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説教日:2007年5月13日 |
イエス・キリストが終りの日に再臨されることに関しては、クリスチャンの中にも、あまり関心がないという雰囲気があります。漠然と、そのようなことがあると考えているという現実があるのではないでしょうか。 キリストの再臨を口にすることは狂信的なものと見られるのではないかという恐れがあるのかもしれません。 ある人々にとっては歴史に終りがあるということ自体が受け入れられないことです。それは、この世界が神さまの創造の御業とともに始まっているということを心から受け入れられないこととつながっています。神さまがこの世界をご自身のみこころに従ってお造りになったこと、そして、人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことを御言葉にしたがって信じるなら、そのことに対する清算の時があることは十分予測されます。 そればかりでなく、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことを御言葉の光と、自分たち自身の現実に照らして信じているなら、聖なる神さまがその罪をおさばきになることは十分に予想されます。 その一方で、父なる神さまが私たちの贖い主としてご自身の御子を立ててくださり、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民のための贖いを成し遂げてくださったのであれば、その贖いの御業に基づく救いの完成の時があることも予想されます。 そして、今、予測されるとか予想されると述べたことは、単なる人間の予測や予想ではなく、神さまが御言葉を通して約束してくださり、その実現の様を、もちろん私たちに知りえるかぎりのことをですが、明らかにしてくださっておられます。神さまの約束の実現には、それが実現してみないと分からないという面があります。特に、終りの日の栄光のキリストの再臨ということになりますと、私たちの想像を絶していますので、いくら説明されても理解できないことが残ります。そうではあって、神さまは私たちが知るべきことを示してくださっています。 ここで、主の日に関する聖書の教えのすべてを見るわけにはいきませんが、機会がありますときに、主の日に関する聖書の教えを意識して、少なくとも新約聖書だけでも、読んでみたらどうでしょうか。聖書においては、私たちが漫然と考えている主の日のことが、きわめて重大なこととして取り上げられ、教えられていることが分かります。初代教会の主の民たちは切実に主の日を待ち望んでいたことがうかがわれます。そのことは、これからお話しすることからも感じ取ることができます。 そうではあっても、終りの日のイエス・キリストの再臨は、決して、警告主義者たちが何かをあおり立てるようなものではありません。ある人々には、終りの日のあることを全面に掲げて信徒を奉仕に駆り立てるもののように写るかも知れません。けれども、そのようなことをいさめる御言葉の教えがそこかしこにあります。 マタイの福音書24章3節〜11節には、 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 と記されています。 ここで弟子たちは、まず、 お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。 と尋ねています。これはそれに先立つ1節、2節に記されていますように、弟子たちがエルサレム神殿を指し示したときに、イエス・キリストが、 このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。 とお答えになったことを受けています。つまり、エルサレム神殿が破壊されるときのことです。それは、紀元70年に、イエス・キリストが告げられた通りに起ります。弟子たちは、そのようなことが起るのは世の終わりのことであると理解していたようです。それは無理もないことです、主の神殿は主の戒めにしたがって主の御住まいとして建てられたものです。それが破壊されるとようなことが起こるのであれば、それは世の終わりのことであるとしか考えられないことでしょう。確かに、エルサレム神殿の破壊は一つの時の終りを意味しています。それは、古い契約の下での地上的なひな型として存在していた聖所がその役割を終えたということを印象づけることとなりました。実際、地上的なひな型であるエルサレム神殿の本体は、イエス・キリストの復活のからだです。ヨハネの福音書2章19節〜22節に、 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。 と記されている通りです。 オリーブ山においてイエス・キリストは、迫ってきている古い契約の下にあるひな型としてのエルサレム神殿の破壊のことで終ることなく、世の終りに至るまでの歴史の道筋についてもお話ししておられます。その第1の教えは、 人に惑わされないように気をつけなさい。 というものでした。そして、 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、「私こそキリストだ。」と言って、多くの人を惑わすでしょう。 と教えられました。ここでは多くの偽キリスト、偽メシヤが出現して人々を惑わすことが示されています。ここで、 私こそキリストだ。 と訳されている言葉は「エゴー・エイミ・ホ・クリストス」で、強調形の「エゴー・エイミ・・・」で記されています。つまり、自らが神のような存在であるかのように名乗るという可能性を示唆しています。ちなみに、同じことを記しているマルコの福音書13章6節では「ホ・クリストス」がなく「エゴー・エイミ」となっています。これは、「わたしはある」という主の御名を表すものです。これは、偽キリスト、偽メシヤが自らを神のようなものであると主張する可能性を示唆しています。 いずれにしましても、イエス・キリストは、何よりもまず、誤った教えによって惑わされることがないようにと戒めておられます。実際の歴史の中においても、終末的な状況が感じられる時代には、偽メシヤ、偽キリストが人々を惑わし扇動することがありました。イエス・キリストが、 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 と言っておられるような状況になりますと、偽キリスト、偽メシヤが横行するようになります。それは、実際に終りの日が近くなることによって、より盛んになっていくことでしょう。 イエス・キリストの教えにおいては、これに続いて、主の民が受ける苦しみのことが語られています。それは、語っておられる主ご自身が、この世にあっては、間もなく十字架につけられて殺されるに至るということからすれば、主の御足の跡に従う弟子たちの経験する道でもあるわけです。けれども、そのような中で必ずなされなければならないこと、また、確実になされることがあると言われています。それは、 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされる ということです。「御国の福音」を宣べ伝えることは、イエス・キリストがそのメシヤとしてのお働きにおいて、最初になさったことです。それは、地上的なひな型としての主の民であるユダヤ人に対してなされました。ここでは、この世における苦難の道を歩む弟子たちが、イエス・キリストによる贖いの御業が成し遂げられたことに基づいて、それを「全世界」に向けて「すべての国民」に対してなすことになると言われています。これは「御国の福音」ですので、人々に何かをせよということではなく、神さまが御子イエス・キリストによって、ご自身の民のためになしてくださったことが宣べ伝えられ、あかしされます。 これに続いて、 それから、終わりの日が来ます。 と言われていることは、「御国の福音」のあかしが「全世界」に向けて「すべての国民」に対してなされるまでは「終わりの日」は来ないということを示しています。 このように、弟子たちは、終りの日について決して人に惑わされてはならないこと、そして、苦難を経験することがあるけれども、確かに、「御国の福音」のあかしが「全世界」に向けて「すべての国民」に対してなされるようになることを教えられています。このような見通しの中で、着実に主の民としての道を歩むべきことが示されています。 また、テサロニケ人への手紙第2・2章1節〜3節には、 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。 と記されています。 ここでは、テサロニケの人々が主の日についての誤った教えによって惑わされて「落ち着きを失ったり、心を騒がせたり」していたことが踏まえられています。その誤った教えは「主の日がすでに来たかのように言われる」ものであると言われているのですが、具体的にどのような教えであったのかについては明確に示されてはいません。 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、 という言葉や、 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。 という言葉は、実際に、その教えがさまざまな形を取ってやってくる可能性を認めています。テサロニケ人への手紙第1・3章4節に、 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。 と記されていることにも表れていますが、苦難の中にあったテサロニケの信徒たちがそのような教えに揺らされやすい状態であったことは十分に考えられることです。 どうして、「主の日がすでに来たかのように言われる」ことによって「落ち着きを失ったり、心を騒がせたり」するようになるのでしょうか。この疑問から、「主の日がすでに来たかのように言われる」ということを、「主の日がすぐにでも来るかのように言われる」という意味であったのではという提案もなされています。しかし、言葉の用例からその理解には無理があるようです。おそらく、「主の日がすでに来たかのように言われる」というときの「主の日」は一定の終末の期間を指していて、その誤った教えは、もうすでに終末に入っているというような教えではないかと思われます。いずれにしましても、ここでパウロは、テサロニケの人々が警告主義者の扇動的な言葉に惑わされないようにと切に願っています。 これに先立って、パウロは、テサロニケ人への手紙第1・5章2節〜11節において、終りの日の栄光のキリストの再臨の日としての主の日について教えています。 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。 と記しています。 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。 と言われていますように、私たちは福音の御言葉の確かな土台の上に立って、慌てふためくことなく、落ち着いて主の民、神の子どもとして愛のうちを歩み続けるべきであることが示されています。そして、主の日を見据えている者として、 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。 と勧められています。福音の御言葉に基づいて栄光の主の再臨の日があることを信じている者は「信仰と愛」のうちにあって「救いの望み」を掲げて歩みます。そして、その歩みは慎み深いものであるのです。 このように、終りの日の栄光のキリストの再臨についての福音の御言葉の教えは、神の子どもたちを扇動して何かに駆り立てるためのものではありません。ですから、たとえ主への奉仕であっても、そのような扇動によって駆り立てられてなすべきではありません。私たちは「信仰と愛」のうちにある落ち着いた歩みの中で主に仕え、お互いに仕え合うのです。また、終りの日の栄光のキリストの再臨についての福音の御言葉の教えは、警告主義者のようにこの世の人々を扇動するものでもありません。それは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づく救いの完成の時があることを、私たちに約束しています。 主の日は、私たちが不安をもって迎えなければならないものではありません。むしろ、 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。 という父なる神さまのみこころに従って、「救いの望み」をもって「信仰と愛」のうちを歩みながら、静かに、また確かな思いをもって待ち望むべきものです。 ヘブル人への手紙9章28節にも、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 と記されています。イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架にかかってくださり、私たちの罪をまったく贖ってくださいました。それは永遠の神の御子のいのちの値による贖いです。ご自身を信じるすべての人の、すべての罪を、完全に贖ってあまりある贖いです。それで、イエス・キリストが再び罪を負われる必要はありません。ですから、イエス・キリストが再び来てくださるのは、私たちご自身の民の救いを完成してくださるためです。 このような、栄光のキリストのお働きは、神の国の王としてご自身の民を治めてくださることに他なりません。それこそが「神の国」という言葉が示していることです。終りの日に栄光のキリストが再臨されることは、そのまま、神の国が栄光のうちに現れることであるのです。ですから、 御国が来ますように。 という主の祈りの第2の祈りは、終りの日に栄光のキリストが再臨されて、ご自身の民の救いを完成してくださることをしっかりと視野に入れて祈るものです。私たちは終りの日にイエス・キリストが再び来てくださることを漫然と考えるのではなく、 御国が来ますように。 と祈りつつ、静かに落ち着いて、心から待ち望むのです。 また、私たちはこの祈りを、御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださり、私たちのために贖いを成し遂げてくださった父なる神さまへの限りない信頼とともに祈ります。このように祈る者にとっては、「救いの望み」をもって「信仰と愛」のうちを歩みながら、静かに、また確かな思いをもって、終りの日の栄光のキリストの再臨を待ち望むことが、最も自然な姿です。 |
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