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説教日:2007年4月15日 |
すでにお話ししていることですが、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からの復活は世の終わりの日に起るはずの出来事です。イエス・キリストがご自身の民の罪に対する刑罰を負って十字架にかかって死んでくださったことは、そこで、私たちの罪に対する最後のさばきが執行されたということです。私たちの罪はイエス・キリストの十字架において完全に清算されています。それで、私たちは決して罪の刑罰を受けることはありません。また、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことは、終りの日にイエス・キリストの民の間で実現する、栄光へのよみがえりの最初の出来事です。そのような終りの日に起るべきことが、今から2千年前に、歴史の現実となりました。 イエス・キリストの十字架の死には二つの面があります。その消極的な面は、父なる神さまのみこころにしたがって、ご自身の民の罪を最終的にまた完全に清算することです。イエス・キリストの十字架の死の積極的な面は、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことの頂点です。イエス・キリストは、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。 イエス・キリストが復活のいのち、すなわち、永遠のいのちを獲得してくださったのは、ご自身のためではなく、ご自身の民である私たちのためです。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されました。それに関連して、ヨハネの福音書6章38節〜40節には、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの御言葉が記されています。 コリント人への手紙第1・15章20節には、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 と記されています。イエス・キリストは栄光あるいのちをもってよみがえる神の子どもたちの「初穂」として、死者の中からよみがえられました。この「初穂」は旧約聖書の感謝のささげ物を背景にして語られています。「初穂」はこの名の通り、その畑の最初の収穫です。それは、順序において最初であるだけでなく、それに続くすべてを代表しています。そのことは、これに続く21節、22節において、 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 と言われていることにも表れています。さらに、23節には、 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 と記されています。 イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、「キリストの再臨のときキリストに属している者」のよみがえりの第一歩です。イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは孤立した出来事ではなく、「キリストの再臨のときキリストに属している者」のよみがえりへとつながっているのです。 先ほど、イエス・キリストが復活のいのちを獲得されたのはご自身のためではなく私たちのためであったということをお話ししました。それと関連していますが、イエス・キリストが死者の中から栄光のうちによみがえられたことは、永遠の神の御子としての栄光によみがえられたということではありません。永遠の神の御子としての栄光は、一時も御子から失われることはありません。永遠の神の御子の本質から見ますと、御子は永遠に無限の栄光の神です。イエス・キリストは人の性質をお取りになって来られたときにも、無限の栄光の神であられることには変わりがありません。受肉は、その無限の栄光の神であられる方が新しく人の性質をお取りになったということです。無限の栄光の神であられる方が、人の性質において、人としての経験をされたのです。人の性質をお取りになって来られたときには、まことの神としての無限の栄光は人の目には隠されていましたが、それは無限の栄光が御子から失われたということではありません。御子がご自身の意志で、その無限の栄光をそのまま現すことをされないで、人の目から隠しておられたのです。 御子イエス・キリストが、永遠の神の御子としての無限の栄光を失ったり、取り戻したりすることはありません。御子がご自身の無限の栄光を、ご自身の意志で隠されて、貧しい姿で現れたことはありましたが、そのときも、無限の栄光の主であられたことには変わりがありません。ですから、御子が死者の中からよみがえられたときにお受けになった栄光は、永遠の神の御子としての無限の栄光ではありません。それは、私たちの贖い主として来られたイエス・キリストが、その人の性質においてお受けになった栄光、人が受けるべき栄光です。そもそも、罪の贖いのために死なれるということ自体が、人の性質においてなされることです。人の性質をお取りにならなければ、死ぬこと自体が不可能なことですから、死者の中からよみがえることも不可能なことです。 このように、死者の中からよみがえられたイエス・キリストがお受けになった栄光は、人の性質においてお受けになった栄光です。御子イエス・キリストが、そのお取りになった人の性質において栄光をお受けになったので、私たちもイエス・キリストに結び合わされて、復活の栄光にあずかることができます。 しかし、そのことは単なる終りの日の希望であるだけではありません。先週、復活節を覚えて、ヨハネの福音書11章25節、26節に記されています、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 というイエス・キリストの教えについてお話ししました。いまお話ししていることとの関わりで少し補足を加えつつ、それをまとめておきましょう。 これはベタニヤ村のマルタとマリヤの兄弟ラザロが死んでしまったときに、イエス・キリストがマルタに対して語られたものです。これに先立って、イエス・キリストはマルタに、 あなたの兄弟はよみがえります。 と言われました。するとマルタは、 私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。 と答えました。これは、終りの日のよみがえりを信じているという信仰の告白です。けれども、この信仰の告白においてマルタの目は終りの日に向けられており、目の前におられるイエス・キリストには向けられてはいません。これに対して、イエス・キリストはマルタに、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。 と言われました。 この、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 というイエス・キリストの教えは、強調形の「わたしは・・・です」(エゴー・エイミ・・・)という言葉によって導入されています。これは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主であられることを意味しています。この御名が短縮され、3人称化されて、契約の神である主の「ヤハウェ」という御名になったと考えられます。 繰り返しお話ししていますように、この御名は、神さまが「永遠に在る方」、「何ものにも依存しないで、ご自身で在る方」であられること、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることなどを表していると考えられます。神さまがこのような方であられるので、神さまはすべてのものを造り出し、そのすべてを真実に支えてくださることがおできになるのです。 そればかりでなく、これは契約の神である主の御名として、主がこのような方であられることがご自身の契約の民にとってどのような意味をもっているかを示しています。イエス・キリストは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主として、ご自身が、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 という方であられるのです。それで、 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 と宣言しておられます。 しかし、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主であられるということから、直ちに、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 と宣言できるわけではありません。 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主であられる方であっても、ご自身に対して罪を犯している者を、その罪の完全な清算がなされないままで、よみがえらせることはおできになりません。それは、この方の無限、永遠、不変の義に反することであり、その聖さを冒すことになります。それで、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主であられる方、すなわち、御子イエス・キリストが人の性質をお取りになってきてくださり、私たちの罪を負って十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪を完全に清算してくださったのです。イエス・キリストはこのことのために来てくださった贖い主であられるので、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 と宣言しておられるのです。 マルタは漠然と終りの日のよみがえりがあることに目を向けるのではなく、このように宣言されたイエス・キリストに目を向け、イエス・キリストを信じる必要がありました。それは、私たちにとっても同じです。 イエス・キリストは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主として、また、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 という御名の方として、ご自身を私たちにお与えになりました。イエス・キリストは地上の生涯の最後の夜に弟子たちとともに過越の食事をされました。そのときのことを記しているマタイの福音書26章26節〜28節には、 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。 と記されています。 ここには、イエス・キリストがご自身が十字架の上で流される贖いの血による新しい契約の礼典を制定してくださったことが記されています。この礼典は、イエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった新しい契約のかしらとなってくださり、私たちをそのかしらに連なるものとしてくださっていることを、見える形で示してくださるものです。私たちはこのイエス・キリストの御言葉を信じて、イエス・キリストのからだを表す「パン」と、イエス・キリストの血を表す「ぶどう酒」をいただきます。その時、栄光のキリストが御霊によって私たちの間にご臨在してくださって、私たちに贖いの恵みを与えてくださいます。ことに、私たちをイエス・キリストの十字架の死と死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださり、そこからあふれ出るいっさいの祝福にあずからせてくださいます。私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪をまったく贖われ、イエス・キリストのよみがえりのいのちによって新しく生まれ、そのいのちによって生きる者とされています。 そのことは、私たちの思いの中で起っている観念的なことではありません。御霊によって私たちの間に実現している確かな現実です。先ほど引用しましたコリント人への手紙第1・15章20節には、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 と記されていました。イエス・キリストの復活は、昔話の世界のことではなく、今から2千年前に起った歴史的な事実です。そして、イエス・キリストは「眠った者の初穂」として死者の中からよみがえられました。23節に、 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 と記されていましたように、それは私たちが「キリストの再臨のときキリストに属している者」として、死者の中からよみがえることへと確実につながっています。 しかし、そのすべては自動的に起ることではありません。イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主として、また、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 という御名の主として、御霊によって、すべてを支え、すべてのことを導いてくださっておられるから実現することです。 そればかりではありません。私たちはイエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった新しい契約によって、すでに、イエス・キリストと一つに結び合わされています。このことを実現してくださっているのは、イエス・キリストが父なる神さまの右の座から注いでくださった御霊です。私たちは、この御霊によって、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのちによって生かしてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストと一つに結び合わされています。 新しい契約のもう一つの礼典である洗礼は、私たちがこの御霊を注がれた新しい契約の共同体であるキリストのからだである教会に加えられていることを表すものです。イエス・キリストは私たちに注いでくださった御霊によって、私たちをご自身のからだとしてくださるまでに、私たちをご自身と一つに結び合わせてくださっています。これは、栄光のキリストが御霊によって私たちの間に実現してくださっていることであって、私たちの思い込みによることではありません。それで、ローマ人への手紙6章3節、4節に、 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 と記されていることは、栄光のキリストが遣わしてくださった御霊によって私たちの現実となっています。 6章においてこのように述べたパウロは、8章9節〜11節において、 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と述べています。 ここでは、御霊が私たちのうちに宿っていてくださることが、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」、「キリストの御霊を持」っている、「キリストがあなたがたのうちにおられる」、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられる」と言い換えられています。これは、御霊が私たちのうちに宿っていてくださることの意味を明らかにするためです。これによって、神の御霊が私たちのうちに宿っていてくださることはキリストの御霊を持っているということであり、それは、キリストが私たちのうちにおられるということであることが分かります。栄光のキリストは御霊によって私たちのうちに宿っていてくださるのです。 そして、ここでも、 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と言われていますように、今すでにイエス・キリストの御霊を与えられ、御霊によってイエス・キリストの復活のいのちに生かされている者は、やがて、終りの日のからだのよみがえりにもあずかるようになることが示されています。 このように、栄光のキリストと私たちの結びつきは、すでに、御霊によって確かな現実となっています。そして、これには、さらに終りの日における完成があります。その完成はいまだ私たちの現実となってはいません。このことを、私たちは「すでに、そして、いまだ」(already and not yet)という言葉によって言い表しています。 主の祈りの第2の祈りにおいて私たちが祈り求めている神の国は、贖い主であられるイエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、また、御霊によってご自身の民を治めてくださることを意味していました。それは、イエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった新しい契約に基づいて、私たちを栄光をお受けになった主であられるご自身と一つに結び合わせてくださることによって、すでに、私たちの現実となっています。 その意味では、 御国が来ますように。 と祈ることはおかしいと思われるかもしれません。しかし、私たちはこれには終りの日における完成があることを約束されています。また、そこに至るまでの間に、主の契約の民の前にはさまざまの試練が待ち受けていることも教えられています。それには、外から来るさまざまな試練ばかりでなく、自らの罪が生み出す困難もあります。私たちは、すでに、御霊を受けています。そして、御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされて神の国の民とされています。しかし、私たちがイエス・キリストの復活のいのちによって生きていることが御霊によってますます私たちの豊かな現実となり、終りの日の完成にまで至ることを祈り求めていくべきであるのです。イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主として、また、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 という御名の主として、御霊によって、すべてを支え、すべてのことを導いてくださっておられることを信じて、祈り続けていくのです。 |
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