![]() |
説教日:2007年4月22日 |
主の民のよみがえりについては、先々週の復活節から、ヨハネの福音書11章25節に記されています、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 というイエス・キリストの教えに基づいて、いくつかのことをお話ししてきました。今日も関連することをお話しします。この、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 というイエス・キリストの教えは、強調形の「わたしは・・・です」(エゴー・エイミ・・・)という言葉によって導入されています。これは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主であられることを意味しています。イエス・キリストは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名が示す通り、永遠から永遠にご自身で存在される主であられます。何ものにも依存することない独立自存の主として、この世界のいっさいのものを存在させておられる方です。この世界のすべてのものを造り出し、その真実な御手によって支え、導いておられます。特に、創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、人の間にご臨在してくださって、人をご自身との愛にある交わりのうちに生きる者としてくださいました。 そのように神のかたちに造られ、この方との愛にある交わりのうちに生きる者とされた人が罪を犯して御前に堕落してしまいました。人はその罪のゆえにこの方との交わりを絶たれ、死の力に捕らえられ、罪への刑罰を受けて滅ぶべきものとなってしまいました。それに対して、この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主が、贖い主となって来てくださり、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださいました。これによって、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 というイエス・キリストの教えが、私たちにとっての確かな現実となったのです。 先週の木曜集会でお話ししたことですが、ローマ人への手紙4章17節には、 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。 と記されています。ここでは、信仰の父と呼ばれるアブラハムが信じた神さまが「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」と呼ばれています。(ここでは、「死者を生かし」の「生かし」と「無いものを有るもののようにお呼びになる」の「呼びになる」はともに分詞で表されていますが、二つは一つの冠詞で括られていて実体化されています。) 「無いものを有るもののようにお呼びになる方」ということは、いまだ「無いもの」を存在するようにと呼び出される方であるということです。典型的には創造の御業において見ることができます。創世記1章2節、3節には、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 と記されています。いまだ光がない状態の地にあって、神さまが、 光よ。あれ。 と言われると、そこに光があるようになりました。神さまはお呼びになることによって、この世界とその中にあるものを造り出されました。これは神さまの召しを意味していますが、神さまの召しは常に有効であり、召された者たちをその召された状態にします。 神さまが「死者を生かす方」であられることはその当時のユダヤ人が広く信じていたことです。すでに旧約聖書において死者がよみがえることが預言的に語られています。たとえば、イザヤ書26章19節には、 あなたの死人は生き返り、 私のなきがらはよみがえります。 さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。 あなたの露は光の露。 地は使者の霊を生き返らせます。 と記されています。また、ダニエル書12章2節には、 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。 と記されています。 これらの御言葉は死者がよみがえるようになることが預言的に語られています。もちろん、死者をよみがえらせてくださるのは神さまであるわけです。列王記第2・5章7節には、 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」 と記されています。これは預言者エリシャの時代にアラムの王がその家来のナアマンのツァラアトをいやしてくれるようにという手紙を、イスラエルの王ヨラムに送ったときのことを記しています。 私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。 というヨラムの言葉は、神さまだけが死者を生かすことができるという理解を反映しています。 また、先ほどのダニエル書12章2節においては、すべての者がよみがえってさばきを受けることが示されています。そこでは「多くの者が目をさます」と言われていますので、すべての者がよみがえるのではないように思われます。けれども、ヘブル語では「多くの」という言葉(この場合のラブの複数形ラビーム)は「すべての」ということを表すことがあります。この場合も、それに当たると考えられます。 新約聖書においては、神さまが死者をよみがえらせてくださることには段階があることが示されています。それは、父なる神さまが贖い主であるイエス・キリストに栄光をお与えになって死者の中からよみがえらせてくださり、栄光のキリストが死者をよみがえらせるということです。使徒の働き2章23節、24節には、 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。 と記されています。これはペンテコステの日に栄光のキリストが御霊を注いでくださったことについてのペテロの説教の中で語られた言葉です。さらに、32節、33節でペテロは、 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と述べています。他にもありますが、これらの個所では、父なる神さまがイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたと言われています。 その一方で、ヨハネの福音書5章24節〜29節には、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。 と記されています。ここで、 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け と言われているのは律法の行いによる救いを述べているのではありません。この「善」は「善いこと」で父なる神さまのみこころに沿ったことを意味しています。6章29節には、 あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。 というイエス・キリストの教えが記されています。さらに、父なる神さまのみこころについて、6章39節、40節に、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と記されています。父なる神さまが遣わしてくださったイエス・キリストを贖い主として信じて永遠のいのちを得ること、そのいのちに生きることが、父なる神さまのみこころに沿ったことを行うことです。このイエス・キリストの教えでも、イエス・キリストが私たちをよみがえらせてくださることが示されています。さらにピリピ人への手紙3章20節、21節には、 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 と記されています。 このように、新約聖書においては父なる神さまがイエス・キリストに栄光をお与えになって死者の中からよみがえらせてくださり、栄光のキリストが私たちをよみがえらせてくださることが示されています。これは、父なる神さまが栄光のキリストによって私たちをよみがえらせてくださると言い換えることもできます。 イエス・キリストは罪のない方であられただけでなく、その生涯において、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されました。それで、父なる神さまはイエス・キリストに栄光をお与えになって死者の中からよみがえらせてくださることがおできになりました。けれども、私たちはアダムにあって堕落し、自らのうちに罪の性質を宿して生れてきて、実際に罪を犯している者です。私たちは神さまの聖なる御怒りの下にあり、さばきを受けて滅びるほかのない者でした。父なる神さまはそのような私たちをよみがえらせることはおできになりません。それは神さまの御力の問題ではなく、神さまの義と聖さの問題です。そのような私たちの罪をそのままにして、私たちを栄光へとよみがえらせることはできません。もし私たちの罪がそのままになっているなら、私たちは栄光へではなく、さばきと滅びへとよみがえることになるほかはありません。 そのような私たちが死の力から解き放たれて、栄光によみがえることがあるとするなら、私たちの罪が完全に清算されていなければなりません。そればかりでなく、父なる神さまのみこころに完全に従ったことによる義を、私たちがもっていなければなりません。もちろん、私たちにはそのようなものは何もありませんでした。しかし、父なる神さまはイエス・キリストによって、そのすべてを備えてくださったのです。イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そして、イエス・キリストを信じる者に、イエス・キリストの義を当てはめてくださいました。ローマ人への手紙5章18節、19節に、 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。 と記されている通りです。 このように、イエス・キリストの場合には、父なる神さまがイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいましたが、私たちの場合には、贖いの御業を成し遂げてくださった栄光のキリストを通して、栄光のキリストによって、私たちをよみがえらせてくださるのです。コリント人への手紙第1・15章45節の言葉で言いますと、「生かす御霊」となられた栄光のキリストが私たちをよみがえらせてくださるのです。これが、栄光のキリストが神の国の王として私たちを治めてくださることの中心にあること、また根底にあることです。栄光のキリストは御霊のお働きによって、私たちをご自身の復活のいのちによって生かしてくださり、ご自身のかたちに似た者に造り変えてくださいます。 |
![]() |
||