(第103回)


説教日:2007年5月20日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 先主日は、新約聖書に記されていることに基づいて、初代教会の聖徒たちが栄光のキリストが再臨される終りの日としての主の日を熱心に待ち望んでいたこと、そして、私たちもその日を心から待ち望むべきであることが教えられているということをお話ししました。
 一般には、イエス・キリストが再び来られるのは世をさばくためであるということがよく知られています。使徒信条でも「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とをさばきたまわん。」と告白しています。もちろん、それは聖書の御言葉に基づく告白です。しかし、イエス・キリストが再び来られることには、それに劣らず大切な意味、というよリ、考えようによっては、それ以上に大切な意味があります。それは、イエス・キリストが、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちご自身の民の救いを完成してくださるということです。先週も引用しましたヘブル人への手紙9章28節には、

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

と記されています。イエス・キリストは再び来られて、すでにご自身の復活のいのちにあずからせてくださって新しく生れさせてくださっている私たちを、栄光あるものとしてよみがえらせてくださいます。
 そればかりでなく、終りの日に再び来られるイエス・キリストは、この被造物世界をご自身が成し遂げられた贖いに基づいて栄光あるものへと再創造されます。ローマ人への手紙8章19節〜21節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されています。ここに記されていることから分かりますように、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人間が造り主である神さまに対して罪を犯し堕落してしまったために、被造物は、人間との一体において「虚無」に服し「滅びの束縛」に捕えられることになりました。それで、被造物は、罪が贖われて神さまの御前に回復され、栄光あるものとされる人間との一体において、「虚無」と「滅びの束縛」から解き放たれ、神さまの御前に回復され栄光あるものとされます。
 イエス・キリストが成し遂げられた贖いは全被造物に対して意味をもっています。繰り返しの引用になりますが、コロサイ人への手紙1章19節、20節には、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。
 このように、全被造物がイエス・キリストの贖いの御業に基づいて、また神の子どもたちとの一体において、「虚無」と「滅びの束縛」から解放され、栄光あるものとして再創造されます。それは、そこに神さまの充満な栄光に満ちたご臨在があり、神の子どもたちがご臨在の主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになるためのことです。その完成の様子は、黙示録21章1節〜4節に、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されています。
 すでにお話ししていますように、

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りは、このすべてが実現することを祈り求めるものです。ですから、この祈りを祈るとき、私たちは、私たちの贖い主であられるイエス・キリストが再び来てくださって、このすべてを実現してくださることを御言葉に基づいて信じて、確かな希望をもって祈るのです。


 このこととの関わりで、一つのことをお話ししたいと思います。それは、いま私たちが住んでいるこの世界と「新しい天と新しい地」との関係の問題です。黙示録21章1節には、

以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

と記されています。この場合の「以前の天と、以前の地」は最初の創造の御業によって造り出され、神のかたちに造られている人間の罪による堕落の結果、人間との一体において「虚無」に服し、「滅びの束縛」に捕えられるようになった世界、すなわち、いま私たちが住んでいる世界のことを指しています。ここでは、この世界は「過ぎ去る」と言われています。それで、この世界と終りの日に再臨されるイエス・キリストが造り出される「新しい天と新しい地」はつながっていないのではないかという見方が出てくるわけです。
 そのような見方により大きな影響を与えているのは、ペテロの手紙第2・3章10節〜13節に記されている御言葉です。そこには、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と記されています。
 10節では、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と言われており、12節では、

その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

と言われています。
 ここには解釈の上でとても難しい問題がいくつかあります。そのすべてに触れることはできませんが、新改訳の本文との違いという点では、10節の最後の、

 地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という言葉を取り上げておいたほうがいいかと思います。新改訳では「焼き尽くされます」という言葉に星印がついていて、欄外に「異本『見つけ出されます』」と記されています。新改訳本文の「焼き尽くされます」という言葉はいろいろある写本の読みの一つ(カタカエーセタイ)によるものです。しかし、これがもともとのギリシャ語本文の読みであったととすることには無理があります。[この読みはすっきりと意味が通るのですが、そうしますと、他に意味が通りにくい読みがいくつかあるということを説明できなくなります。意味が通りにくい言葉を意味が通るように変えたということは考えられますが、意味が通る言葉をわざわざ意味が通らない言葉に変えたとは考えにくいからです。また、この読みは知られているかぎりにおいて最も古いものです。さらに、この読みに言葉を加えて修正していると思われる写本もいくつかあります。]私の手元にあるギリシャ語のテキスト(UBSの第3版)では新改訳の欄外にある「見つけ出されます」が本文にあります。ただし、欄外においてはこれはかなり不確かであることを示す「D」がつけられています。どうやら、ここでは新改訳欄外の「見つけ出されます」がもともとの読みであったと考えたほうがよいようです。そうしますと、この部分は、

 地と地のいろいろなわざは見つけ出されます。

というようになります。
 問題は、これをどのように理解するかということです。先にもお話ししましたように、これはとても難しい問題ですが、この部分が3節、4節に、

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

と記されていることを受けているということに注目したいと思います。

 終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、

というときのあざけりは、

 キリストの来臨の約束はどこにあるのか。

という言葉に表れているように、神さまの御言葉に対するあざけりであり、それゆえに神さまご自身に対するあざけりです。

 あざける者どもがやって来てあざけり

という言葉は直訳すれば、

 あざけりとともにあざける者どもがやって来る

となります。この言い方は、その人々があざけることを強調するものです。さらに、この「あざけりとともに」という言葉が前に置かれていてより強調されています。そして、神さまの御言葉へのあざけりから生れてくる生き方が、

 自分たちの欲望に従って生活し、

ということに現れてくるというのです。この「欲望」と訳されている言葉[エピスミア(ここでは複数形)]自体は必ずしも悪い意味の「欲望」だけを表すのではなく、よい意味の「欲求」や「熱望」をも表します。ここでは、神を神とも思わず、自分たちがよしとするところに従って生きる生き方のことを指していると考えられます。
 ここでは、さらに、9節に、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と記されていますように、そのような人間の現実にもかかわらず、主は忍耐深く人に接してくださっているということが明らかにされています。
 しかし、続く10節において、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは見つけ出されます。

と記されていますように、主の忍耐はいつまでも続くのではないということが示されています。ですから、10節においては、主の御言葉をあざけるものたちへのさばきが執行されることを示しています。
 ここに記されていることには旧約聖書の背景があります。第1に挙げられるのはイザヤ書34章1節〜4節です。そこには、

 国々よ。近づいて聞け。
 諸国の民よ。耳を傾けよ。
 地と、それに満ちるもの、
 世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。
 主がすべての国に向かって怒り、
 すべての軍勢に向かって憤り、
 彼らを聖絶し、
 彼らが虐殺されるままにされたからだ。
 彼らの殺された者は投げやられ、
 その死体は悪臭を放ち、
 山々は、その血によって溶ける。
 天の万象は朽ち果て、
 天は巻き物のように巻かれる。
 その万象は、枯れ落ちる。
 ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。
 いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。

と記されています。ここでは、主、ヤハウェが聖なる御怒りをもって世界をおさばきになることが示されています。

 国々よ。近づいて聞け。
 諸国の民よ。耳を傾けよ。
 地と、それに満ちるもの、
 世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。

という1節の呼びかけは、そのさばきがすべてのものに及ぶことが示されえています。また、2節の、

 彼らを聖絶し、

という言葉は、「彼ら」が主の聖なるご臨在の御前からまったく絶たれてしまうこと、それによって、主のご臨在の御前においてすべのものの罪がまったく清算されることを表しています。さらに、

 彼らの殺された者は投げやられ、
 その死体は悪臭を放ち、

という言葉は、このさばきが人間の罪による腐敗に対するものであることを象徴的に表していると考えられます。そして、

 山々は、その血によって溶ける。

と言われていることは、人が住んでいる「地」が人との一体において、人の罪へのさばきの影響を被ることになるということを示しています。堅くそびえ立っていると見える「山々」さえもそれを免れることはないというのです。
 これに続いて、3節では、

 天の万象は朽ち果て、
 天は巻き物のように巻かれる。
 その万象は、枯れ落ちる。

と言われています。ここでは、主のさばきが神のかたちに造られている人間との一体に置かれている全被造物に及ぶことが示されていると考えられます。主のさばきは人が住んでいる地においてだけでなく、天においても執行されるということです。同じイザヤ書の24章21節に、

 その日、主は天では天の大軍を、
 地では地上の王たちを罰せられる。

と記されていることとの関連を考えますと、この天におけるさばきには主に逆らって働いている堕落した御使いたち、すなわち天にいるもろもろの悪霊たちへのさばきも含まれている可能性があります。
 簡単な説明ではありますが、このイザヤ書の御言葉が背景にあることを踏まえて、ペテロの手紙第2・3章10節に記されている、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは見つけ出されます。

という御言葉を見てみますと、ここでは、まず天におけるさばきが語られていることが分かります。

 天は大きな響きをたてて消えうせ、

と言われているときの「大きな響きをたてて」(直訳「大きな響きとともに」は、燃えさかる火の「ゴー」という音や、激しい嵐や雷など、巨大な力をもって素早く動くものが生み出す響きを表す言葉です。これは主の栄光の顕現(セオファニー)に伴う大音響であると考えられます。新改訳の、

 天は大きな響きをたてて消えうせ、

という訳は「大きな響き」は、ちょうど建物が崩れるときに音がするように、天が崩れることの響きであることを示しています。しかし、これは、主の栄光の顕現に伴う「大きな響き」である可能性があります。そして、これは、たとえば、詩篇50篇3節に、

 われらの神は来て、黙ってはおられない。
 御前には食い尽くす火があり、
 その回りには激しいあらしがある。

と記されていることや、97篇3節に、

 火は御前に先立って行き
 主を取り囲む敵を焼き尽くす。

と記されていることなどを思い起こさせます。
 また、この場合も、天におけるさばきの執行に、もろもろの悪霊たちへのさばきが含まれている可能性があります。
 さて、問題の、

 地と地のいろいろなわざは見つけ出されます。

という言葉ですが、これには難しい問題がありますが、結論的には、これは栄光の主によるさばきにおけることですので、地に住む者たちのどのようなわざも、それが人の目に隠れた不正であっても、隠ぺいされた罪の仕業であっても、また、遠い昔のこととして歴史の彼方に消えてしまったようなことであっても、主の御前にすべて明らかにされ、さばきに服することになるという意味であると考えられます。

 地と地のいろいろなわざは見つけ出されます。

というときの「見つけ出される」という受動態は、いわゆる「ディヴァイン・パッシヴ」で、それをなさる方、すなわち見つけ出す方が神さまであられることを示していると考えられます。
 この場合も、「」はそこに住んでいる人間のの罪の仕業の舞台とされてしまっています。それで、その人間との一体において、主のさばきの影響を受けることになります。それは、先ほどのイザヤ書34章3節で、

 山々は、その血によって溶ける。

と言われていたことと符合します。
 ペテロの手紙第2・3章12節の、

その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

という御言葉は、10節に述べられていることを少し言葉遣いを変えて述べています。
 このようなことから、いま私たちが住んでいるこの世界のすべてが崩れ去ってしまうと結論することができるでしょうか。どうもそうではなさそうです。10節の、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは見つけ出されます。

という教えに続いて、11節では、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

と言われています。これまでのお話からお分かりのことと思いますが、ここで、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、

と言われているのは、真理の御言葉をあざけり、神を神とも思わず、自分たち思いや欲望のままに生きている人々へのさばきに関わることです。そして、これと対比する形で、福音の御言葉に示された贖い主であられる御子イエス・キリストとイエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業を信じている主の民の生き方が示されています。その福音の恵みによる生き方、御霊によってイエス・キリストの義と聖さにあずかっている者の生き方までもが崩れ去ってしまうということではないのです。
 もし、文字通り「すべてのもの」すなわち「万物」が崩れ去ってしまうのであれば、先ほど引用しましたコロサイ人への手紙1章19節、20節に、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されているイエス・キリストの十字架の死の意味は空しいことになってしまいます。
 さらに、私たちが地上でなした働き、地上で築いた歴史が主の栄光のご臨在に伴う「火」によっても焼き尽くされることなく残ることを示している御言葉もあります。コリント人への手紙第1・3章11節〜15節には、

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

と記されています。
 ここに記されていることについては、いろいろな機会にお話ししましたので、説明は省きます。この福音の御言葉は、私たちが御子イエス・キリストの贖いの恵みによってなす働きが終りの日における主の栄光のご臨在の御前に残ることを示しています。イエス・キリストという土台の上に「金、銀、宝石」などで建てるなら、その建てたものは主の栄光のご臨在に伴う「」を通って、なお残ると言われています。それで、私たちが地上で築いている歴史、すなわち神の国の歴史は「新しい天と新しい地」につながる歴史であることを示しています。
 終りの日に、イエス・キリストは、ご自身の民が恵みにより、御霊のお働きによってなしている働き、人の目には隠された形で、しかし、着実に築き上げられている神の国の歴史を完成してくださるために来てくださいます。

 


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