(第101回)


説教日:2007年5月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節~15節


 先主日には春の音楽集会がありましたので、主の祈りのお話はお休みしました。今日も、第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りに関するお話をいたします。お話の間が空いてしまいましたので、これまでお話ししたことを補足しながらまとめるお話をいたします。
 この祈りは、父なる神さまがご自身の御国すなわち神の国を来たらせてくださることを、ていねいな形で祈り求めるものです。
 「神の国」の「国」は、ヘブル語でもギリシャ語でも、支配することや支配権を表しています。主の祈りの第2の祈りにおいて私たちが祈り求めている神の国は、ご自身の民の贖い主であられるイエス・キリストが王として治めてくださることを意味しています。
 イエス・キリストの王としての支配の中心は、ご自身の民のためにいのちをお捨てになったことにあります。支配者である王がその支配の下にある民のためにいのちをお捨てになったことが神の国の特徴であるのです。イエス・キリストは永遠の神の御子であられますが、父なる神さまのみこころに従って、今から2千年前にご自身の民の贖い主となるために人の性質を取って来てくださいました。このことに関してマタイの福音書20章28節には、

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この教えの通り、イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を負ってくださり、十字架にかかって私たちの罪に対する刑罰を私たちに代わって受けてくださいました。このことによって、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、その十字架の死に至るまでのまったき従順に対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。これもご自身のためであるというより私たちのためです。私たちをご自身と一つに結び合わせてくださり、私たちをご自身の復活のいのちによって生きる者としてくださるためでした。
 さらに、イエス・キリストは天に上り、父なる神さまの右の座に着座され、そこから御霊を注いでくださいました。イエス・キリストはこの御霊のお働きによって私たちを治めてくださいます。その中心は、ご自身が私たちのために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けてよみがえってくださったことによって成し遂げてくださった贖いの御業に、私たちをあずからせてくださることにあります。イエス・キリストは御霊のお働きによって私たちをご自身と結び合わせてくださり、私たちを新しく生れさせてくださり、ご自身の復活のいのちによって生きる者としてくださっています。これが、イエス・キリストが王として私たちを治めてくださることの初めにあり、中心にあることです。
 主の祈りの第2の祈りで私たちが祈り求めている神の国は、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストが治めておられる御国のことです。イエス・キリストはご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づき、御霊のお働きによって、私たちご自身の民を治めてくださいます。


 すでにお話ししていることの繰り返しですが、イエス・キリストの十字架の死は、今から2千年前に起ったことです。永遠の神の御子であられる方が、私たちと同じ人の性質を取って来てくださって、私たちに代わって私たちの罪に対する刑罰を受けてくださいました。それによって、私たちの罪は完全に贖われています。このことから分かりますように、イエス・キリストの十字架の死は、世の終りになされる「最後の審判」において下される罪への刑罰としてのさばきに当たります。
 また、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、ただ単に死んだイエス・キリストが生き返ったということではありません。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことへの報いとして栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。ピリピ人への手紙2章6節~9節に、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

と記されている通りです。
 一度死んだ人が何らかのことで生き返ったとしても、その人はやがてまた死んでしまいます。ヨハネの福音書11章1節~45節には、イエス・キリストがマルタとマリヤの兄弟ラザロをよみがえらせてくださったことが記されています。このときラザロはよみがえりました。しかし、ラザロはやがて自分の生涯をまっとうして死にました。その意味で、ラザロは死んでから生き返ったのです。イエス・キリストの死者の中からのよみがえりはこれとは違います。イエス・キリストは栄光をお受けになってよみがえられました。それは、死の力の及ばないいのちによみがえられたということです。言い換えますと、イエス・キリストは死の力を打ち破られたのです。ペンテコステの日のペテロの説教を記している使徒の働き2章23節、24節には、

あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

と記されています。また、ローマ人への手紙6章9節には、

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

と記されています。
 ちなみに、先ほど触れましたラザロのよみがえりは、ヨハネの福音書11章25節、26節に記されている、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

というイエス・キリストの御言葉が単なる言葉ではなく確かな御言葉であることを確証するものでした。
 このようにイエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたのは、私たちイエス・キリストの民のためです。イエス・キリストご自身は十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通され、その従順への報いとして栄光を受けてよみがえられました。言うまでもなく、その十字架の死はご自身のためではありません。
 イエス・キリストは罪のない人の性質を取って来てくださいました。それは、天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになったときの人の性質、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落する前の人の性質です。もし贖い主自身が罪の性質を宿しているなら、その贖い主は自らの罪の責任を問われるのであって、とても他の人の罪の贖いをすることはできません。贖い主は私たちの身代わりとなることができるためには私たちと同じ人でなければなりませんが、自らのうちに罪を宿すものであってはならないわけです。
 そのようにして来られたイエス・キリストはご自身のために罪の贖いを必要としてはおられませんでした。その十字架の死はあくまでも私たちの罪を贖うためのものでした。そして、そのようにして私たちの罪を贖うために十字架において私たちの罪への刑罰を私たちに代わって受けてくださることが父なる神さまのみこころであったのです。
 また、私たち人間の罪は造り主である神さまに逆らうことです。神さまに造られた被造物が無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さを汚すことです。そのような罪が贖われるための償いは無限、永遠、不変の償いでなければなりません。ですから、人であれ御使いであれ、被造物は罪の贖いを成し遂げることはできません。いかなる被造物も無限の償いをすることはできません。そのために、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子が、人の性質を取って来てくださったのです。そして、その方が十字架にかかって私たちに代わって罪へのさばきを受けてくださいました。これがどのようなことか、私たちの想像を絶することです。しかし、神さまは私たちのためにそのような贖い主を備えてくださり、そのような贖いを成し遂げてくださったのです。
 このように、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことは、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるためのことでした。それで、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださったのも、私たちのためのことでした。私たちをご自身の復活のいのちによって新しく生れさせ、その復活のいのちによって生きる者としてくださるためでした。
 さらに、栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストが天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことも、私たちご自身の民のためのことでした。先ほどペンテコステの日のペテロの説教を記している使徒の働き2章23節、24節の御言葉を引用しました。同じペテロの説教の少し後の部分の32節、33節には、

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と記されています。イエス・キリストが天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことは、ご自身の民に御霊を注いでくださるためのことでした。
 イエス・キリストが御霊を遣わしてくださることは、イエス・キリストご自身が大切なこととして繰り返しあかししておられます。その一つですが、ヨハネの福音書7章37節~39節には、

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

と記されています。これは「祭りの終わりの大いなる日」のことであったと言われています。この「祭り」は2節から分かりますように、仮庵の祭りのことです。
 ここでイエス・キリストは、

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

と言われました。ここでイエス・キリストが「聖書が言っているとおりに」と言われるように、このイエス・キリストの御言葉には旧約聖書の背景があります。最初の、

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

という招きの御言葉は、イザヤ書55章1節の、

 ああ。渇いている者はみな、
 水を求めて出て来い。金のない者も。
 さあ、穀物を買って食べよ。
 さあ、金を払わないで、穀物を買い、
 代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

という御言葉を反映しています。ここでは「渇いている者」に示されていますように民が飢え渇いている状態にあることが示されています。そればかりでなく「金のない者も」と言われていますように、それはきわめて貧しい者たちであることが示されています。新改訳の「金のない者も」という訳文では金持ちも招かれているかのような感じですが、ここでは「渇いている者」と「金のない者」は同一人で、渇いていて金のない者が招かれています。もちろん、これは霊的に飢え渇いており貧しい者です。これに続く、

 さあ、穀物を買って食べよ。
 さあ、金を払わないで、穀物を買い、
 代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

という御言葉は常識的にはとんでもない言葉です。「金を払わないで」「代価を払わないで」買いなさいというのです。ここでは「買え」という言葉が繰り返されています。(原文のヘブル語では2回出てきます。新改訳では3回出てきますが、三つ目の「買え」は補足です。)このことは「買うこと」が大切であることを示しています。つまり、代価は支払われるのです。ただし、それはこの渇いていて金のない者たちが支払うのではありません。結論的には、この55章に先だつ52章13節~53章12節に記されている御言葉に示されている「苦難のしもべ」によって支払われるのです。53章5節、6節には、

 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

と記されています。
 先ほどのイエス・キリストの御言葉に戻りますが、イエス・キリストは、

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

と言われました。この「生ける水の川が流れ出る」ということの旧約聖書の背景はいろいろ考えられますが、これが仮庵の祭りにおいて語られた御言葉であるということから、基本的には、その祭りにおいて覚えられている出エジプト記17章1節~7節に記されている出来事であると考えられます。その祭りにおいて水を引く儀式がなされましたが、それにおいてこの出来事が覚えられたと言われています。
 この出来事に関しては以前お話ししたことがありますので、要点をまとめるだけにします。エジプトの奴隷の身分から贖い出されたイスラエルの民が主に導かれてレフィディムで宿営したとき、そこに飲み水がありませんでした。それで、イスラエルの民はモーセに不満をぶつけ、モーセを石打にして殺そうとしました。このことを受けて主がモーセに語られたことを記している5節、6節には、

主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

と記されています。
 ここに出てくる「あなたがナイルを打ったあの杖」というのは、主がエジプトに対して執行された十のさばきの最初のさばきに触れるものです。モーセがその杖でナイルを打つとエジプト中の水が血に変わって、人々は水が飲めなくなりました。モーセはそのさばきを執行するときに用いられた杖を取るように命じられます。そして、主は、

さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。

と言われました。主が「ホレブの岩」の上に立たれるとき、モーセがその杖でその岩を打つようにと命じられました。そして、主は、

あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。

と言われました。
 この時、イスラエルの民はすでに出エジプトの御業を目の当たりにしていたのに主を信じないで、自分たちの不満をモーセにぶつけて、モーセを殺そうとまでしました。それで、さばきを受けるべきはイスラエルの民でした。ところが、そのさばきの杖による一撃を受けたのは「ホレブの岩」の上に立たれた主ご自身でした。それによって、その「ホレブの岩」から水が流れ出て、イスラエルの民はその水を飲むようになりました。これはまさに栄光の主がご自身の民の罪のために打たれて、その民がいやされることを指し示しています。このことに触れて、コリント人への手紙第1・10章1節~4節には、

そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

と記されています。
 主の御前に何もなく、かえって罪のさばきを受けるべき者でしかない者たち、それが私たちです。イザヤ書55章1節の言葉で言えば、飢え渇いていて、きわめて貧しい者です。栄光の主はそのような私たちのために貧しくなられ、私たちの罪をその身に負ってくださってさばきを受けて打たれてくださいました。そのことによって、私たちはいやされ、「いのちの水の川」にあずかるものとされました。
 ヨハネはこのことを注釈して、

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

と述べています。ここでは、イエス・キリストを信じる者は御霊を受けるようになること、すると、

その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる

ことが示されています。それは、御霊が栄光のキリストの御霊として私たちのうちに宿ってくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださるからに他なりません。
 さらに、ここでは、

イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

というように、その御霊は栄光をお受けになるイエス・キリストが注いでくださるものであることが示されています。先ほど引用しました使徒の働き2章32節、33節に、

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と記されていることは、このイエス・キリストの御言葉が私たち主の民の現実となったことを示しています。
 私たちご自身の民を治めてくださる栄光のキリストの御座は父なる神さまの右の座です。主の祈りの第2の祈りで私たちが祈り求めている神の国は、この栄光のキリストの支配、栄光のキリストが治められることを意味しています。その支配はご自身を富ませるものではありません。この栄光の主は私たち霊的に飢え渇いた貧しい者であり、罪のさばきを受けて滅ぶべきであった者たちのためにいのちをお捨てになり、私たちをいやしてくださいました。そして、御霊によってご自身の復活のいのちにあずからせてくださっています。

 


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