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説教日:2007年7月29日 |
ローマ人への手紙2章14節、15節には、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 と記されています。14節で、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても と言われているときの「律法」は、旧約に記されているモーセ律法のことであると考えられます。「律法を持たない異邦人が」と「律法を持たなくても」というときの「律法」には冠詞がついていません。ギリシャ語の冠詞はすべて定冠詞です。それで、これはその他の法から区別されるモーセ律法ということより、モーセ律法の法としての特質を表わしていると考えられます。そして、異邦人はモーセ律法をもっていませんが、「生まれつきのままで律法の命じる行ないをする」ことがあると言われています。この場合の「律法の命じる行ない」は文字通りには「律法の事柄」ということで、律法が規定していることを指しています。異邦人は生まれつきのままで律法が規定していることを行なうことがあるというのです。そして、そのような場合には、 自分自身が自分に対する律法なのです と言われています。その人は、モーセ律法をもっていなくても、モーセ律法によって外から教えられなくても、律法に対するわきまえがあるということです。 続く15節では、 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。 と言われています。ここで「律法の命じる行ないが彼らの心に書かれている」と言われているときの「律法の命じる行ない」は文字通りには「律法の行ない」です。新改訳の「律法の命じる行ない」という訳は、「律法の行ない」が「律法が命じていること」を表しているという理解を示しています。そして、これがこの言葉の意味であると考えられます。 この意味での「律法の命じる行ないが彼らの心に書かれている」ということは、律法が彼らの心に書かれているというのとは少し違っています。その違いは、これまでお話ししました、天地創造において神のかたちに造られたときの人の状態と、その人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったときの状態の違いに対応しています。神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、その心にご自身の律法を書き記してくださったとき、その律法は造り主である神さまへの愛を動機とし、目的として働きました。人は自ずから造り主である神さまを愛し、そのゆえに隣人を愛するものであったのです。そのような人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによって、その心に記されている律法も変質してしまいました。それはもはや造り主である神さまを中心として働くものではなくなったのです。ですから、生まれながらの人が「律法の命じる行ない」をするときには、造り主である神さまを愛し、造り主である神さまをあがめることを動機とし、目的としてそうするわけではありません。そのような根本的な欠けがあるけれども、「律法の命じる行ない」を行なうことはあるということです。律法の規定、律法の条文を守ることはあるということです。そして、その「律法の命じる行ない」はその人の心に書き記されていると言われています。 これに続いて、 彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 と言われていることも、「律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていること」の現れです。「良心」という言葉は、ギリシャ語、ラテン語、英語などでは、「ともに知る」というような意味合いをもっています。その「ともに」というとき何とともになのかが問題となりますが、この場合は、心に記されている「律法の命じる行ない」です。つまり、人の良心はその人の心に記されている「律法の命じる行ない」に沿って働くということです。 神のかたちに造られている人間の本来の姿においては、人の良心は造り主である神さまを愛し、あがめることを動機とし、目的とする律法に沿って働くものでした。しかし、罪による堕落の後には、良心そのものがなくなってしまったのではなく、良心が造り主である神さまを愛し、あがめることを動機とし、目的として働くことはなくなってしまったのです。 少し時間をかけてしまいましたが、ここに示されていますように、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも、その心には「律法の命じる行ない」が記されています。そして、それに沿って良心が働きます。けれども、その「律法の命じる行ない」も良心も神さまを中心としてはいないのです。そのために、人の心には「罪の意識」があると言っても、それは自らの心に記されている「律法の命じる行ない」を基準として働く良心によって生み出されるものですので、神さまを中心としたものではありません。その「罪の意識」は造り主である神さまに対する罪として自覚されるのではないのです。それは、聖書が教えている罪の自覚とは本質的に違います。 このことに関連して、もう一つの御言葉を見てみましょう。ヨハネの手紙第1・3章4節には、 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。 と記されています。ここで、「不法」と訳されている言葉と「律法に逆らうこと」と訳されている言葉は同じ言葉(アノミア)です。この言葉をめぐっては意見が分かれています。 一つの理解は「律法に逆らうこと」という新改訳の訳に表されています。罪の本質は律法を守らないこと、律法を破ることにあるということです。 もう一つに理解は、この言葉(アノミア)がここに突然出てくるということと、これに冠詞(定冠詞)がついているということに注目します。そして、この言葉はこの手紙の読者を含めてその時代の人々によく知られているものを表しており、その意味での専門用語であると考えます。さらに、テサロニケ人への手紙第2・2章3節に、 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。 と記されており、9節、10節に、 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。 と記されていることに注目します。ここでは、終りの日にキリストに反抗するものとして登場する「不法の人」のことが記されており、それが「サタンの働きによる」と言われています。この「不法の人」の「不法」はヨハネの手紙第1・3章4節に出てくる「不法」と同じ言葉です。 これらのことから、このヨハネの手紙第1・3章4節では、「不法」という言葉は、終末論的な意味合いをもっているとされます。そして、それはサタンの働きによってもたらされ、終りの日の「不法の人」の到来において頂点に達するようになる大きな流れに参与して神さまに逆らうことを指しているというのです。 このようなことから、このヨハネの手紙第1・3章4節では、「不法」という言葉には神さまと御子イエス・キリストに逆らって働いているサタンに味方する罪を指しているという可能性があります。 その一方で、これらの背景や意味合いを、それがここで初めて用いられており、(定)冠詞がついているということで、一つの言葉(アノミア)に込めてしまうということができるのかどうか疑問が残るところです。 このことを理解するうえで大切なことは、この言葉(アノミア)を「律法に逆らうこと」という一般的な意味で理解する場合にも、すでにお話ししました律法の本質を見失うことなく理解する必要があるということです。「律法に逆らうこと」というのは、ただ単に、先ほどのローマ人への手紙2章15節の「律法の命じる行ない」に背くこと、律法の条文を守らないことではありません。「律法に逆らうこと」というのは、造り主である神さまを愛し、あがめることを動機とし、目的とするという律法の本質において、神さまと神さまの律法に背くことです。このヨハネの手紙第1・3章4節では、罪とは、少なくとも、このような意味で神さまとその戒めに背くことであることが示されていると考えられます。 そして、このような罪を犯すこと、すなわち、神さまとその戒めに背くことがサタンに味方することであることは、ヨハネの手紙第1・3章の文脈では、8節に、 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。 と記されていて、罪とサタンとの結びつきのことが示されていることから汲み取ることができます。さらに、このことに終末論的な意味があることは、これに先立つ2章18節に、 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。 と記されていることから汲み取ることができます。ここでは、終りの日を特徴づける「反キリスト」の到来のことが語られています。「多くの反キリスト」のことが語られているのですが、それは「不法の人」において頂点に達します。 考えようによっては、ヨハネの手紙第1・3章4節の文脈にこのようなものがあるので、そこに出てくる冠詞つきの「不法」には、先ほどお話ししましたような終末論的な意味合いがあると論じることもできるわけです。この点につきましては、決定的なことは言えない気がします。 いずれにしましても、それに終末論的な意味合いがあるかどうかにかかわりなく、このヨハネの手紙第1・3章4節の、 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。 という御言葉は、罪が神さまと神さまの律法に背くことであることを明らかにしています。ですから、罪を自覚するとは、造り主である神さまを愛し、あがめることを動機とし、目的とするという律法の本質において、神さまと神さまの律法に背むいていたことを自覚することです。 自分の良心に照らして罪を認めても、神さまの御前に罪を自覚したことにはならないという例を一つ見てみたいと思います。マタイの福音書27章3節〜5節には、 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。 と記されています。 ここには「イエスを売ったユダ」のことが記されています。この「売った」と訳されている言葉(パラディドーミ)は「裏切って敵に引き渡す」ということを表しています。そこに「銀貨三十枚」がからんでいるので、新改訳は「売った」と訳しているのでしょう。 ユダは「イエスが罪に定められたのを知って後悔し」と言われています。なぜ後悔するようになったのかについては、いくつかの見方があります。よく言われるのは、ユダは、イエス・キリストが敵の手に渡されれば特別な力を働かせて戦うようになると考えていたのに、そうなさらないことを見て後悔したという見方があります。しかし、聖書に記されていることからその見方を支持するものを見つけることはできません。おそらく、実際に手にするまでは大きなものと見えていた「銀貨三十枚」を手にしてみて、それがどの程度ののものかに気づき、それに比べて、イエス・キリストを敵の手に渡してしまった自分が支払ったものの大きさに気がついたということでしょう。とんでもないことをしてしまったという思いがわいてきたということでしょう。 3節で「後悔し」と訳されている言葉(メタメロマイ)の意味合いについては議論が分かれています。これは「悔い改める」ということを意味しないという見方と、「悔い改める」という言葉(メタノエオー)と同義語であるという見方があります。ただ、言葉の構成の上からは、「悔い改める」という言葉(メタノエオー)は考え方を根本的に変えるという意味合いがあるのに対し、「後悔し」と訳されている言葉(メタメロマイ)はその心にかけることが変わるという意味合いがあります。二つの言葉が同義であるという根拠としてあげられているマタイの福音書21章29節、32節がそれを示しているか疑問が残ります。そこをお読みしないままお話しするのもなんですが、それは「後悔」さえしなかったということを述べている可能性があります。 言葉の問題では必ずしも決定的なことは言えないとしても、ユダがイエス・キリストに対して悔い改めた形跡はありません。4節の、 私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。 というユダの言葉も、イエス・キリストを罪に定めた「祭司長、長老たち」に対して述べたものです。そして、ユダは最後には自分で決着をつけてしまっています。これは、これまでお話ししてきました、ローマ人への手紙2章14節、15節とのかかわりで言いますと、ユダの良心に沿った行動でしょう。しかも、「銀貨三十枚」を突き返し、自らのいのちを絶ったユダは真剣でした。しかし、それは神さまの御前に罪を悔い改めて、神さまがイエス・キリストをとおして備えてくださる贖いの恵みに頼るというものではありませんでした。もちろん、このときはまだイエス・キリストは十字架にかかっておられませんが、ユダはイエス・キリストにある神さまの恵みにすがることをしてはいません。 この悔い改めについての何週間かにわたるお話の最初にお話ししましたように、真の悔い改めは神さまの贖いの恵みを信じそれに信頼することと一つのことの裏表の関係にあります。ですから、真の悔い改めのしるしは、その人の真剣さにあるのではありません。その人が、神さまが御子イエス・キリストによって備えてくださった贖いの恵みのみに信頼するようになることにあるのです。 |
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