(第98回)


説教日:2007年4月8日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日は2007年の復活節です。それで、イエス・キリストの復活との関わりを中心として、いまお話ししています、主の祈りの第2の祈りについてお話しします。

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りで私たちは神の国が実現し完成に至ることを祈り求めています。この神の国はご自身の民の贖い主であられるイエス・キリストが支配しておられる御国のことです。
 イエス・キリストはご自身の民の罪をその身に負って十字架にかかって死んでくださいました。それによって、ご自身の民の罪を贖い、ご自身の民をを罪と死の力から解き放ち死と滅びの道から贖い出してくださいました。さらに、イエス・キリストは栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。そして、天に上り父なる神さまの右の座に着座され、そこから御霊を注いでくださいました。イエス・キリストは御霊によって、私たちをご自身と結び合わせてくださり、私たちをご自身の復活のいのちによって生かしてくださるようになりました。そして、ご自身の民をその地上の生涯を通して、御霊によって導いてくださいます。このように、イエス・キリストはご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、御霊によってご自身の民である私たちを生かしてくださり、導いてくださっておられます。これが、御霊によるイエス・キリストの支配の最も基本的な現れです。そして、この御霊によるイエス・キリストの支配が神の国です。


 ヨハネの福音書11章25節、26節には、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このイエス・キリストの教えは、いまお話ししましたイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業に基づいて、イエス・キリストを信じている私たちの現実となっています。
 このイエス・キリストの教えについてはいろいろな機会にお話ししてきましたので復習になりますが、これは、ベタニヤ村のマルタとマリヤの兄弟ラザロが死んでしまったときに、イエス・キリストがマルタに対して語られたものです。ラザロが重い病気になったとき、イエス・キリストはヨルダンの川向こうにおられました。マルタとマリヤはイエス・キリストのもとに使いを送って、ラザロが病気であるということを伝えました。しかし、イエス・キリストはその知らせを受けてもすぐにはベタニヤに行かれないで、2日間そこに留まっておられました。そのようなことがあって、イエス・キリストがベタニヤに来られたときには、ラザロが死んでから4日後のことでした。
 イエス・キリストが2日間ヨルダンの川向こうに留まられたのは、ラザロが死ぬのを待っておられたのではありません。というのは、ベタニヤからイエス・キリストがおられたところまでは徒歩で1日の距離でした。そのことを踏まえて計算しますと、ラザロはベタニヤからの使いが出発して間もなく死んだことになります。使いがイエス・キリストのもとに来たときには、ラザロはすでに死んでいたのです。
 イエス・キリストが2日間そこに留まっておられたのは、その当時の考え方において、死者の霊は自分の身体に戻ろうとして3日間その辺りをさまよっている、というような考え方があったことによっていると考えられます。イエス・キリストがその考え方を受け入れておられたという意味ではありません。人々の間にそのような考え方があったことを踏まえておられたという意味です。イエス・キリストはこのことを通して、ご自身が、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

というお方であられることをあかしされようとしておられました。そのためには、ラザロが確かに死んでしまったことを、人々が知っていなければなりません。何らかのことでラザロの魂が戻ってきて、ラザロが蘇生したというような説明がなされる可能性をなくされたのです。イエス・キリストがラザロの葬られた墓に行かれた時のことを記している39節には、

イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

と記されています。すでに、ラザロの体の腐敗が始まっていました。
 これがイエス・キリストがベタニヤに来られたときの状況でした。このような状況にあって、最初にイエス・キリストを出迎えたのはマルタでした。20節〜28節には、マルタとイエス・キリストのやり取りが記されています。21節、22節にありますように、マルタは、イエス・キリストに向かって、

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。

と言いました。
 ここには、イエス・キリストに対するマルタの信仰が表わされています。しかし、このマルタの言葉が何を意味しているのか、分かりにくいところがあります。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

という言葉は、それまでにイエス・キリストがさまざまな病人をいやしてこられたことにおいてあかしされているイエス・キリストの御力とあわれみを信じていることの告白でしょう。問題は、

今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。

という言葉です。これは、その時にもなお、イエス・キリストがラザロをよみがえらせてくださるという信仰を述べているように見えます。しかし、先ほど引用しましたように、ラザロの葬られている墓の石を取りのけるようにと言われたイエス・キリストに対してマルタは、

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。

と答えています。そして、40節に記されていますように、イエス・キリストはそれにお答えになって、

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。

と言われました。ですから、マルタはイエス・キリストがその時もなおラザロをよみがえらせてくださるとは信じてはいなかったようです。
 そうしますと、先ほどの、

今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。

というマルタの言葉は、ラザロが死ぬことを止めることはできなかったとしても、それでも、自分はイエス・キリストが神から遣わされたメシヤであられることを信じている、という意味での信仰の告白であると考えられます。
 このことの背景には、37節に記されている、

盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。

という言葉に代表されるような、人々の反応があったからであると思われます。「盲人の目をあけたこの方」でもだめだったというような失望の表明でしょうか。それに対して、マルタは、自分の信仰は変わっていないということを、言い表わしているのだと思われます。これは、このときのマルタの精一杯の信仰告白でした。
 これに対して、23節に記されていますように、イエス・キリストはマルタに、

 あなたの兄弟はよみがえります。

と言われました。するとマルタは、

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。

と答えました。
 これは、その当時のユダヤの社会の人々の一般的な考え方を、そのまま述べたものです。生きている間に神さまを信じて、神さまの戒めに従って生きていた者は、世の終わりに、いのちによみがえるということです。サドカイ派は死者のよみがえりを信じてはいませんでしたが、少数派でした。一般にはパリサイ派の教えにしたがって死者のよみがえりが信じられていました。マルタは、イエス・キリストにお会いするまでの間に、マルタとマリヤを慰めるためにやって来た人々から、「ラザロはよみがえりますよ。」と言われ続けたことでしょう。
 これは、私たちの社会で、愛する人を失った悲しみの中にある人に向かって、その人の愛する人は「天国に行った。」と言うことと同じです。もっとも、日本の社会では、そのように言う人自身が本当に「天国」があるとは思ってはいません。しかし、その当時のユダヤの人々は、世の終わりの死者のよみがえりを本気で信じていました。
 そのようなわけで、イエス・キリストが、

 あなたの兄弟はよみがえります。

と言われた時、マルタは、また同じ慰めの言葉を聞いたと思ったようです。それで、24節に記されていますように、

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。

と、「終わりの日のよみがえり」に対する信仰をラザロに当てはめて述べました。
 しかし、これは、イエス・キリストに対する信仰告白ではありません。マルタはイエス・キリストに向かって、

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

と言いました。どんなに重い病気であっても、ラザロが生きている間なら何とかしていただけたはずだという思いの表明でした。しかし、先ほどの

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。

という言葉から分かりますように、ラザロが死んでから4日も経ってしまった今では、イエス・キリストでもどうすることもできないと思っています。ですから、この時、マルタの望みはイエス・キリストから離れて、「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえる」ということに移っていました。そして、イエス・キリストが、

 あなたの兄弟はよみがえります。

と言ってくださったのは、他の人々と同じような慰めのことばを言ってくださったものと受け止めたと考えられます。
 このようなマルタに対して、イエス・キリストは、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

と言われました。
 この、

 わたしは、よみがえりです。いのちです。

というイエス・キリストの教えは、強調形の「わたしは・・・です」(エゴー・エイミ・・・)という言葉によって導入されています。これは、イエス・キリストがご自身のことを啓示してくださった言葉です。
 この時、ラザロが死んでしまっているということに対してマルタは「終わりの日のよみがえり」への信仰を告白しました。しかし、この信仰告白にはイエス・キリストの入る余地がありませんでした。これに対して、イエス・キリストは、

 わたしがよみがえりです。いのちです。

と言われて、マルタの信仰をご自身へと向けさせておられます。「終わりの日のよみがえり」があるということがラザロのよみがえりを保証するのではなく、イエス・キリストが、

 わたしがよみがえりです。いのちです。

というお方であられることが、それを保証するのです。
 実は、これと同じ強調形の「わたしは・・・です」をもってご自身のことを示してくださったイエス・キリストの言葉は、ヨハネの福音書に7回出てきます。それらの言葉を見てみましょう。最初の言葉は、6章35節に、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

と記されています。次に、8章12節に、

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

と記されています。3つ目は、10章7節と9節に、

 わたしは羊の門です。
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

と記されています。4つ目は、同じ10章の11節と14節に、

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

と記されています。そして、5つ目が、イエス・キリストがマルタに言われた、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

という教えです。6つ目は、14章6節に、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

と記されています。最後の7つ目は、15章1節と5節に、

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

と記されています。
 これらの言葉は、すべて、イエス・キリストを信じている者たちにとって、イエス・キリストがどのような意味をもった方であられるかを示しています。たとえば、最初の、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

というイエス・キリストの教えは、イエス・キリストが「いのちのパン」であられるので、イエス・キリストを信じている私たちは「決して飢えることがなく・・・どんなときにも、決して渇くことが」ないということを示しています。
 同じように、イエス・キリストがマルタに言われた、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

という教えは、イエス・キリストが「よみがえり」であり「いのち」であられるので、イエス・キリストを信じている私たちは「死んでも生きる」し、すでに、永遠のいのちをもつ者、決して死ぬことがない者とされています。
 すでに、主の祈りの第1の祈りである、

 御名があがめられますように。

という祈りとの関わりでお話ししましたが、この強調形の「わたしは・・・です」(エゴー・エイミ・・・)というイエス・キリストの言葉は、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。このヤハウェという御名は固有名詞としての神さまの御名であって、神さまがご自身がどのような方であられるかを啓示してくださったものです。出エジプト記3章に記されていますが、神さまはこのご自身の御名がどのような意味をもっているかをモーセに示してくださいました。それによりますと、このヤハウェという御名のもととなっているのは、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名です。この御名は、神さまが存在されることを強調するものです。神さまが「永遠に在る方」、「何ものにも依存しないで、ご自身で在る方」であられること、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることなどを表していると考えられます。神さまおひとりがこのように存在される方です。神さま以外のすべてのものは、神さまによって造られたものとして、神さまに支えていただいて存在しています。その意味において、神さまこそが真の意味において存在される方であり、この世界のすべてのものはその存在を全面的に神さまに負っています。
 この、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という神さまの言葉全体が神さまの御名を表しています。神さまは続いて、これを、

 わたしはある。(エヒイェー)

というように短縮しておられます。この、

 わたしはある。

をギリシャ語に訳せば、「エゴー・エイミ」となります。そして、「ヤハウェ」という御名は、

 わたしはある。(エヒイェー)

という御名が3人称化されたものであると考えられます。
 いずれにしましても、イエス・キリストが、強調形の「わたしは・・・です」(エゴー・エイミ・・・)という言葉によって導入される7つの言葉によってあかしされている方であられることは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。そればかりではありません。これは、ただ、イエス・キリストがそのような方であられるということを示して終るものではありません。さらに、イエス・キリストがそのような方であられることが、イエス・キリストを信じている私たちの今の在り方と将来の在り方、さらには、永遠の在り方を決定しているということを示しています。主の民としての私たちの歩みは、イエス・キリストがどのような方であられるかによって決定されています。これが、イエス・キリストを信じる信仰の特徴です。主の民としての私たちの在り方を決定しているのは、私たちの信仰そのものの力ではなく、私たちが信仰によって受け入れているイエス・キリストご自身です。イエス・キリストが、私たちのすべてを支え、導いてくださるのです。
 いまお話ししている、

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りとの関わりで言いますと、このことこそが、神の国の中心にあることです。イエス・キリストが王として私たちを治めてくださることが、主の祈りの第2の祈りで私たちが祈り求めている神の国です。そのイエス・キリストはご自身のことを、

 わたしがいのちのパンです。
 わたしは、世の光です。
 わたしは羊の門です。
 わたしは、良い牧者です。
 わたしは、よみがえりです。いのちです。
 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
 わたしはまことのぶどうの木です。

とあかししてくださっています。そして、このような方として私たちを治めてくださり、私たちをご自身との関係において生かしてくださっているのです。私たちが祈り求めている神の国は、その王であられるイエス・キリストが、これらの御言葉に示されている方として私たちを治めてくださっていることにあります。
 復活節ということで特に注目しているイエス・キリストの教えとの関わりで言いますと、イエス・キリストが、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の主であられるだけでなく、その御名の主であられる方がご自身の民の罪を負って十字架にかかって死んでくださり、ご自身の民のいのちとなってくださるために栄光を受けてよみがえってくださったので、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

ということが私たちの現実となっています。

 


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