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説教日:2007年7月1日 |
同じことを記しているのですが、マタイの福音書では、 悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。 と言われています。これに対して、マルコの福音書では、 時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。 と言われています。マルコの福音書では「時が満ちた」ことが宣言されています。これは、時間が過ぎていってそのような状況になってきたということではありません。神さまがご自身のみこころに従って「時」を定めてくださり、「時」を満たしてくださったということです。これは、契約の神である主が古い契約の下で、特に、地上的なひな型としてお選びになったイスラエルの民のために贖いの御業を遂行してこられたことを踏まえています。その古い契約の下での贖いの御業の歴史を通して、神さまは贖い主を遣わしてくださるという約束をしてくださいました。そして、いよいよこの時、約束のメシヤがご自身の民の贖い主としてのお働きを始められました。それで「時が満ちた」のです。 このように、「時」を定めておられるのは神さまであり、「時」を満たされるのも神さまです。このことは、世の終りに栄光のキリストが再臨されることについても当てはまります。栄光のキリストの再臨の日に関するイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書24章36節には、 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 と記されています。 先ほどのイエス・キリストの言葉のことに戻ります。マタイの福音書においては、 悔い改めなさい。 というイエス・キリストの言葉が記されているだけですが、マルコの福音書では、 悔い改めて福音を信じなさい。(直訳・「悔い改めなさい。そして、福音を信じなさい。」) と記されています。マルコの福音書では、 悔い改めなさい。 という命令に、 福音を信じなさい。 という命令が続いています。逆に見ますと、マタイの福音書では、 福音を信じなさい。 という命令が省略されているわけです。これは、マタイの福音書においては、悔い改めるべきことが強調されているということを意味しています。 そうではありますが、聖書の中では、悔い改めることと福音を信じることは切り離すことができません。それは、一つのことの裏表とも言うべきことです。このことを示している個所をいくつか見てみましょう。 イエス・キリストが十二弟子たちを宣教にお遣わしになったときのことを記しているマルコの福音書6章12節、13節には、 こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。 と記されています。この場合の「悔い改めを説き広め」と訳されている部分は、「(人々が)悔い改めるべきと宣べ伝え」というような言い方です。いずれにしましても、これは福音を宣べ伝えたことを意味していますが、それが悔い改めるべきことを宣べ伝えたという言い方で表されています。これは悔い改めることと福音を信じることが同じことを指していることを意味しています。 また、ルカの福音書5章31節、32節には、 医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。この場合の「正しい人」というのは、自らを正しいとしているパリサイ人のことを指しています。もちろん、すべての人は罪を犯して堕落していますから、そのままで神さまの御前に正しいとされる人はいません。パリサイ人は自らを正しいとしているだけですが、ここでは、パリサイ人が神さまの御前に正しいかどうかということは問題として取り上げられてはいません。ここで示されているのは、イエス・キリストは「罪人を招いて、悔い改めさせるために」(直訳・「罪人たちを悔い改めへと招くために」)来られたということです。そして、イエス・キリストの招きに対して、罪ある者がなすべき応答は罪を悔い改めることであるということが示されています。同時に、ここでは、人が自らの罪を悔い改めることができるのは、イエス・キリストが悔い改めへと招いてくださるからであること、そして、そのイエス・キリストの招きが力ある招きであり、その招きに応える力も与えてくださるものであるからであることが示されています。 マタイの福音書4章17節に記されている、 悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。 というイエス・キリストの宣教の言葉も、神の国に入るようにという招きの言葉です。そして、人は自らの罪を悔い改めることによって、イエス・キリストの招きに応えて神の国に入るようになることが示されています。このことがイエス・キリストの福音です。 また、ルカの福音書15章4節~10節には、 あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 ここでは、「ひとりの罪人が悔い改めること」に対する天における喜びのことが示されています。この場合、「ひとりの罪人が悔い改めること」は、いなくなった羊が見つけられることと、なくした銀貨が見つけられることにたとえられています。ここでは、羊を見失った人や銀貨をなくした人が、なくしたものを探して見つけ出すことに中心があります。主の御前から失われてしまった罪人を捜し出してくださる主のお働きがあるからこそ、「ひとりの罪人」は「悔い改めること」ができるのです。 そして、人が主の御許に立ち返って主のものとして回復されることも、父なる神さまの永遠からのみこころによっています。ヨハネの福音書6章37節には、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 というイエス・キリストの教えが記されています。また、同じ章の44節にも、 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 と記されています。 さらに、ご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死なれたイエス・キリストが、栄光を受けてよみがえられた後のことを記しているルカの福音書24章44節~48節には、 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。・・・」 と記されています。 ここでイエス・キリストは、旧約聖書全体にわたってご自身について記されていることを弟子たちに教えてくださり、悟らせてくださっています。そして、ご自身が苦難を味わい、栄光をお受けになった後、その御名によって、 罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 とあかしされました。この場合も、「罪の赦しを得させる悔い改め」が人々に宣べ伝えられると言われていますが、これは福音が宣べ伝え裸れることを意味しています。 このように、聖書の中では悔い改めと福音、罪を悔い改めることと福音を信じることは、同じことの裏表と言えるくらい、切り放ちがたく結びついています。ですから、マタイの福音書4章17節に、 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 と記されているときの、 悔い改めなさい。 というイエス・キリストの命令は、暗黙のうちに、福音を信じなさいということへとつながっています。マルコの福音書1章14節、15節において、 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」 と言われているときの、 悔い改めて福音を信じなさい。 というイエス・キリストの戒めは、それを明確に記したものであるわけです。 いずれにしましても、人が神の国に入るためには自らの罪を認めて、それを悔い改めなければなりません。マタイの福音書4章17節では、この悔い改めるべきことが強調されています。罪を悔い改めることは、私たちがなすべきことです。 悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。 というイエス・キリストの命令にしたがって、私たちが自らの罪を認め、それを悔い改めることです。実際に、私たちは私たち自身の罪を認め、その罪を悔い改めて、イエス・キリストの御許に立ち返りました。それは私たちがなしたことです。 同時に、聖書の中では、私たちが悔い改めることができたのは、父なる神さまが永遠からのみこころによって私たちをイエス・キリストの民としてくださったことによっていると教えられています。そして、この父なる神さまのみこころに従って、イエス・キリストが罪人である私たちを招いてくださったからであることが示されています。それは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前から失われてしまっていた私たちを、イエス・キリストが捜し出してくださり、御前に回復してくださったということでもあります。 これらのことを踏まえてお話ししたいのですが、近年、福音派のクリスチャンの間では、罪を悔い改めるべきことが無視されてしまう傾向があります。罪を悔い改めることを飛び越えて福音が語られる結果、心理的な慰めや励ましが神さまの福音として語られる傾向があるのです。福音を信じることが、罪を自覚して悔い改めることから切り離されてしまっています。すでにお話ししたことから分かりますように、これは聖書の御言葉が教えるところではありません。 このような問題は罪を心理的な問題であるとしてしまうことから来ていると思われます。人に起こりくるさまざまな問題はその人の感じ方の問題であるとされてしまい、その奥にある罪のことは語られないままになってしまいがちです。そうしますと、人間に罪があることや、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、罪を贖ってくださったということが語られても、何となく象徴的なもの、神話的なものとして受け止められてしまうことになります。罪には心理的な面がありますが、それが罪のすべてではありません。罪は神さまに背くことで、神さまとの関係を破ってしまうことです。それは単なる人間の心理の問題ではありません。これまで見てきましたことから分かりますが、私たちは罪を悔い改めることを離れて、真の意味でイエス・キリストが与えてくださっている福音を信じることはできません。罪を悔い改めることなしに、福音を信じたといっても、それでその人が神の国に入っているとは限りません。 このような問題があることに注意する必要がありますが、同時に、罪を悔い改めることについての誤解があることにも注意しなければなりません。罪を悔い改めるということは、自分がなしたことを後悔することと同じではありません。また、自分がなしたことを自分で責めるということでもありません。そのようなことは起ることでしょうが、罪の悔い改めの本質ではありません。悔い改めの本質は神さまとの関係のあり方の転換にあります。 罪の本質は神さまのみこころに背くことですが、その神さまのみこころは、神のかたちに造られている人間がご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにあります。神さまのみこころは神さまの律法によって示されています。そして、神さまの律法は突き詰めていきますと、全身全霊を傾けて契約の神である主を愛することと、契約共同体の隣人を愛することに要約されます。つまり、神さまの律法は、私たちの契約の神である主との関係のあり方と契約共同体の隣人との関係のあり方を示しているのです。そのように、契約の神である主と契約共同体の隣人を愛することができるためには、まず、契約の神である主と契約共同体の隣人との交わりの関係が成り立っていなければなりません。親子関係があるから、親は子を愛することができますし、子は親を愛することができます。私たちの罪は、この契約の神である主と契約共同体の隣人との交わりの関係を損なってしまっているものです。これが罪の最も奥深い問題です。 このことを踏まえて見ますと、罪とは、契約の神である主と契約共同体の隣人との愛の交わりを損なってしまっていることにあるということが分かります。契約の神である主と契約共同体の隣人を愛していないことが罪の本質です。ですから、罪を悔い改めるということは、まず、この事実、すなわち、罪の自己中心性のために、契約の神である主、造り主である神さまを神として愛し、あがめることがなかったことを認めることから始まります。 しかし、これは悔い改めの消極的な面でしかありません。悔い改めの積極的な面は、福音の御言葉を通して語られているイエス・キリストの招きの御言葉に応えて、イエス・キリストを主として告白し、その贖いにあずかり、イエス・キリストに従うようになることです。そのようにして、契約の神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることです。そして、ともに主とのいのちの交わりのうちにある隣人を愛するようになることです。 すでにお話ししましたように、これらすべてのことは、私たちが自覚的になすことですが、イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従って、御霊によって私たちに力を与えてくださって、なしてくださることです。実際に、イエス・キリストは神の国の王として、このことを私たちになしてくださいました。そして、イエス・キリストが私たちを、契約の主であられるご自身と父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださるということが、福音に他なりません。 私たちは、主の祈りの第2の祈りにおいて、 御国が来ますように。 と祈ります。それは、父なる神さまがイエス・キリストにあって、ご自身の民として定めておられる人々を悔い改めへと導いてくださること、そして、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださること、また、そのように集められた主の民との交わりのうちに生きる者としてくださることを祈り求めることでもあります。 |
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