(第109回)


説教日:2007年7月8日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りは、神さまがご自身の御国、すなわち神の国を来たらせてくださることをていねいな形で祈り求めるものです。そして、この神の国は、父なる神さまが贖い主として遣わしてくださったイエス・キリストが御霊によって治めてくださっている御国のことです。
 先週はマタイの福音書4章17節に記されています、

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

という御言葉を取り上げました。そして、聖書の中では罪を悔い改めることと福音を信じることが一つのことの裏表のような関係にあるということをお話ししました。そして、神の国に入るためには自らの罪を悔い改めて、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にかかわる福音を信じなければならないということをお話ししました。さらに、私たちがそのように自らの罪を認めて悔い改めることができたのも、福音を信じることができたのも、すべて、神の国の王として私たちを治めてくださるイエス・キリストの御霊による導きによることである、ということをお話ししました。
 実は、私たちの悔い改めには、時間的な側面から見て、二つの面があります。一つは、生涯にただ一度だけなされる決定的な方向転換としての悔い改めです。もう一つは、地上の生涯をとおして繰り返しなされる悔い改めです。
 先週お話ししたのは生涯にただ一度だけなされる決定的な方向転換としての悔い改めのことです。それは、それまで造り主である神さまを神として認めることなく、礼拝することもなく、神さまに背を向けて歩んでいた私たちが、御霊のお働きによって、その罪を悟り、それを悔い改めるとともに、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じるようになり、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって父なる神さまの御許に帰るようになったこと、そして、造り主である神さまを神として礼拝し、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者となったという決定的な転換のことです。
 今日もこの意味での悔い改めについて、もう少しお話ししたいと思います。それによって、私たちが罪の悔い改めとイエス・キリストに対する信仰において受けている神さまの恵みを、御言葉に基づいてさらに確かめ、噛みしめていきたいと思います。


 私たちが自らの罪を悔い改めて神さまの御許に帰るようになったことは、私たちが自覚的、意識的になしたことです。聖書の中には、同じことを神さまの御業として見た場合のことが述べられています。すでにいろいろな機会にお話ししたことを例に取りますと、コロサイ人への手紙1章13節には、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と記されています。神さまが私たちを「暗やみの圧制から救い出して」御子イエス・キリストが治めてくださる御国へと移してくださったので、私たちは罪を悔い改め、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて、父なる神さまの御許に帰るようになったのです。
 同じく神さまが私たちに対してなしてくださったことが、エペソ人への手紙2章4節〜6節においては、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 ここに記されていることも、神さまが御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて、御霊のお働きによって、私たちの生涯において一回限りの決定的なこととして、私たちに対してなしてくださったことです。そして、神さまが私たちをイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にあずからせてくださって、私たちをイエス・キリストとともに生かしてくださったので、私たちは自らの罪を認め、それを悔い改めて、イエス・キリストを信じて父なる神さまの御許に帰ることができたのです。
 これと同じことは聖書の中ではいろいろな形で表されています。それは、このことのために神さまが私たちになしてくださっていることが豊かで多様な面をもつものであるからです。そのことの一端に触れるためにも、さらにいくつかの例を見てみましょう。
 ローマ人への手紙5章6節〜11節には、

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。
 ここでは、かつての私たちのことがいろいろな形で述べられています。
 6節では、私たちは「弱かった」と言われています。これは身体的な弱さ、からだの弱さというよりは、自らの罪のために霊的に死んでおり、神さまの御前に実を結ぶことができない状態にあることを指していると考えられます。先ほど引用しましたエペソ人への手紙2章5節では、かつての私たちのことが「罪過の中に死んでいたこの私たち」と言われています。これは神学的には「霊的無能力性」と呼ばれます。霊的に死んでいるのですが、自分の力では、それに対して何もすることができないのです。
 さらに同じ6節では、「不敬虔な者」であったと言われています。これは神さまへの畏れを欠いていて、神さまと神さまの聖なる属性やみこころをさげすんでいる状態にあることを示しています。
 8節では、私たちは「罪人であった」と言われています。そして、この「罪人であった」私たちのためにイエス・キリストが死んでくださったと言われています。これは、自らの罪のために霊的に死んでいた私たちは、それに対して何もできなかったのに、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために死んでくださったという意味合いを伝えています。
 ちなみに、8節の原文ギリシャ語では、

神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

が最初に出てきて強調されています。そして、この「明らかにしておられます」は、この新改訳の訳文からも分かりますが、常にそうなさっておられることを表す現在形で表されています。イエス・キリストが罪人であった「私たちのために死んでくださったこと」をとおして、父なる神さまは今も変わることなく「私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。イエス・キリストが罪人であった「私たちのために死んでくださったこと」をとおして表された父なる神さまの愛は、その時だけの愛ではなく、今も変わることなく私たちに注がれているということです。
 さらに10節では、私たちは「敵であった」と言われています。この場合の「」という言葉(エクスス)は憎悪や敵意を持っていることを表す強い言葉です。
 このように、「敵であった」ということは、激しい敵意や憎しみをもっている状態を示しています。この「敵であった」状態は、神さまが私たちに対して敵意を抱いておられることを指すのか、私たちが神さまに対して敵意を抱いていることを指すのか論じられています。結論的に言いますと、これは双方がそのような関係にあったことを指していると考えられます。そのことはローマ人への手紙では1章と2章において、人の罪による造り主である神さまへの反抗と、それに対する神さまの聖なる御怒りという形で具体的に示されています。
 また、神さまが私たちに対して敵意を抱いておられたことは、この5章では前の9節において「神の怒り」について触れられていることからも分かります。神さまは私たちの罪をどうでもいいこととしておられるのではなく、それに対してはご自身の聖なる御怒りを示しておられます。9節では、

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

というように、イエス・キリストが私たちに代わって私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを受けてくださったので、私たちは「神の怒り」から救われると言われています。私たちの罪に対する「神の怒り」は確かに注がれたのです。それを御子イエス・キリストが私たちに変わって受けてくださったので、私たちは「神の怒り」から救われています。
 その一方で、私たちが神さまに対して敵意を抱いていたことは、少し後になりますが、8章7節において、

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

と言われていることからも分かります。ここで「神に対して反抗するもの」と訳されている部分は、直訳では「神への敵意」あるいは「神への憎悪」です。この場合の「反抗するもの」(「敵意」、「憎悪」)と訳されている言葉(クスラ)は、5章10節の「」という言葉(エクスス)の同族語です。
 私たちはただ単に神さまに対して無関心であったというのではなく、神さまに対して憎しみや敵意を抱いていたというのです。そんな覚えはないと言われるかもしれません。しかし、それも私たち自身の罪による錯覚です。神さまは私たちの造り主です。そして、愛とあわれみの御手をもって、私たちが生まれ出たときから必要なあらゆるものを備えて、私たちを支えてくださっていました。しかし、私たちはそれを決して認めようとはしませんでした。そればかりか、私たちをお造りになった神さまのみこころに背く道を選び取っていました。それは、単なる無関心ではありません。神さまに背く道を選び取ることであり、それゆえに、神さまに敵対する道を歩むことでした。霊的な戦いにおいては、神さまに敵対している暗やみの力に与して歩むことでした。そして、それが私たちの罪の本質でした。
 私たちは御霊のお働きによってこのことに気づかせていただいたので、この罪を悔い改めたのです。
 このように、5章10節では、罪のために霊的に死んでいるのに、自分からは何もすることができなかったということ以上のことが明らかにされています。しかし、それはそのような状態にあった私たちが「御子の死によって神と和解させられた」という事実を示すためです。そして、それはすでになされた神さまの恵みを示すだけでなく、むしろ、

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

と言われていますように、私たちの救いの確かさを示してくださるためのことです。
 私たちは御霊のお働きによって、ただ私たちの罪に気がついて、それを悔い改めただけではありません。8節で、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と言われている神さまの私たちに対する愛を信じて、その愛のうちに生きる者とされています。そのことは、また、11節において、

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と言われています。
 かつて、造り主である神さまを神として認めることなく、礼拝することもなく、神さまに背を向けて歩んでいた私たちが、造り主である神さまを神として礼拝し、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者となったという決定的な転換にかかわる御言葉をさらに見てみましょう。
 すでに何度も取り上げた個所ですが、ヨハネの福音書3章1節〜15節には、イエス・キリストとユダヤ人の指導者であるニコデモとの対話が記されています。3節には、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

というイエス・キリストの教えが記されています。そして、5節には、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

という教えが記されています。
 ここでイエス・キリストは、人は誰でも御霊のお働きによって新しく生れなければ神の国に入ることはできないと教えておられます。これには例外がありません。私たちは御霊のお働きによって新しく生まれて、神の国に入れていただいているのです。
 これは、少し前に引用しましたエペソ人への手紙2章4節〜6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていたことに当たります。私たちが新しく生まれたのは御霊のお働きによってイエス・キリストと一つに結ばれているからです。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れているのです。
 今お話ししている悔い改めということとのかかわりで言いますと、私たちは御霊のお働きによってイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れているので、福音の御言葉を理解し悟ることができるようになりました。その結果、福音の御言葉のあかしにしたがって、自らの罪を認めることができるようになり、その罪を悔い改めて、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを救い主として信じることができるようになったのです。
 今日は、もう一箇所見ておきたいと思います。ガラテヤ人への手紙2章19節、20節には、

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

というパウロの告白が記されています。
 19節前半で、パウロは、

私は・・・律法によって律法に死にました。

と述べています。それは、19節後半で、

私はキリストとともに十字架につけられました。

と言われていることによっています。もちろん、これはパウロだけに当てはまることではなく、神の子どもたちすべてに当てはまることです。この、

私はキリストとともに十字架につけられました。

という言葉では「私は」が強調されています。それはこのことがパウロだけの特殊な経験であることを示すものではなく、パウロの個人的な確信の強さを示すとともに、すべての神の子どもたちを代表する意味での「」であると考えられます。パウロは、ローマ人への手紙6章などで、神の子どもたちはすべて、御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに十字架につけられて死んでいることを明らかにしています。
 それでは、ここで言われている「律法によって律法に死にました」ということはどのようなことでしょうか。
 神さまの律法は神さまのみこころを示しています。それで、自らのうちに罪の性質を宿し、実際に罪を犯している私たちは、神さまの律法によって罪に定められ、神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて滅びるべきであるとされます。それが律法の要求するところです。この律法の要求は、イエス・キリストが私たちの罪に対する刑罰を私たちに代わって受けてくださったことによって満たされました。そして、私たちはイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに死んだことによって、その律法の要求から解放されています。私たちは二度と再び罪に対する刑罰を宣告されることはないのです。
 このように、父なる神さまは御子イエス・キリストを通して私たちを律法の要求から解放してくださいました。そのことが私たちにおいて具体的に現れるのは、私たちが自らの罪を悔い改めることにおいてです。
 律法の要求から解放されている私たちは、自らの力によって律法を守ることによって神さまの御前に義を立て、義と認められようとする道を取りません。私たちはその道を棄てています。実は、ガラテヤ人への手紙は、偽教師たちの教えにしたがって、再びその道に戻ろうとしているガラテヤの諸教会の信徒たちに向けて記されたものです。
 ここには述べられていませんが、ガラテヤ人への手紙全体が示していますように、私たちは、イエス・キリストが立ててくださった義を信仰によって受け取っています。先ほどいいましたように、イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪に対する刑罰を受けてくださったことによって、私たちの罪はさばかれなければならないという律法の要求を満たしてくださいました。そればかりでなく、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって、人は造り主である神さまのみこころに従うべきであるという律法の要求をもすべて満たしてくださいました。これは、父なる神さまが、イエス・キリストを通して、私たちのために立ててくださった義であり、それゆえに、完全な義であり、永遠の義です。私たちはこの義を信仰によって受け取っています。このイエス・キリストの義によって義と認められている私たちは、永遠に義とされています。
 ですから、私たちはいまだ義と認められていないかのように、律法の行いによって義を立てようとはしません。また、そのようなことをしてはいけないのです。それは、イエス・キリストが立ててくださった義にまだ不足があるとしてしまうことであるからです。今お話ししていることとかかわらせて言いますと、御霊のお導きによって自らの罪を悔い改めて、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じて生きている者は、もはや、律法の行いによって自分の義を立てようとはしないということです。逆に言いますと、自分の義を立てるために律法の行いをしないということです。私たちが神さまのみこころを求め、それに従って生きるのは、それによって自分の義を立てるためではありません。すでにイエス・キリストの義を信仰によって受け取って義と認められている者として、神さまを愛し、神さまのみこころを求めて生きるのです。
 私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに十字架につけられて律法に死んでいるだけではありません。イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、イエス・キリストの復活のいのちによって生きる者となっています。それで、

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と告白することができるのです。これも、御霊によって私たちの現実となっています。
 私たちがイエス・キリストとともに十字架につけられて死んでいることとイエス・キリストとともによみがえっていることが、私たちの罪に対する悔い改めとして現れてくるとしますと、それは必ず、イエス・キリストを信じる信仰へと至ります。悔い改めと信仰は一つのことの裏表の関係にあるからです。それをパウロは20節後半で、

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

と述べています。そして、これが、

 御国が来ますように。

という祈りによって私たちが祈り求めている神の国の民の生き方です。

 


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