(第111回)


説教日:2007年7月22日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りについてのお話を続けます。この祈りの中心主題は神の国です。それは、父なる神さまが贖い主として遣わしてくださった御子イエス・キリストが御霊によって治めてくださっている御国のことです。
 これまで、マタイの福音書4章17節に記されています、

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

という御言葉に示されていますように、神の国に入るためには自らの罪を悔い改めなければならないということをお話ししました。
 私たちの悔い改めには、時間的な側面から見て、二つの面があります。一つは、生涯にただ一度だけなされる決定的な方向転換としての悔い改めです。もう一つは、地上の生涯をとおして繰り返しなされる悔い改めです。
 生涯にただ一度だけなされる決定的な方向転換としての悔い改めは、それまで自らの罪のうちに死んでおり、造り主である神さまを神として礼拝することなく、罪の自己中心性に縛られ、神さまに背を向けて、罪の結果としての滅びへの道を歩んでいた私たちが、神さまのとこしえの愛と一方的な恵みによって、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神さまの御許へと帰ったことを指しています。
 これは造り主である神さまと私たちとの関係における決定的な転換です。決して、単なる私たちの気持ちの変化というようなものではありません。私たちの気持ちも変化しますが、それは神さまとの関係の転換の結果です。大切なことは、神さまとの関係が変わっていることです。
 また、これは私たちが自らの罪を悔い改めて神さまの御許に帰ることですが、その中心は神さまの御業にあります。というのは、ただ私たちが自分たちの造り主である神さまに対して罪を犯して、御前から堕落していただけではありません。エペソ人への手紙2章3節に、

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されていますように、私たちの罪は神さまの聖なる御怒りを引き起こすものであり、私たちはそのさばきの下にありました。私たちが神さまから離れていただけでなく、神さまも私たちの罪に対して聖なる御怒りを示しておられたのです。しかも、私たち人間は自分が神さまに犯した罪に対してどうすることもできません。
 罪には軽重があります。重い罪と軽い罪があります。自分のうちに憎しみを抱いたことと、その憎しみにかられてその人を傷つけてしまうことの間には違いがあります。また、一瞬かっとなってしまうことと、怒りを持ち続けることの間には違いがあります。神さまはそれをご存知です。しかし、それは人との関係において考えられた罪です。私たちの罪を神さまとの関係においてみますと、私たちの罪の一つ一つが無限の重さをもっています。というのは、御言葉の光に照らしてみますと、私たちの罪とは一介の被造物である私たちが、自らの造り主であり、無限、永遠、不変の栄光の主に背くことであるからです。
 生まれながらに罪の性質をもち、神さまを神としていなかった私たちは、自分自身のことを神さまとの関係にある者とは考えませんでした。当然、自分の罪も神さまとの関係において考えることがありませんでした。私たちがそうであったばかりでなく、私たちが生まれ育った家庭も社会も文化もそうでした。ですから、罪といえば人に対する罪のことしか考えませんでした。それは過去形で言うことができなくて、その傾向は、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じて、神さまの御許に立ち返っている神の子どもたちにおいても見られます。そのために、罪の底知れない深さと恐ろしさが分からなくなってしまいます。私たちも例外ではありません。私たちはこの自分の罪が贖われるためには永遠の神の御子、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪へのさばきを受けてくださらなければならなかったということを心に留めることによって初めて、自分の罪の底知れない深さと恐ろしさを知ることができます。
 ですから、私たちは神さまに対して犯した自分の罪を償うことができません。それは私たちの考え方を変えればすむという問題ではないのです。神さまの聖なる御怒りは神さまの無限、永遠、不変の義に基づいています。それは神さまの義の要求を完全に満たさないかぎりはしずめられることはありませんし、しずめられてしまってはならないものです。神さまが私たちの罪を完全に清算されないとすれば、神さまの義が立ちません。それで、この罪の問題を無視して、私たちが神さまに帰りさえすれば、神さまは愛の神であられるから受け入れてくださるというように考えることはできません。今日では、福音派のクリスチャンと呼ばれる人々の中にも、実質的には、そのような考え方、感じ方をしている人々もいます。しかし、それは福音の御言葉が示していることではありません。


 すべての人は造り主である神さまに対して罪を犯した者として、そのような事情にあります。神さまはそのような私たちのためにすべての備えをなしてくださいました。
 ヨハネの手紙第1・4章9節、10節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。
 ここには、神さまが愛であられることが示されています。しかし、その神さまの愛は神さまが「そのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださ」ったことに示されており、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされ」たことにあると言われています。
 新改訳で9節の最後に出てくる、

 ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

という言葉と、10節の最後に出てくる、

 ここに愛があるのです。

という言葉は、ギリシャ語原文では、どちらも主節として最初に出てきます。そして、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。

ということと、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

ということは従属節において示されています。ここで示されているのは、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。

という事実においてこそ、神さまの愛が示されており、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

という事実においてこそ神さまの愛があるということです。ですから、これらの事実を離れて、神さまの愛を考えることはできないし、真の意味で「神さまは愛である。」と言うことはできないのです。
 もちろん、この造られた世界は神さまの愛で満ちています。マタイの福音書5章44節、45節には、

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。日が昇り雨が降ることも造り主である神さまの愛の表れです。しかし、それは神さまの愛の完全な表れではありません。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。

という事実と、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

という事実の前には、その他のものはかすんでしまうのです。
 しかし、それは、その他の形で示された神さまの愛をないがしろにするものではありません。父母がその子を愛していることはいろいろな形で表されます。その子ども自身に向き合うというその最も深い表れがあって、それに接している子どもは、その他のことも父母の愛の表れと受け止めることができます。その子ども自身に向き合うことなく、物だけを与えても、子どもとしては、それが父母の愛の表れとは受け止められないということもあり得ます。あるいは、父母の愛をそのようなものとしてしか受け止められなくなります。私たちが父なる神さまの愛を受け止めるのも同じです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。

という事実と、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

という事実によって示された神さまの愛と愛の神さまをまず知ることによって、

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる

というイエス・キリストの教えに示されている神さまの愛も真の意味で理解し、受け止めることができるのです。
 ヨハネの手紙第1・4章9節では、父なる神さまが遣わしてくださったのは「そのひとり子」であると言われています。この「ひとり子」と訳されている言葉(モノゲネース)は、その独自性を示すものです。これは、ヨハネの福音書では御子がとこしえに御父から出ておられる唯一にして無比なる方であられることを示す言葉です。旧約聖書のギリシャ語訳である7十人訳では、この言葉(モノゲネース)は、「愛する者」という言葉(アガペートス)とともに、「ひとり子」を表すヘブル語(ヤーヒード)の訳語として用いられることがあります。そして、「そのひとり子」の「その」は文字通りには「彼の」という言葉で、「ご自身の」ということを表します。ですから、「そのひとり子」というのは、父なる神さまにとって、あらゆる意味において、かけがえのない御子のことです。
 また、10節では、父なる神さまが遣わしてくださったのは「御子」であると言われています。この場合の「御子」にも9節と同じように「彼の」という言葉がついていますから、「ご自身の御子」となります。これも、父なる神さまがご自身にとってのかけがえのない御子を遣わしてくださったということを示しています。
 10節の、

私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

と訳されている部分は、実質的には違いがありませんが、

私たちの罪のためのなだめの供え物として、御子を遣わされました。

と訳したほうがいいと思われます。いずれにしましても、この「なだめの供え物」と訳されている言葉(ヒラスス)は新約聖書の中では、ここと、同じヨハネの手紙第1・2章2節に出てくるだけです。そこでは、1節から見ますと、

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、―― 私たちの罪だけでなく全世界のための、―― なだめの供え物なのです。

と言われています。この言葉は新約聖書では2回出てくるだけですが、この動詞や形容詞の形などの関連語や同族語は、この他にも、マタイの福音書16章22節、ルカの福音書18章13節、ローマ人への手紙3章25節、ヘブル人への手紙2章17節、8章12節、9章5節などに出てきます。
 この「なだめの供え物」と訳されている言葉(ヒラスス)とその関連語や同族語の表すことをめぐっては論争がありました。新改訳の「なだめの供え物」という訳はその論争を踏まえています。それは、この「なだめの供え物」が神さまの聖なる御怒りをしずめるためのものであるということを踏まえているのです。これは、神さまは愛の神であって、罪を犯している人間や人間の罪に怒りを発するということはないというような理解を退けるものです。
 世間一般には、「神の怒り」を「なだめる」というと、怒り狂う「神」をなだめるために貢ぎ物のようなものを供えるというようなイメージがあります。そして、そのようなことを表すときにも「なだめの供え物」と訳されている言葉(ヒラスモス)とその関連語や同族語を使うことがあります。しかし、ヨハネの手紙第1では、この言葉はそのような意味で用いられてはいません。神さまの御怒りは貢ぎ物のようなものでしずめられることはありません。神さまの御怒りは理不尽なものではなく、神さまの義に基づくものです。神さまの義は無限、永遠、不変の義です。それは、罪とのかかわりでは、いかなる罪をも、聖なる御怒りをもっておさばきになり、完全に清算されることに表れてきます。そのような神さまの義の要求に対して、永遠の神の御子、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが「なだめの供え物」となられたというのです。そして、この方が神さまの義の要求を満たされたので、神さまの聖なる御怒りはしずめられました。
 ここでは、父なる神さまがご自身の御子を「私たちの罪のためのなだめの供え物として」お遣わしになったと言われています。ですから、御怒りをおさめようとされない御父を、御子がなだめられたということではありません。
 御子は父なる神さまのみこころにしたがって、「私たちの罪のためのなだめの供え物として」来てくださいました。そして、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて余すところなく受けてくださいました。
 このようにして、神さまは私たちの罪を完全に清算してくださり、聖なる御怒りをしずめられました。そして、私たちを罪の結果である死と滅びの道から贖い出してくださいました。そればかりでなく、私たちをイエス・キリストの復活のいのちにあずからせてくださって新しく生まれた者としてくださいました。そのことは、9節で、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。

と言われていることに表されています。そして、続いて、

ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

と言われていますように、このすべてが父なる神さまの愛から出ていると言われています。
 このように、父なる神さまが御子イエス・キリストによってすべてのことを成し遂げてくださっています。そのようにして、神さまのひとり子によって生きる者としていただいているので、私たちは自分の罪を悟り、それを悔い改めて、父なる神さまの御許に帰ることができたのです。これは、決して単なる私たちの気持ちの問題ではありません。
 ヨハネの手紙第1・4章では、9節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

と記されていることは、その前の7節、8節に、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

と記されていることを受けて、それをさらに説明しています。先に9節、10節に記されていることを取り上げましたので、話の順序としては逆になってしまったのですが、この7節、8節に記されていることを、これまでお話してきたこととのかかわりで見てみましょう。7節では、

愛は神から出ているのです。

と言われています。8節で、

なぜなら神は愛だからです。

と言われていますように、神さまご自身が愛であられます。神さまの本質的な属性は愛です。そして、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになりました。それで、造られたものにある愛はすべて神さまから出ています。7節後半において、

愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

ということは、天地創造の初めに神のかたちに造られた人間にそのまま当てはまることです。けれども、ここでヨハネが述べているのはそのことではなく、9節で、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。

と言われている、私たち神の子どもたちのことです。父なる神さまは「ご自身のひとり子を」「私たちのためのなだめの供え物として」遣わしてくださいました。そして、その方が十字架の上で成し遂げてくださった罪の贖いに、私たちをあずからせてくださって、私たちを新しく生きる者としてくださいました。ここでは、その私たちは神さまの愛の属性にあずかっていると言われています。私たちは神さまに愛されているというだけでなく、私たち自身のうちに神さまから生まれた者としての愛があるということです。
 このことを受けて、9節、10節で、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と言われています。ここに記されていることは、私たちに対する神さまの愛のあかしであり、実際に、私たちがそのような父なる神さまの愛にあずかって愛されていることを示しています。しかし、これをその前の部分とのつながりで見てみますと、私たち神の子どもたちは、そのような愛の神さまから生まれていると言われています。私たちもそのような愛をうちにもつ者として生まれているということです。このことを思いますと、同じ手紙の3章16節に、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されていることも理解できます。ここでは、私たちはイエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったことに表された愛をもって兄弟を愛すべきであると言われています。このように、4章7節において、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

と言われているときの愛は、被造物の次元においてではありますが、神さまの愛を映し出す愛です。
 これは、先主日お話ししました、コリント人への手紙第2・5章15節に、

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

と記されていることと同じことを別の面から述べたものです。イエス・キリストとともに十字架につけられて、罪の自己中心性を本質的な特性とする古い自分に死んで、愛を本質的な特性とするイエス・キリストの復活のいのちによって生きるようになった私たちが「自分のために死んでよみがえった方のために生きる」ということは、互いに愛し合うことに実現します。
 このように、私たちが自らの罪を悔い改めて神さまの御許に帰ったということ、そのゆえに神の国に入ったということは、イエス・キリストとともに十字架につけられて古い自分に死んで、イエス・キリストの復活のいのちによって生きている者として、このような愛のうちに生きるようになったということに他なりません。
 最後に、これらのことを念頭において、ヨハネの手紙第1・4章11節、12節に記されている御言葉を見てみましょう。そこには、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

と記されています。

 


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