(第106回)


説教日:2007年6月10日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りについてのお話を続けます。この祈りは、神さまがご自身の御国を来たらせてくださることを祈り求めるものです。そして、神の国は、父なる神さまが贖い主として遣わしてくださったイエス・キリストが御霊によって治めてくださっている御国のことです。
 イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従い、私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださいました。また、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通され、そのことへの報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。そして、天に上り父なる神さまの右の座に着座されました。さらに、イエス・キリストは父なる神さまの右の座から御霊を注いでくださいました。これらすべてのことは、今から2千年前にイエス・キリストが、父なる神さまのみこころに従って成し遂げてくださったことです。そして、その時以来、イエス・キリストはこの御霊によってご自身の契約の民をを治めてくださっています。
 復習になりますが、神の国というときの「国」という言葉(ヘブル語・マルクート、ギリシャ語・バシレイア)は、王が治めることやその主権を表しています。ですから、イエス・キリストが父なる神さまから遣わされたメシヤとしてのお働きを始められた時に、神の国は始まっています。イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを始められたときのことを記しているマタイの福音書4章17節には、

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

と記されています。少し前に結論的なことをお話ししたと思いますが、この、

 天の御国が近づいたから。

というときの「近づいた」という言葉をめぐって意見が交わされてきました。これは、すでに、イエス・キリストの宣教の開始とともに神の国が来ていることを意味するという見方と、そうではなく、これは文字通り近づいていることを示しているという見方があります。また、そのどちらも当てはまるという見方もあります。
 ここで用いられている言葉(エンギゾーの完了形)は基本的に「近づく」ということを表していますが、時には「来ている」ことを表すこともあります。それで、言葉の上からは決定的なことは言えません。

悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。

というイエス・キリストの言葉は3章2節に記されている、バプテスマのヨハネの宣教の言葉とまったく同じです。そして、バプテスマのヨハネの言葉は、神の国が近づいていることを表しています。それで、イエス・キリストの言葉も神の国が近づいていることを表していると論じることができます。
 ところが、12章28節には、

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。これは、御霊に満たされたメシヤとしてのイエス・キリストのお働きとともに神の国が来ていることを示しています。それで、同じ言葉でも、バプテスマのヨハネの言葉とイエス・キリストの言葉の間には違う意味合いがあると論じることもできます。実際、バプテスマのヨハネはイエス・キリストが間もなく来られることとともに神の国が近づいていることを告げる立場にあり、イエス・キリストはその神の国を実現される方です。その意味では、イエス・キリストは、ご自身が御霊に満たされたメシヤとしてのお働きを開始されたことをもって神の国が来ていることを告げられたと考えられます。
 同時に、イエス・キリストは神の国の完成を将来のことと教えておられます。ご自身の宣教の開始とともにすでに始まっている神の国が完成するということです。いくつかのたとえによるイエス・キリストの教えはそのことを示していますが、ここでは、24章29節〜31節に記されている終りの日に関するイエス・キリストの教えを見てみましょう。そこには、

だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

と記されています。
 これらのことから、イエス・キリストが、

悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。

と宣べ伝えられたとき、基本的には、イエス・キリストが御霊によって油注がれたメシヤとしてのお働きを始められたことによって、神の国が来ていることを伝えておられると考えられます。けれども、そのイエス・キリストのお働きとともに来ている神の国は、なお、終りの日に完成するものであるということを視野に入れておくべきであるということになります。


 このこととの関連で、ルカの福音書17章20節、21節に記されていることを見てみましょう。そこには、

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

と記されています。
 ここではパリサイ人たちが、

 神の国はいつ来るのか

と問いかけたことに対してイエス・キリストがお答えになったことが記されています。
 イエス・キリストは、

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

と言われました。ここで「人の目で認められるようにして」と訳されている言葉(メタ・パラテーレーセオース)は文字通りには「観察とともに」です。ここでは「観察とともには来ない」となっているのですが、これをどのように考えるかということが問題となります。新改訳は、

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

というように、神の国の到来は人の目から隠されているということを伝えていると理解しています。バウアーのギリシャ語レキシコンもこのような理解を示しています。また、これが、言葉のいちばん自然な理解であると思われます。
 けれども、この理解には反論があります。それは、このイエス・キリストの教えに続いて記されている22節〜37節に、終りの日についてのイエス・キリストの教えが記されていて、そこには「人の子」の栄光に満ちた到来、栄光のキリストの来臨に関わるいくつかのしるしが記されている。それで、そのすぐ前の部分の「観察とともには来ない」という言葉は、神の国の到来は人の目から隠されているという意味ではないというものです。これは、名高い学者たちも取っている見方です。
 この反論には問題があります。22節〜37節に記されているイエス・キリストの教えをよく見てみますと、そこには栄光のキリストの来臨に関わるしるしのことは語られてはいません。22節〜37節には、

イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」[本節欠如]弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」

と記されています。
 人々の目に見えることとしては、24節に、

いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。

と記されており、30節に、

人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。

と記されています。これらは栄光のキリストの来臨が見える形であるということを示すものです。けれども、これは栄光のキリストの来臨そのもののことであって、それに関わるしるしではありません。
 そのようなしるしのことを述べているように見えるのは26節〜30節に記されています、

人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。

という教えでしょうか。けれども、これは、しるしのことを述べるものではありません。むしろ、人々は終りの日のことには気づかないということが述べられています。これはテサロニケ人への手紙第1・5章1節〜3節に、

兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

と記されていることに当たると思われます。
 ルカの福音書17章22節〜37節に栄光のキリストの来臨に関わるしるしのことが示されていると考える人々は、もしかすると、終りの日に関するイエス・キリストの教えを記しているもう一つの個所、21章5節〜28節に記されていることを読み込んでいるのかもしれません。長いので、ここでお読みすることはできませんが、21章5節〜28節に記されているイエス・キリストの教えでは、終りの日に関わるさまざまなしるしのことが示されています。そして、この21章5節〜28節に記されているイエス・キリストの教えと、先ほどお読みしました17章22節〜37節に記されているイエス・キリストの教えを比べてみますと、同じく終りの日についての教えであるのに、17章22節〜37節に記されている教えでは、しるしのことが避けられていることがよりはっきりと分かります。
 21章5節〜28節に記されているイエス・キリストの教えに終りの日に関わるさまざまなしるしのことが示されていることには理由があります。それは、その個所の導入部分に当たる5節〜7節に、

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」

と記されていますように、その教えは、イエス・キリストが語られたことに対する弟子たちの、

これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。

という質問にイエス・キリストが答えてくださったものです。ですから、弟子たちにはさまざまなしるしを示してくださったのであると考えられます。弟子たちとしては、神である主の戒めにしたがって建設されたエルサレム神殿が破壊されるような事態になるのは、世の終りの日のことにちがいないと思われたのでしょう。実際には、エルサレム神殿は紀元70年にローマ群によって破壊されました。イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられてから30数年後のことです。イエス・キリストは、そのことを当面の成就として預言されながら、それに重ね合わせる形で、世の終りのことを示してくださっています。
 しかし、同じ弟子たちに対して語られた終りの日に関する教えでも、17章22節〜37節に記されている教えには終りの日に関わるしるしのことが出てきません。それにも理由があると考えられます。
 その当時のユダヤ人たちの間では、メシヤの来臨には、さまざまなしるしとしての現象が伴うと考えられていました。それで、パリサイ人たちはそのようなしるしを見れば(観察すれば)メシヤの国が到来することが分かると考えていたようです。実際、ルカの福音書11章16節には、人々がイエス・キリストに「天からのしるし」を求めたことが記されています。イエス・キリストは、それが不信仰から出た要求であるということから、しるしをお与えになることはありませんでした。
 これに対しまして、イエス・キリストは、神の国はパリサイ人たちが期待しているようなしるしを伴って来るものではないと教ええられたのであると考えられます。それで、これに続く22節〜37節に記されている弟子たちへの教えでは、栄光のキリストの来臨に関わるしるしのことが語られていないのであると考えられます。
 これは、先ほど取り上げました21章5節〜28節に栄光のキリストの来臨に関わるしるしのことが記されていることと矛盾すると思われるかもしれません。同じ終りの日の神の国の完成に関する教えで、一方ではしるしを伴うことが示されており、もう一方では、しるしが避けられているのです。けれども、一つには、パリサイ人たちが考えているしるしと、イエス・キリストが教えておられるしるしには違いがあります。イエス・キリストはメシヤとメシヤに率いられた民がこの世の国々と戦ってそれを制圧することによって神の国を確立するというようなことを教えておられません。その当時のユダヤの人々にとっては、それこそがメシヤであることの条件でした。イエス・キリストは、むしろ、ご自身の民が、ご自身の御名のために苦しみを経験することを示しておられます。
 さらに、より大切なことですが、ここでイエス・キリストが教えておられるのは、神の国の本質にかかわることです。それは、17章22節〜37節に記されている弟子たちへの教えの中の25節に、

しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。

と記されていることに示されています。イエス・キリストは、「人の子」すなわちメシヤは栄光をもって来臨する前に、「多くの苦しみを受け」、その「時代に捨てられなければ」ならないと言われました。そのことを離れて、メシヤが栄光のうちに来臨することはないということです。そのようにして、ご自身が「多くの苦しみを受け」て、人々から棄てられることことこそが、終りの日に栄光のうちに来臨されるための条件であるというのです。ご自身の民の罪を贖うために苦しみを受け、いのちをお捨てになったことにこそ、メシヤとしてのイエス・キリストの栄光があり、イエス・キリストが治められる神の国の本質的な特性があります。それで、終りの日における栄光のキリストの来臨とそれによる神の国の完成においても、ご自身の民の罪を贖うために苦しみを受け、いのちをお捨てになったことに示されている栄光が充満な形で示されることになります。
 これはパリサイ人たちが考えているメシヤの到来の姿とまったく違っています。パリサイ人たちからすれば、メシヤはその時代に受け入れられ、人々はメシヤに従い、いのちを懸けて敵と戦って勝利するようになるはずです。ですから、パリサイ人たちは、メシヤが「多くの苦しみを受け」、人々から棄てられることが、終りの日に栄光のうちに来臨されるための条件であるということが受け入れられません。それで、この時、イエス・キリストが十字架の死に至る道を歩んでおられること、十字架の死において完成する贖いの御業を進めておられることを受け止めることができません。このことに対して目が開かれていないままに、メシヤの栄光の来臨に伴う神の国の到来のしるしを求めることには根本的な欠けがあります。イエス・キリストはそのことを問題にしておられると考えられます。
 これらのことを考えますと、この部分は、新改訳の、

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

という訳でよいと考えられます。
 イエス・キリストの教えは、

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある。」とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

というものでした。

「そら、ここにある。」とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。

という教えは、その前の、

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

という教えを別の面から述べたものであると考えられます。ここにしるしがあるとか、あそこにしるしがあるというような形で、神の国の到来が示されるのではないということです。どちらも、神の国はこのようなものではないということを示しています。このことを踏まえて、

いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

という積極的な面が示されています。
 この新改訳の訳は広く採用されている訳ですが、この「あなたがたのただ中にある」ということが、「あなた方のうちにある」という意味であるとしますと、これには大きな問題があることが指摘されています。
 その指摘をお話しする前に申し上げておきますが、かつてマルクス主義に心酔して物質的な世界観をもっていたころの見方からしますと、神の国が「あなた方のうちにある」ということは、神の国は単なる観念であるということになります。もちろん、それは無限、永遠、不変の栄光の霊であられる神さまを否定し、物質主義的な前提に立っているための理解の仕方です。神さまの支配としての神の国、具体的には、メシヤを通しての神さまの支配としての神の国は確かな現実であって、単なる観念ではありません。
 指摘されている問題のことですが、第1に、ここで、

神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

と言われているときの「あなたがた」はパリサイ人たちです。そうしますと、神の国がパリサイ人たちの中にあるという意味になってしまいます。イエス・キリストから厳しく糾弾されているパリサイ人が神の国の民であるというようなことは考えにくいというのです。
 しかし、ここではパリサイ人たちがどのような動機でイエス・キリストに質問したかが示されていません。他の個所では、パリサイ人たちがイエス・キリストを試そうとしたり、訴える口実を得るために、イエス・キリストに質問をしていることが示されています。しかし、ここにはそのようなことは示されていません。そのことが分からないまま、パリサイ人たちがすべて神の国から締め出されているというように考えることには問題があります。それで、これは決定的な問題ではないと思われます。
 第2に、聖書の中では、神の国が人のうちにあるという教えがないということです。主の民が神の国に入るのであって、その逆ではないということです。確かに、イエス・キリストが遣わしてくださった御霊が私たちのうちに住んでくださっています。イエス・キリストがその御霊によって治めてくださっています。けれども、その神の国は私たちそれぞれの外にある客観的なもので、そこに私たちが入れられています。これは決定的な問題であると思われます。それで、この「あなたがたのただ中にある」と訳されている部分は、「あなたがたの前にある」と訳したほうがいいと思われます。そこに「目」という言葉はありませんが、「あなたがたの目の前にある」という感じです。そうしますと、この部分は、

神の国は、あなたがたの前にあるのです。

となります。
 これはどのようなことを意味しているのでしょうか。先ほどお話ししましたように、イエス・キリストは御霊に満たされたメシヤとしてのお働きを開始しておられます。それは、やがて十字架の死によってご自身の民のために贖いを成し遂げてくださることに至るお働きです。そこに神の国があります。このことをイエス・キリストは示しておられると考えられます。
 20節では、パリサイ人たちは、

 神の国はいつ来るのか

と尋ねたと言われています。これは神の国がまだ来ていないという意味合いを伝えています。これに対して、イエス・キリストは、

 神の国はあなたがたの前にある。

とお答えになっておられます。これは、神の国がすでにパリサイ人たちの目の前にあるということを示すものです。
 ご自身の民を罪と死の力から贖い出してくださるために、貧しくなって来られ、ついには十字架の死に至るまでご自身をお与えになったイエス・キリストの御業こそが神の国の具体的な現れです。そこに神の国があります。そして、その贖いの御業にあずかっている私たちは、神の国に入れていただいているのです。そして、この神の国には完成の時があります。

 御国が来ますように。

という祈りは、神の国がすでに私たちの現実となっているということとともに、その完成の時をも視野に入れています。私たちはこのことをわきまえ、目を覚まして、

 御国が来ますように。

と祈り続けたいと思います。

 


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