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説教日:2007年5月27日 |
使徒の働き2章1節〜36節には、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に起こった出来事と、その意味を明らかにしているペテロの言葉が記されています。その出来事については1節〜4節に、 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。 と記されています。 ここで「五旬節の日になって」と言われているときの「五旬節」(ヘー・ペンテーコステー)が私たちの言う「ペンテコステ」です。これは「五旬節」という新改訳の訳語からも分かりますように「50日目」に当たることを意味しています。何から数えて50日目なのかということですが、レビ記23章15節、16節には、 あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五〇日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。 と記されています。この15節、16節には出てきませんが、これは春の祭りである過越の祭りとそれに続く種入れぬパンの祭りに関連する戒めです。15節で「安息日の翌日から」と言われているときの「安息日」を週ごとの「安息日」と取れば、「安息日の翌日」は過越の祭りの次の日曜日になります。この理解はその当時のサドカイ派の考え方で、パリサイ派はこれとは別の理解をしていました。サドカイ派の考え方では「安息日の翌日」は日曜日となりますので、それから数えて50日目も日曜日となります。このように、サドカイ派の考え方では、曜日が固定されます。これに対して、パリサイ派の考え方では、その「安息日」は種入れぬパンの祭りの日すなわちニサンの月の15日で、「安息日の翌日」は16日になるということになります。それで、パリサイ派の考え方では、月の何日ということが固定され、曜日はその年によって変わることになります。紀元70年にローマ軍によってエルサレム神殿が破壊されるまでは、このサドカイ派の理解に基づいて祭りが行なわれていたようです。使徒の働き二章に記されていることはエルサレム神殿の破壊の30数年前のことですから、それは日曜日のことであったと考えられます。その年の過越の祭りの次の日曜日はイエス・キリストの復活の日でした。そして、その日から数えて50日目が聖霊降臨節(ペンテコステ)で、それは日曜日となります。キリストの教会は、今日に至るまで、これに沿って聖霊降臨節(ペンテコステ)の日を記念してきました。 その日、弟子たちが「一つ所に集まっていた」と言われています。そして、 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 と言われています。この「天から、激しい風が吹いてくるような響き」がどのようなものであるかについては、ここに記されていること以上のことは分かりません。確かなことは、これは自然現象ではなく、聖霊のご臨在に伴う現象で、一種の神の栄光の顕現[セオファニー(Theophany)]であるということです。「ニューマトファニー(Pneumatophany)」とでも言ったらいいでしょうか。 ここに記されていることは、エゼキエル書37章1節〜14節に記されています「干からびた骨の谷」の出来事を思い起こさせます。少し長くなりますが、それを見てみましょう。そこには、 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。 と記されています。 この幻の形でエゼキエルに示された、干からびた骨の谷の出来事を通して主が示してくださったことは驚くべきことです。11節に記されていますように、主はエゼキエルに、 人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。 と言われました。「イスラエルの全家」とは、この時、自らの罪に対する主のさばきを受けて、バビロンへの捕囚の憂き目にあっているユダ王国だけでなく、この時から130年ほど前に、その徹底した背教のために主のさばきを受けて、アッシリヤの手による捕囚に見舞われた北王国イスラエルをも含んでいます。 アブラハムへの契約の祝福にあずかり、エジプトの奴隷の身分から贖い出され、祭司の国として召されたイスラエルの民は、主の律法を基盤とした国家を形成するまでに育てられました。そして、主はダビデにダビデの子のための永遠の王座を約束してくださいました。ところが、ダビデの血肉の子であるソロモンはその治世の末期に偶像を取り入れ、主の戒めに背くようになりました。しかし、主はダビデへの契約のゆえに直ちにさばきを執行されませんでした。けれども、ソロモンの後、王国は北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。北王国イスラエルの王たちは主に対して罪を犯し続け、ついに主のさばきの手段として用いられたアッシリヤに滅ぼされてしまいます。北王国イスラエルの首都サマリヤが陥落したのは紀元前722年です。 これに対して、南王国ユダにおいては、主を信じてモーセ律法にしたがって改革を試みる王たちがおりました。実際、北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ軍は南王国ユダの首都エルサレムに迫りますが、主のさばきの御手に打たれて退却することになりました。けれども、その南王国ユダも背教を重ねて、ついに主のさばきの手として用いられたバビロンによって滅ぼされてしまいます。エゼキエルが捕囚にあったのは597年のことです。そして、最終的にエルサレムが陥落し、さらに多くの者が捕囚となったのはその10年後の587年のことです。 主はこのような状況にある「イスラエルの全家」を「干からびた骨」にたとえておられます。その骨とは、バビロンの王ネブカデネザルの軍隊との戦いで死んだ者たちのもので、もはや葬る者もないままに放置されていた骨のことでしょう。このように、死体のままに放置されることは、獣や鳥たちの餌食となることであり、旧約聖書の中では、主の契約に背く者たちへののろいとしての意味をもっています。また、11節に記されていますように、「イスラエルの全家」の者たち自身も、 私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。 と言って、自分たちの望みはまったく絶たれてしまい、自分たちの骨は干からびてしまったと嘆いていました。そのように、主の契約に対して不真実であり、主に背き続けたために契約ののろいとしてのさばきを受けたイスラエルの民は、まったく望みのない状態になってしまいました。 そのような状態にあるイスラエルの民に対して、主はアブラハム、イサク、ヤコブに与えられたご自身の契約、モーセをとおして与えてくださった契約、さらにはダビデに与えてくださった契約に対して真実であり続けてくださったのです。深いあわれみによって、そののろいを取り去ってくださるときがあるというのです。それで、 わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。 と約束してくださいました。 14節では、 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。 と言われています。そして、このことを告げてくださるために、主はエゼキエルに「干からびた骨の谷」の幻を示してくださいました。5節には、その幻の中で、主が、 見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。 と言われたことが記されています。この「息」と訳された言葉(ルーアハ)は、先ほどの14節で、 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。 と言われているときの「わたしの霊」の「霊」と同じ言葉(ルーアハ)です。これは「霊」や「息」や「風」などを表す言葉です。それで、5節で、 見よ。わたしがおまえたちの中に息(ルーアハ)を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。 と言われていることと、14節で、 わたしがまた、わたしの霊(ルーアハ)をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。 と言われていることは同じことを指していると考えられます。 また、9節で、 息よ。四方から吹いて来い。 と言われているときの「息」は「風」とも訳すことができます。ここでは、どのように訳すとしても、この言葉(ルーアハ)は「主の御霊」を表しています。 長い引用になってしまいましたが、使徒の働き2章2節において、 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 と言われていることは、主がご自身の契約に対して真実であられ、御霊をお遣わしになって、望みがまったくなくなってしまった状態にある者たちを生かしてくださることの約束の成就を思い起こさせます。言うまでもなく、これには地上的なひな型としての成就があります。それはバビロンからの帰還です。けれども、それには地上的なひな型としての限界がありました。このことの最終的な成就は聖霊降臨節(ペンテコステ)の日の出来事にあります。 使徒の働き2章3節には、 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 と記されています。これは、新改訳欄外にある訳のように訳したほうがいいと思われます。そうしますと、 また、炎のような舌が、ひとりひとりの上にとどまるように分けられて現れた。 となります。この「炎のような舌」の現れも聖霊のご臨在に伴う現象で、神の栄光の顕現(セオファニー)の一つです。そして、これは御霊が一人一人に与えられたことを示しています。この点は、先ほどの大きな響きでは分からなかったことです。二つのことを合わせれば、御霊はそこにご臨在され、一人一人のうちに宿られたということになります。それで、4節では、 すると、みなが聖霊に満たされた。 と言われています。言うまでもなく、この「聖霊」は単数でお一人です。一つの御霊が一人一人に宿られたということです。 4節では続いて、 御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。 と言われています。この「他国のことば」と訳されている言葉は、文字通りには「異なったことば」です。複数形ですから「いろいろなことば」とも訳せます。また、この「ことば」と訳されている言葉[グローッサイ(グローッサの複数)]は、3節で「炎のような舌」と言われているときの「舌」と同じ言葉です。また、文脈からも、「炎のような舌」は聖霊のご臨在に伴う現れですので、この二つには関連があると考えられます。 注目したいのは、この時、弟子たちが御霊に導かれて語った言葉は「いろいろな言葉」でしたが、それを聞いた人々が理解したということです。11節には、それを聞いた人々が、 あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。 と言ったということが記されています。弟子たちが御霊に導かれて語った言葉は「神の大きなみわざ」あかしするもの、それによって神さまを讃美するものであったのです。このことは、御霊の賜物としての「異言」について考えるうえで大切なことです。コリント人への手紙第1・12章に出てくる御霊の賜物としての「異言」も、先ほどの「舌」や「ことば」と同じ言葉(グローッサイ)で表されています。 使徒の働き2章においては、この出来事についてペテロがなした説明が14節〜36節に記されています。そこにはさまざまな説明がありますが、いまお話ししています、 御国が来ますように。 という主の祈りの第2の祈りとの関わりで注目したいことがあります。それは、29節〜33節に記されています、 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。」と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 というペテロの言葉です。言うまでもなく、これは御霊に満たされたペテロの説明です。 ペテロはまずダビデのことを取り上げています。そして、ダビデが神さまから、 神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせる という約束を受けていたことに触れます。これは、サムエル記第2・7章12節、13節に、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 と記されています。この主のダビデへの約束においては、ダビデの子が着く王座はとこしえに堅く立てられた王座、すなわち「永遠の王座」です。使徒の働き2章では、そのような王座に着く方は永遠に生きておられる方であるということから、ダビデはキリストの復活を預言していたと論じられています。 そのことを受けて、ペテロは、 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と述べています。これを先ほどのダビデへの「永遠の王座」の約束と合わせてみますと、ペテロはそのダビデへの契約において約束されている「永遠の王座」は地上にあるものではなく、「神の右」にあるということを示していることが分かります。 ご自身の民のために十字架にかかって罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストが、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことは、主がダビデに与えてくださった契約の約束の成就でした。私たちが主の祈りの第2の祈りにおいて、 御国が来ますように。 と祈るときの御国は父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが治めておられる御国のことです。その栄光のキリストの支配は「御父から約束された聖霊」を注いでくださったことによって開始されています。 これは、先ほどお話ししました預言者エゼキエルを通して主が約束してくださったことの究極の成就を示しています。自らの罪のために当然の刑罰を受けて滅ぶべき者、その点では「干からびた骨」でしかない者たちを、ご自身の契約に対して真実であられる主が、その一方的な恵みのゆえに新しく生かしてくださるというのです。神さまの御前でまったく望みのない状態の者を生ける望みに溢れさせてくださるというのです。そして、そのために必要な罪の完全な清算さえも、契約の主であられる方がご自身の十字架の死をもって成し遂げてくださいました。この方、すなわち栄光のキリストは、御国の王として、私たちを御霊によって新しく生かしてくださり、御霊によって導き続けてくださっています。 |
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