真理」が宿って働くようになる道だと教えられています。
 ヨハネはさらに言葉を続けて、9節で、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と述べています。、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、

と言われているときの「言い表わす」と訳されている言葉(ホモロゲオー)は、「認める」こと、「同意する」こと、「告白する」ことなどを表します。これが誰に対してであるかということは示されてはいません。それが神さまに対してであることは言うまでもありません。それとともに、場合によっては、具体的に自分が害を与えた人に対しても、その告白をして和解を計る必要があると考えられます。
 そのような場合には、その告白を受けた人は、マタイの福音書18章21節、22節に、

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

と記されているイエス・キリストの教えを思い出す必要があります。また、長いので引用しませんが、それに続いて、23節〜35節に記されている、王に「一万タラントの借り」を赦してもらったのに、その60万分の1の「百デナリ」を貸している友人を赦さなかったしもべのたとえによるイエス・キリストの教えを心に刻む必要があります。また、マタイの福音書6章9節〜13節に記されている「主の祈り」に続く14節、15節において、イエス・キリストは、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

と教えておられます。
 ヨハネの手紙第1・1章9節に戻りますが、よく知られていますように、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、

と言われているときの「」は複数形で、私たちが実際に犯した罪のことを指しています。ですから、「私は罪人です」というような一般的な告白ではなく、具体的に犯した罪を告白することが示されています。
 ヨハネは、私たちが自分の罪を告白するとき、

神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と教えています。ここで、神さまが「その罪を赦し」てくださると言われているときの「」も複数形ですから、私たちが告白した具体的な罪のことを指しています。
 また、

 神は真実で正しい方ですから、

と言われているときの「真実」であるということは、広く聖書の中では、神さまがご自身の契約に対して真実であられることを意味しています。もちろん、その契約は、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血によって立てられた契約です。私たちは今日、聖餐式において、イエス・キリストが新しい契約を確立してくださるために流してくださった血にあずかります。
 ここでは、

 神は真実で正しい方ですから、

と言われていますが、この「正しい」と訳されている言葉(ディカイオス)は、神さまが「義であられる」ことを意味しています。神さまが義であられることは、神さまが罪をおさばきになることにおいて現れてきます。けれども、ここでは、神さまがご自身の契約に対して真実であられることとのつながりで理解しなければなりません。そうしますと、ここで言われていることは、ローマ人への手紙3章25節、26節に、

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

と記されていることに当たります。
 神さまは私たちの契約のかしらとして十字架におつきになったイエス・キリストに対して、私たちの罪のさばきを執行されて、私たちの罪を完全に清算されました。これによって、ご自身が義であられること、「正しい」ことをお示しになりました。そればかりか、ご自身が「なだめの供え物として」お遣わしになったイエス・キリストを信じる者をも、義と認めてくださるのです。これによって、神さまが義であられることがより豊かな形において示されています。
 ここでは、そのような意味で「神は真実で正しい方ですから」、私たちの罪を赦してくださると言われています。
 そればかりでなく、これに続いて、

すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と言われています。ここでヨハネは「」という言葉(ハマルティア)ではなく「」という言葉(アディキア)を用いています。これを「」と訳すと分かりにくいので、「不義」と訳すとよいかと思います。つまり、この言葉(アディキア)は、その前の部分で、

 神は真実で正しい方ですから、

と言われているときの「正しい」という言葉(ディカイオス「義である」)と対比させられていると考えられます。「義であられる」神さまが私たちの「不義」をきよめてくださるというのです。それによって、ご自身が義であられることをお示しになられます。さらに、私たちを御前において「義であるもの」としてくださるのです。
 ここで「私たちをきよめてくださいます」ということには、二つのことがかかわっていると考えられます。
 一つは、私たちの罪の罪責を取り除いてくださることです。「罪責」というのは罪を犯したことの責任で、それがあるために、私たちは刑罰に値する状態にあります。神さまは私たちの罪責を取り除いてくださり、私たちをそのような状態から救い出してくださいます。それによって、私たちはもはや自分が犯した罪をさばかれることがなくなります。
 もう一つは、私たちのうちから罪の欲望や罪を犯す傾向を取り除いてくださるということです。これは、私たちの実質を変えてくださることを意味しています。とはいえ、これが一気に私たちを造り変えてしまうものではないことは、この前の8節において、このような恵みにあずかっている私たちのうちに、なおも罪の性質があると言われていることから分かります。私たちはこの地上の生涯を通して、自らの罪を認めて、それを告白するという、罪の悔い改めを繰り返しながら、少しずつ罪の性質をきよめていただくのです。
 このこととの関連で注意したいのは、9節で、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と言われているときの、神さまが私たちの罪を赦してくださることも、「すべての悪から私たちをきよめて」くださることも、現在形で表されているということです。神さまはこれらのことを常になしてくださる、いつでも、どのような場合にもなしてくださるというのです。このことも、私たちが日々に造り変えていただくべきものであることを示しています。そして、それは私たちが地上の生涯において繰り返してなす、罪の悔い改めとともになされます。

 


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