(第107回)


説教日:2007年6月24日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 先主日には講壇交換がありましたので、主の祈りのお話はお休みしました。今日も、主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りは、神さまがご自身の御国を来たらせてくださることを祈り求めるものです。そして、神の国は、父なる神さまが贖い主として遣わしてくださったイエス・キリストが御霊によって治めてくださっている御国のことです。前回は、まさにこのことにかかわることをお話ししました。永遠の神の御子であられるイエス・キリストが私たちご自身の民の贖い主となってくださるために、人となって来てくださり、贖い主としてお働きを始められたときから、神の国は来ており、イエス・キリストのお働きとともにあるということです。


 そのことを示すものとして前回も引用しましたマタイの福音書12章28節には、

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。このイエス・キリストの教えは、ある出来事をめぐるイエス・キリストとパリサイ人のやり取りの中で語られています。まず、それを見てみましょう。
 ことの発端を記している22節には、

そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。

と記されています。これを見た人々の反応が23節に、

群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」

と記されています。言うまでもなく、「ダビデの子」はメシヤのことを意味しています。人々はイエス・キリストが約束のメシヤではないかと思ったのです。注目すべきことは、ここで、

 群衆はみな驚いて言った。

と言われていることです。これは「群衆」の複数形に「みな」という言葉が重ねられて強調されています。この言い方はマタイの福音書ではここで用いられているだけです。そこにいた多くの人々が例外なくということで、

 この人は、ダビデの子なのだろうか。

という思いが一部の人々のものではなかったし、いろいろある反応の中の一つでもなかった、ということを示しています。イエス・キリストの御業が人々に与えた衝撃、インパクトの強さを物語っています。
 これに続いて24節には、

これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」

と記されています。このことから、パリサイ人たちの抱いていた危機感がうかがえます。
 一つには、パリサイ人たちは、群衆がこぞってイエス・キリストはダビデの子として来られるメシヤではないかと思い始めていることを目の当たりにしたということがあります。パリサイ人たちからしますと、イエス・キリストは自分たちが思い描いているメシヤとはまったく違いますから、メシヤではありえません。ところが、群衆はイエス・キリストはダビデの子として来られるメシヤではないかと思い始めているという現実があります。これは何とかしなければならないと考えたわけです。
 もう一つのことは、イエス・キリストがなさった御業を、

この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。

というように説明しているということです。パリサイ人たちもイエス・キリストがなさった御業が驚くべきものであることは認めているのです。群衆がこぞって驚いたことも決して意外なことではなかったのです。
 22節には、イエス・キリストがどのようにして悪霊を追い出されたかについては記されてはいません。しかし、他の個所から分かることは、イエス・キリストはいわゆるエクソシズムを行ってはおられなかった、悪霊たちを追い出すための呪文を唱えたり儀式をしたりしてはおられなかったということです。イエス・キリストは悪霊たちに出ていくように命令されただけです。そうすると、悪霊たちは、抵抗を試みはしますが、その命令に従わざるをえなくなって出ていきました。パリサイ人たちの、

この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。

という説明は、イエス・キリストが悪霊たちに対して権威を持っておられることを認めたうえでの説明です。
 また、この、

この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。

という説明では「悪霊どもを追い出している」の「悪霊ども」は複数形であり、「追い出している」は現在形であって、いつもなされていることを表しています。ですから、この説明は、このときなされた御業のことだけを意識しているわけではありません。この時たままた、ある悪霊がイエス・キリストの命令によって出ていったということではないのです。この説明は、イエス・キリストが継続して悪霊たちに命令を下し、悪霊たちがそれに従って、人々から出ていっているという現実があることを踏まえています。このことは、また、パリサイ人たちはこの説明をこの時にとっさに考えついたのではないということを思わせます。すでにイエス・キリストの御業に触れていて、それをどのように説明するか考えた結果出された結論であると考えられます。
 これらのことは、続く25節〜27節に記されているイエス・キリストのお答えを理解するうえで大切なことです。そこには、

イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。

と記されています。
 イエス・キリストは、

どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。

というように、地上のどのような国にも当てはまることを指摘しておられます。そして、このことをサタンの国に対しても適用して、

もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。

と言われました。イエス・キリストは、パリサイ人たちの言う、

悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出している

ということは「サタンがサタンを追い出」すということに等しいとしておられます。
 このことを理解するためには、先ほどお話ししましたイエス・キリストのお働きを思い起こす必要があります。どのような国にも争い事やもめ事の一つや二つはありえます。対立する国の間の駆け引きとしてのいざこざもありえます。しかし、パリサイ人たちでさえ認めざるをえなかったイエス・キリストの権威あるお働き、しかも、継続的になされたお働きは、サタンの国にとって、そのような争い事の一つ、もめ事の一つではありませんでした。もしイエス・キリストのお働きが「悪霊どものかしらベルゼブル」によるものであれば、まさに、「サタンがサタンを追い出」すものだと言うべきほどのことであったのです。サタンの国の大分裂が始まっているというべきことであったのです。
 また、同じ12章43節〜45節には、

汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、「出て来た自分の家に帰ろう。」と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。このイエス・キリストの教えは、御霊によるイエス・キリストの御業を「悪霊どものかしらベルゼブル」によるものとしてしまうような時代、イエス・キリストが言われる「邪悪なこの時代」の危険を指摘するものです。
 ここでは「汚れた霊」が自由に人から出たり、また入ったりするということが述べられています。それは44節で「家はあいていて」と言われている状態にある人のことです。イエス・キリストを贖い主として信じて受け入れた人は「家はあいていて」と言われている状態にはありません。私たちのうちには神さまの御霊が宿っていてくださいます。また、御霊によって栄光のキリストが宿っていてくださいます。少し前に取り上げましたが、ローマ人への手紙8章9節〜11節に、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と記されているとおりです。
 また、ヨハネの手紙第1・5章18節、19節には、

神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。

と記されています。最初に出てくる「神によって生まれた者」は神の子どものことです。その後に出てくる「神から生まれた方」はイエス・キリストのことです。ここでは、イエス・キリストが守ってくださっているので、「悪い者」は神の子どもたちに「触れることができない」、神の子どもたちに何の害も加えることができないと言われています。
 また、ここでは、

全世界は悪い者の支配下にある

と言われています。これは直訳では、

 全世界は悪い者のうちに横たわっている

となります。この「横たわっている」という言葉(ケイマイ)は、「なすがままにされる」というような意味合いを伝えています。そのような「全世界」に属している者にあっては、「汚れた霊」が自由にその人から出たり入ったりすることがありえるわけです。
 先ほどのマタイの福音書12章44節には、「汚れた霊」が出て行った人のところに戻ってみると、

家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました

と記されていました。これは、「汚れた霊」にとってより住みやすい状態になっているということです。
 神の子どもたちに対しては「悪い者」が何の危害も加えることができないということを確認するために、話が横道にそれてしまいました。話を元に戻しますと、イエス・キリストがパリサイ人たちも認めざるをえない権威をもって悪霊たちを追い出しておられることは、マタイの福音書12章43節〜45節に記されているような、悪霊たちが人々から自由に出ていったり、また入ったりするということではありません。悪霊たちの巧妙な考えによって、お払いやおまじないに応える形で出ていくというようなことでもありません。悪霊たちが人々から自由に出ていったり、また入ったりすることができる状態にあるのであれば、サタンの国は揺るぐことはありません。しかし、イエス・キリストのお働きによってサタンの国は大打撃を受けているのです。
 ですから、

どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。

というイエス・キリストの教えは、イエス・キリストのお働きがどのようなものであるかを踏まえてみますと、きわめて明快なものであることが分かります。イエス・キリストのお働きを目の当たりにしている人が、このイエス・キリストの教えに素直に耳を傾ければ、

この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。

という説明が無理なものであることが分かるはずです。そして、イエス・キリストのお働きは神の御霊によるものであると結論づけるほかはなくなります。それにもかかわらず、なおも、イエス・キリストのお働きは「悪霊どものかしらベルゼブル」によるものであると言い張るなら、その人は同じ12章44節で、

家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました

と言われている状態になっています。悪霊たちがもっと働きやすい状態になってしまいます。
 このようなことを受けて、12章28節には、

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このイエス・キリストの教えにはいくつかの強調があります。
 第1に強調されているのは、「・・・なら」という条件節を導入する言葉(エイ)と接続詞(デ)のすぐ後に出てくる「神の御霊によって」という言葉です。これは、今お話ししました、その前の部分に記されていることを踏まえて見ますと、自然な強調であることが分かります。パリサイ人たちがイエス・キリストは「ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と言い張ることと明確に対比されています。新改訳の「悪霊どものかしらベルゼブルの力で」は意訳で、文字通りには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって」で、「神の御霊によって」と対比される形になっています。
 続いて強調されているのは、

わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら

と言われているときの「わたしが」です。ギリシャ語の動詞は人称と数によって形が変わりますので、動詞が一人称単数形であれば「わたしは・・・する」ということになります。それで、普通は主語を表す代名詞は用いられません。主語を表す代名詞が用いられるのは強調のためです。そして、ここではその代名詞(エゴー)が用いられているのです。
 もう一つの強調は、

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

というイエス・キリストの教えの最後に置かれている「神の国」です。前にお話ししたことがありますが、マタイの福音書においては「神の国」という言い方を避けて、「天の御国」という言い方が採用されています。ユダヤ人を対象に記されているために、「神」という言葉を「天」と置き換えているのです。ここに出てくる「神の国」という言い方はいくつかの例外の一つです。マタイがここで「天の御国」ではなく「神の国」を用いているのは、しかも、これを最後において強調しているのは、最初に強調されている「神の御霊」と対応させるためであると考えられます。「神の御霊」と「神の国」はどちらも神さまのものであるということが示されることになります。そして、これが暗黙のうちに「悪霊たち」、「サタンの国」と対比されることになります。
 さらに、初めにある「神の御霊」と最後にある「神の国」の間に主人公であられる方が「わたしが」とご自身を強調しておられます。ここでは、イエス・キリストが「神の御霊」によって御業をなしておられることと、「神の御霊」によって御業をなしておられるイエス・キリストに目が向けられるように導かれます。イエス・キリストこそは「神の御霊」によって御業をなさり、「神の御霊」によってお働きになるメシヤであられます。そして、そのイエス・キリストが「神の御霊」によって御業をなさっておられるところに「神の国」があるというのです。ですから、「神の国」はイエス・キリストが「神の御霊」によって治めてくださっている御国です。
 イエス・キリストが「神の御霊」によって悪霊たちを追い出されたことは、創世記3章15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である主の「」へのさばきの言葉を背景としています。すでにいろいろな機会にお話ししたことですので詳しい説明は省きますが、これは「」の背後にあって働いたサタンに対するさばきの言葉です。そして、これが「最初の福音」と呼ばれます。最初の福音はサタンへのさばきとして語られました。具体的には、それは「女の子孫」たちがサタンとその子孫に対立して立つようになること、そのゆえに、神である主の側につくようになることにあります。そして、最終的には「女の子孫」のかしらであられる方がサタンの頭を踏み砕かれることにあります。
 イエス・キリストはこの「女の子孫」のかしらとして来てくださいました。そのことが、

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

というイエス・キリストの教えが示している現実となりました。しかし、これはサタンの主権が崩れつつあることの現れの一つです。大切なことは、サタンの主権、すなわち、サタンの国が致命的な打撃を受けているということです。
 イエス・キリストが「女の子孫」のかしらとしてサタンの頭を踏み砕かれることは、最終的には、終りの日に起ります。しかし、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって私たちの罪の贖い成し遂げてくださったことによって、すでにサタンの主権は致命的な打撃を受けています。そのことの最も大切な現れは、ある人々の中から悪霊が出ていくことではありません。イエス・キリストの民、すなわち神の国の民のうちには「神の御霊」が宿っていてくださるので、悪霊が入ることはありません。その意味では、悪霊が出ていくということもないのです。サタンの主権が致命的な打撃を受けていることの最も大切な現れは、神の国の民がすべて例外なくサタンの主権の下から贖い出されているということです。コロサイ人への手紙1章13節、14節には、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されています。また、ヘブル人への手紙2章14節、15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。
 「神の御霊」によって働いてくださる栄光のキリストはこのことを私たちの現実としてくださっています。これによって「神の国」が私たちの間に実現しています。

 


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