(第105回)


説教日:2007年6月3日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りの中心主題である神の国は、父なる神さまが贖い主として遣わしてくださったイエス・キリストが治めてくださっている御国のことです。イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従い、私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださいました。十字架の上で、私たちの罪に対するさばきを私たちに代わって受けてくださったのです。また、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通され、そのことへの報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。
 栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストは天に上り父なる神さまの右の座に着座されました。古代オリエントの文化の発想では、父なる神さまの右の座に着座するということは、父なる神さまの御名によって、父なる神さまに代わって治めるということを意味していました。その、イエス・キリストは父なる神さまの右の座から御霊を注いでくださいました。イエス・キリストは私たちを御霊によって治めてくださっています。イエス・キリストが御霊によって治めてくださることの歴史的な出発点が、先主日に記念しました聖霊降臨節(ペンテコステ)の出来事です。


 ローマ人への手紙8章9節〜11節には、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と記されています。
 9節後半では、

キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

と言われています。前半に出てきます「神の御霊」がここでは「キリストの御霊」と呼ばれています。そして、「キリストの御霊」を持たない人は「キリストのもの」ではないと言われています。逆に言いますと、「キリストのもの」、主の民には、必ず「キリストの御霊」が宿っておられるということになります。そして、10節初めでは、

 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、

と言われています。ですから、「キリストの御霊」が宿ってくださることは「キリスト」が私たちのうちにおられるということを意味しています。さらに「キリスト」が私たちのうちにおられるということは、私たちが御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされているということを意味しています。御霊は私たちをイエス・キリストと結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れさせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちによって生きる者としてくださっています。
 10節では、

もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

と言われています。

からだは罪のゆえに死んでいても、

ということは、肉体的な死のことを述べています。私たちは罪のために肉体的な死を経験することになります。その肉体的な死へのプロセスは今すでに私たちのうちにあります。これに続く、

霊が、義のゆえに生きています。

という部分の「」と訳されている言葉[ト・プネウマ(アングロサクソン的な読み方ではト・プニューマ)]については意見が分かれています。この言葉は人の「」とも神の「御霊」とも訳せます。新改訳は、この前の部分で私たちの「からだ」のことが述べられているので、ここではそれとの対比で、私たちの「」のことが語られていると理解しています。
 しかし、ここでは人間の霊のことではなく、御霊のことが述べられていると考えるべき理由があります。それは、この部分を直訳しますと、

しかしプネウマ(プニューマ)は義のゆえにいのちです。

となります。ここに出てくる「いのち」という言葉(ゾーエー)は名詞ですが、これが形容詞的に「生きている」という意味で用いられる例が他にありません。それで、これは「いのち」と訳すほかはありません。また、御言葉には私たちの「」が「いのち」であるという教えもありません。それで、ここでは、

しかし御霊は義のゆえにいのちです。

ということが言われていると考えられます。これが近年の多くの学者たちが取っている理解の仕方です。
 その場合、「義のゆえに」ということが問題となります。これは、ここでは私たちのうちに宿ってくださる御霊のことが語られていますから、御霊が私たちのうちで「いのち」として働いてくださる根拠が「」、すなわち、私たちが信仰によって受け取っているイエス・キリストの「」であるということを示していると考えられます。そうしますと、10節では、イエス・キリストが私たちのうちにおられるなら、私たちのからだは罪のために死へのプロセスの中にあり、死を経験することになるけれども、イエス・キリストを信じる信仰による義のゆえに、御霊が「いのち」として働いてくださっているということが示されているということになります。そして、このことには完成の時があるということが11節に、

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と記されています。これは終りの日における主の民のからだのよみがえりのことを述べています。これによって、10節で、

からだは罪のゆえに死んでいる

と言われていたことへの最終的な解決も与えられることを示しています。
 このように、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストは、そこから御霊を遣わしてくださり、御霊によって私たちを治めてくださいます。それは、私たちを御霊によって生かしてくださるということでもあります。これまで繰り返しお話ししてきましたように、神の国の「国」という言葉は領土のことではなく、「支配」や「支配権」を表しています。それで「神の国」とは神さまの支配のことであり、具体的には、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストの支配のことです。その栄光のキリストの支配は、私たちのうちに宿らせてくださった御霊による支配です。その意味では、神の国は私たちのうちに、また私たちの間に実現しています。
 これがイエス・キリストが御霊によって支配してくださることの中心にあることです。このイエス・キリストの御霊による支配を、今の私たちに当てはめて言いますと、イエス・キリストは御霊のお働きを通して与えられるご自身の復活のいのちによって、私たちを生かしてくださるということになります。そのことは私たちの目に見えることではありません。しかし、これは御霊のお働きによる確かな現実です。その目に見えない現実を見える形で表示しているのが、今日の礼拝においても執行されます聖餐式です。
 ヨハネの福音書6章53節〜58節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

というイエス・キリストの教えが記されています。
 これは、イエス・キリストが十字架につけられる前の夜に新しい契約の礼典としての聖餐を制定された時の御言葉ではありません。それで、ここに記されているイエス・キリストの教えは主が制定された聖餐と直接的につながってはいません。けれども、このイエス・キリストの教えに示されていることは、イエス・キリストが制定された聖餐において示されていることと同じ福音の真理を示しています。
 ここでは、イエス・キリストの肉を食べ、イエス・キリストの血を飲むということが語られています。この場合の、イエス・キリストの肉とイエス・キリストの血は、やがてイエス・キリストがその地上の生涯の終わりに、十字架にかかって裂いてくださる肉であり、流してくださる血です。その意味で、ここでイエス・キリストが語っておられる教えは主が定めてくださった聖餐へとつながっています、
 それでは、そのイエス・キリストの肉を食べ、イエス・キリストの血を飲むということはどのようなことでしょうか。この、イエス・キリストの肉を食べ、イエス・キリストの血を飲むということは49節から始まるイエス・キリストの教えの中で語られています。それより前、すなわち、48節より前に記されている教えでは、たとえば、35節には、

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

と記されています。また、40節には、

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えが記されています。そして、47節、48節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この最後の、

 わたしはいのちのパンです。

という言葉とまったく同じ言葉が先ほど引用しました35節にも出てきます。このイエス・キリストの教えは、いろいろな機会にお話ししました、「エゴー・エイミ・・・」という強調形で表されていて、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることと、そのイエス・キリストが私たちにとってどのような意味をもったお方であるかを示しています。そして、48節の、

 わたしはいのちのパンです。

という言葉はそれまでのイエス・キリストの教えを集約するような意味をもっています。
 先に引用しました53節〜58節に記されていますイエス・キリストの教えは、それに先立つ部分、48節より前の部分に記されている教えと実質的に同じことを示しています。それで、イエス・キリストの肉を食べ、イエス・キリストの血を飲むということは、イエス・キリストのもとに行くこと、そして、イエス・キリストを信じることを意味していることが分かります。逆に言いますと、イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉を食べ、イエス・キリストが十字架の上で流された血を飲むことによって表されるほど、イエス・キリストを受け入れることであり、イエス・キリストと一つに結び合わされることなのです。
 先ほどの引用の中の56節、57節には、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

と記されています。これはイエス・キリストを信じる者とイエス・キリストご自身との一体性を示すものです。そして、イエス・キリストと一つに結び合わされているものは、イエス・キリストによって生きると言われています。そのように、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださっているのはイエス・キリストご自身です。イエス・キリストが御霊のお働きによって、私たちをご自身と一つに結び合わせてくださって、私たちをご自身の復活のいのちによって生かしてくださっているのです。
 イエス・キリストが制定してくださった聖餐は、福音の御言葉によって示されている、契約の主の祝福の中心にあることを見える形で示してくださったものです。その契約の主の祝福の中心は、今お話ししました、私たちが契約の主であられるイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストの復活のいのちによって生きるということです。そして、それはイエス・キリストが御霊によって私たちの現実としてくださることです。その意味で、聖餐式においては栄光のキリストが御霊によってご臨在してくださることが絶対に必要なこととなります。
 このように、御霊は私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださいます。また、そのように生きる私たちを導いてくださるのも御霊です。初めにお話ししましたように、御霊はイエス・キリストの御霊として、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになります。その御霊のお働きの根底にあるイエス・キリストの十字架の死は、終りの日に起るべきさばき、罪を最終的にまた完全に清算するさばきとしての意味をもっています。また、イエス・キリストのよみがえりは、人が造り主である神さまのみこころに完全に従っていたなら、そのことへの報いとして与えられたであろう栄光あるいのち、永遠のいのちへのよみがえりとしての意味をもっています。それで、イエス・キリストの十字架の死も死者の中からのよみがえりも、終りの日の出来事としての意味をもっています。
 そして、このイエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いと、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって現実のものとなった栄光あるいのちは、この世、この時代に属するものではありません。この世、この時代に属するものは、終りの日に再臨される栄光のキリストによってさばかれ、滅び去るものです。そのようにしてこの世、この時代に属するものが栄光の主のご臨在の御前から滅び去ってしまうと、何も残らないような気がしますが、そうではありません。イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いと、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、罪をまったく贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、その復活のいのちによって生きる主の民自身と、主の民が造る神の国の歴史は残ります。そして、終りの日に再臨される栄光のキリストが、それを完成させてくださいます。また、それは新しい天と新しい地の中心をなすものとしての意味をもっています。新しい天と新しい地の中心に、小羊の花嫁としての新しいエルサレムがあることはこのことを示しています。黙示録21章1節、2節には、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

と記されています。このように、今私たちがイエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いと、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいて働かれる御霊のお働きにあずかって、造り出す神の国の歴史は新しい天と新しい地の歴史につながっていきます。
 このこととのかかわりで、先々週引用しました、コリント人への手紙第1・3章10節〜15節に記されていることを見てみましょう。そこには、

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

と記されていました。
 ちなみにここで取り上げられている「建物」は、イエス・キリストを土台としていると言われています。そして、16節、17節では、

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

と言われています。ですから、これは「神の神殿」としての意味をもっているキリストの教会のことです。
 ここで言われている「金、銀、宝石」で建てるということはどのようなことでしょうか。この場合、「金、銀、宝石」について、「」は何か、「」は何か、「宝石」は何かと論じることに意味があるとは思われません。しかし、これらについて分かることがあります。それは、この「金、銀、宝石」が、

その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためす

と言われている「」によっても焼き尽くされることがないということです。
 それでは、この「」は何を指しているのでしょうか。もちろん、それは物理的な火のことではありません。結論的に言いますと、それは終りの日に再臨されるイエス・キリストのご臨在の栄光のことであると考えられます。ヘブル人への手紙12章29節には、

 私たちの神は焼き尽くす火です。

と記されています。イエス・キリストはこの神さまの栄光を帯びて再臨されます。

 もしだれかの建てた建物が焼ければ

と言われていますが、その「建物」は「神の神殿」としての意味をもっているキリストの教会のことです。たとえキリストの教会を建設したとしても、それがこの世、この時代に属するものであれば、それは終りの日のイエス・キリストのご臨在の栄光に耐えることができません。
 これらのことから、ここで言われている「金、銀、宝石」によって建てることがどのようなことであるかが見えてきます。それは、イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いと、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいて働かれる御霊に導かれて造り出すことを意味しています。言うまでもなく、御霊は私たちに御言葉を悟らせてくださって、私たちを導いてくださいます。キリストの教会は、御言葉に基づき、御言葉を悟らせてくださる御霊に導かれて建てられなければなりません。そのようにして建てられるものを、終りの日に再臨される栄光のキリストが完成してくださいます。今は人の目に隠された形で建て上げられているキリストのからだである教会が、その日にはキリストの栄光のご臨在の御前に立つようになるのです。
 新しい天と新しい地、来たるべき時代の本質的な特性は、それが栄光のキリストの御霊によるものであるということにあります。

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りにおいて、私たちは神の国の歴史の完成を祈り求めています。その神の国の歴史は、イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いと、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいて働かれる御霊によって造り出されるものです。それは、終りの日に再臨される栄光のキリストが完成してくださり、新しい天と新しい地の歴史へとつながっていきます。

 


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