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説教日:2007年7月15日 |
コリント人への手紙第2・5章14節、15節には、 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 と記されています。 14節は「というのは」という言葉によってその前の部分とつながっています。その前の部分ではパウロの働きのことが述べられています。それで、ここでは、パウロの福音宣教の働きは「キリストの愛」に取り囲まれてのことであると言われています。14節では「キリストの愛」が最初に出てきて強調されています。そして、「取り囲んでいる」という言葉(スネコー)は取り囲んで閉じこめてしまうというような意味合いを示しています。パウロは「キリストの愛」に取り囲まれ、そのうちに閉じこめられてしまっている。そこに「キリストの愛」以外のものが入り込んでくる余地はないのです。そのように圧倒的な力と重さと現実性をもって自分に迫ってきている「キリストの愛」に動かされてパウロは福音を宣べ伝えているということです。 そのようなことがあるので、この前の節の13節で、 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。 と述べているわけです。 この13節で、パウロは神さまに対して「気が狂っている」と述べています。そして、「それはただ神のためである」と言っています。この「それはただ神のためである」ということは、神さまの栄光のためであるということです。神さまの必要を満たすということではありません。 パウロが「気が狂っている」という言葉によって何を意味しているかについては意見が分かれています。たとえば、ダマスコに向かう途中で栄光のキリストの顕現に接して召しを受けたことや、第3の天にまで引き上げられた経験のことを指しているとか、異言を語ったときの状態を指しているとか、パウロの働きが熱狂的であって、人々から「気が狂っている」と言われたことを指しているというような見方です。後ほどお話しすることとかかわってきますので、これらの見方についてみてみましょう。 第1の見方についてですが、確かに、パウロはダマスコに向かう途中で栄光のキリストの顕現に接して召しを受けています。その出来事は使徒の働き9章1節〜5節に、 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」 と記されています。言うまでもなく、この「サウロ」はイエス・キリストを信じるようになる前のパウロのことです。「パウロ」はギリシャ語名で「サウロ」はヘブル語名です。また、コリント人への手紙第2・12章2節〜4節には、 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に と記されています。この「キリストにあるひとりの人」とはパウロのことです。この個所を読めば分かりますが、パウロはこの経験を誇ることをしていません。それで、このような言い方をしています。 いずれにしましても、パウロはこのような体験をしていますし、そのことについてあかししています。しかし、コリント人への手紙第2・5章13節で「気が狂っている」と言われているのは、 もし私たちが気が狂っているとすれば、 という訳からも分かりますように、1人称の複数形です。それで、パウロがダマスコに向かう途中で栄光のキリストの顕現に接して召しを受けたことや、第3の天にまで引き上げられた経験など、パウロ個人の経験のことだとすることはできないと思われます。 次の見方ですが、コリント人への手紙第1・14章18節に、 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、 と記されていることから、パウロが異言を語ったことは確かです。しかし、この場合も、「気が狂っている」と言われているのが1人称の複数形であることを考えますと、パウロとともに福音の宣教に関わった人々のすべてと言わないまでも、大部分が異言を語ったのかどうかは分かりません。 さらに、パウロが異言を語ったとき、「気が狂っている」と言われるような状態になったかどうかも分かりません。いわゆる異言現象は恍惚の状態でなされることが多いようですが、すべてがそうであるわけではありません。これはいわゆる異言現象のことですが、私はある人がまったく冷静に異言を語っていることに接したことがあります。 新約聖書における最初の異言の記録はペンテコステの日における出来事です。その日、弟子たちが御霊が語らせてくださるままに異言で語ったのですが、それは神さまの大いなる御業の宣教でした。それはさまざまな地方の言葉で語られたので、その言葉を理解できない人々には異様なことと感じられたでしょうが、その言葉を用いている人々には理解できることでした。この場合の異言はそれとしての高揚感もって語られたと考えられますが、気が狂ったような状態で語られたということを示すものはありません。使徒の働き2章13節に、 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。 と記されていることも、必ずしも恍惚状態であることを指しているわけではなく、そのあざけっている人々にとっては、わけもわからない言葉を語り続けることが異様としか思えなかったということを指している可能性もあります。 3番目に上げた見方の、パウロの働きが熱狂的であって、人々から「気が狂っている」と言われたということですが、確かにそのような事例があります。パウロがアグリッパとフェストの前で弁明した時のことを記している使徒の働き26章24節には、 パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と言った。 と記されています。 しかし、これは、パウロの様子が気が狂ったようになっているということを述べているのではありません。フェストからするととても理解しがたいことを述べているので、そのようなことを言われたのです。実は、このときパウロはダマスコに向かう途中で栄光のキリストの顕現に接したことをあかししています。そこであかしされていることがフェストにとってはあまりにも現実離れしているということから、気が狂っていると言われたのであると考えられます。 コリント人への手紙第2・5章13節の後半で、パウロは、 もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。 と述べています。ここで「正気である」と訳されている言葉(ソーフロネオー)は冷静で、自制心があり、慎み深い状態にあることを表しています。このことから、人々から気が狂っていると言われることがあったとしても、パウロの働きそのものは、熱心ではあっても、気が狂ったようなものではなく、冷静で慎み深いものであったことが分かります。 これらのことを考えますと、パウロが、 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、 と述べているのは、パウロの個人的で特定の経験のことを指しているのではないと考えられます。特に、その外側から見た様子が気が狂ったように見えたことではないと考えられます。 それではどういうことなのかということになりますが、おそらく、それは、パウロが神さまから啓示によって受けた福音によっていると思われます。その福音は、十字架につけられて殺されたナザレのイエス、すなわち、モーセ律法によれば、のろわれたものとして死んだナザレのイエスが約束のメシヤであるという、その当時の人々からすれば途方もないものでした。それはパウロ自身が強く感じたことです。パウロは、そのような途方もないことを言い広める者たちは神を冒涜する者で死に値すると考えて、実際にそのような人々を迫害していました。パウロは、そのうちに何人かは死に至っていると告白しています。そのパウロが、その途方もないことを福音として宣べ伝えていたのです。その点で「気が狂っているとすれば、それはただ神のため」、神さまの栄光のためでした。パウロはその途方もないことを決して曲げずにあかしし続けました。それはパウロだけのことではなく、パウロとともに福音の宣教に携わった人々も同じでした。 また、 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、 ということも、 もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。 ということも、パウロと同労者たちの福音の宣教の働きの、神さまとの関係から見た面と人々との関係から見た面ですので、矛盾することではありません。パウロたちは神さまの栄光のために、福音の御言葉を曲げることなく働きましたし、それは、同時に兄弟たちのための働きでした。 そして、続く14節では、そのような働きは、「キリストの愛」に押し迫られ、取り囲まれ、そのうちに閉じこめられてしまっているほどになっていることから生れてきていると言われているのです。 パウロは、続いて、 私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 と述べています。これは、ただパウロが考えついたということではありません。「キリストの愛」に押し迫られ、取り囲まれ、そのうちに閉じこめられてしまっているほどになっている中で考えが導かれていったのです。 パウロは、あのダマスコに向かう途中で、圧倒的な神の栄光の顕現、イエス・キリストの栄光の顕現に触れました。そして、自分にご自身を現してくださった栄光の主、ヤハウェは、神の御前にのろわれたものとして死んだナザレのイエスであられたという驚愕の事実を啓示されました。そのことから、栄光の主、ヤハウェご自身が、ご自身の民のために、いや、ほかならぬこの自分のために、その栄光の主に逆らっていた自分のために死んでくださったということを知るに至ります。そのことによって、「キリストの愛」に押し迫られ、取り囲まれ、そのうちに閉じこめられてしまっているほどになっているのです。そして、その「キリストの愛」に取り囲まれて、 私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 と述べています。その「ひとりの人」とは、人となって来てくださった栄光の主、ヤハウェ、すなわち、私たちの主イエス・キリストです。 ローマ人への手紙5章12節には、 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、 と記されています。この場合の「ひとりの人」は、天地創造の御業において神のかたちに造られた最初の人アダムです。アダムは人類のかしらですが、創造の御業において造られた存在です。そのアダムにあって「罪が世界にはいり」、「全人類が罪を犯した」と言われています。その結果、すべての者が、その罪に対するさばきとしての死に服することになってしまいました。 コリント人への手紙第2・5章14節で、 私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 と言われているのは、このことと関わっています。人となって来てくださった栄光の主が私たちすべてのために死んでくださったのは、その栄光の主が私たちの死すべき死を死んでくださったことである。私たちの罪に対する刑罰を受けて死んでくださったことである。それで、私たちはこの方にあって、罪のさばきとしての死を死んだということです。そして、それは圧倒的な「キリストの愛」の現れであり、その「キリストの愛」が私たちを取り囲んでいるというのです。 これを今お話している私たちの生涯に一度の転換としての悔い改めとの関わりで見てみましょう。 私たちの生涯に一度の転換としての悔い改めは、私たちが人となって来てくださった栄光の主、ヤハウェ、私たちの主イエス・キリストにあって罪のさばきとしての死を死んだということに根差しています。そして、私たちはそのことを御霊のお働きにより、福音の御言葉を通して知りました。そのことは、私たちを根底から揺り動かす出来事でした。その時、「キリストの愛」が私たちに押し迫ってきて、私たちを取り囲み、私たちをその愛のうちに閉じこめてしまいました。私たちはそのような「キリストの愛」に触れて、その愛に取り囲まれて自らの罪を悟り、その罪を悔い改めました。私たちが神の国に入ったのは、この「キリストの愛」に取り囲まれてのことです。 とはいえ、私たちの意識においてはこの順序ではない可能性は十分にあります。私たちの意識としては、自分の罪に気がついて、神さまの聖さへの畏れに満たされ、罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じた後で、圧倒的に迫ってくる「キリストの愛」に触れるということもあります。しかし、それは、すでに自分を取り囲んでいた「キリストの愛」に気がつくことであって、その時から「キリストの愛」が私たちを取り囲むようになったということではありません。 コリント人への手紙第2・5章では、続く15節で、 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 と言われていす。 ここでは、14節で、 私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 と言われていることの意味がさらに展開されています。栄光の主イエス・キリストが私たちすべてのために死んでくださったことにより、私たちは自分の罪に対する刑罰としての死を死んでいます。私たちは罪を贖われ、罪と死の力から解放されています。それで、私たちは罪の本質的な特質である「自己中心性」から解放されています。 そればかりでなく、私たちはイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、新しく生かされています。15節で、 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 と言われているときの「生きている人々」とは、罪を贖われ、イエス・キリストの復活のいのちによって生きている人々のことです。真の意味で生きている人々、神のかたちに造られた人間の本来のいのちを生きるように回復された人々のことです。 このように罪の本質的な特質である、自分を神の位置に据えるような「自己中心性」から解放されている者は、もはや自分のために生きることはありません。しかし、何の目的もなくなったのではありません。私たちはまことの神さまのみを神としてあがめ、その栄光のために生きるいのちへと回復されています。それは、「自分のために死んでよみがえった方」、今も、その圧倒的な愛をもって私たちを取り囲んでくださっている方の栄光のために生きるようになったということです。そして、その方のみこころにしたがって、契約共同体の隣人を愛する愛のうちに生きるようになったということです。これこそが、生涯に一度の転換としての悔い改めの現れに他なりません。そして、これこそが、御霊のお導きによって罪を悔い改めて、神の国に入れていただいている者の生き方に他なりません。 |
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