(第97回)


説教日:2007年4月1日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りの中心主題である神の国は、贖い主であられるイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて、御霊によって治めておられる御国のことです。
 言うまでもなく、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業には、十字架の死と死者の中からのよみがえりが関わっています。今週は受難週でもありすので、イエス・キリストの十字架の死を中心として、贖いの御業の意味を、神さまの契約という観点から見てみましょう。


 天地創造の初めに、神さまは人をご自身のかたちにお造りになりました。神のかたちに造られた人は、初めから造り主である神さまを知っており、神さまに向くものとして造られています。人は造られたその時から神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちにありました。しかし、神さまはその存在と属性のすべてにおいて無限、永遠、不変の栄光に満ちた方です。これに対して、人は神さまによって造られたものであり、あらゆる点において有限なものです。そのようにあらゆる点において有限な人が神さまとの愛にある交わりのうちに生きることができるためには、私たち人間に合わせた言い方ですが、神さまが限りなく身を低くして、人にご自身を現してくださり、人とともにいてくださらなければなりません。人が無限、永遠、不変の栄光の神さまのところにまで上っていくことはできません。そのように、神さまが限りなく身を低くして人にご自身を現してくださり、人とともにいてくださることを、神さまのご臨在と呼びます。
 神さまがそのようにして人にご自身を現してくださり、人とともにいてくださること、すなわち、神さまのご臨在は、神さまの一方的な愛に基づく恵みによることです。そして、神さまの愛と恵みによるご臨在は神さまの契約に基づくことです。
 神さまの契約を私たちが普通に考える近代の市民律法における契約と同じように考えてはなりません。神さまの契約は、ある取り引きに関して双方が合意して結ぶ契約とは違います。神さまはご自身の私たちに対する一方的な愛と恵みに基づいて、人を神のかたちにお造りになり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに入れてくださいました。そのご自身との愛にあるいのちの交わりを私たちに保証してくださっているのが神さまの契約です。神さまはご自身の契約に基づいて、神のかたちに造られた人の間に、また人のうちにご臨在してくださいます。繰り返しになりますが、この神さまのご臨在は神さまの契約に基づくものです。そして、神さまの契約は神さまの一方的な愛と恵みによって私たちに与えられています。私たちにそれを求める権利があるのではありません。いわば、神さまが一方的な愛と恵みによって私たちとともにいてくださることをご自身の義務としてしてくださっているのです。それで、神さまのご臨在は、神さまの一方的な愛と恵みによるものですし、一時的なものではなく、気ままなものでもなく、神さまの契約によって保証された永続的で確かなものであるのです。
 創世記2章には神のかたちに造られた最初の人がエデンの園に置かれたことが記されています。そのエデンの園は、神さまがご自身がご臨在される場所として聖別してくださったものです。エデンの園の本質、エデンの園をエデンの園としているものは、そこに神さまのご臨在があるということです。エデンの園の豊かさは、神さまのご臨在の豊かさを映し出すものでした。エデンの園という豊かな園があり、そこに神さまのご臨在があったという順序ではなく、そこが神さまのご臨在の場として聖別されているので、豊かな園であったということです。ですから、人が歴史と文化を造る使命を果たすために増え広がっていくとエデンの園からあふれ出てしまう人とそうでない人が出てきて不公平になるということはなかったと考えられます。神さまのご臨在はエデンの園に固定化されているわけではなく、神のかたちに造られた人が主の御名によって生きているところには、主のご臨在もあります。それで、人が歴史と文化を造る使命を果たすために地に増え広がるなら、人が行った所が主のご臨在からあふれ出る祝福によって「エデン化」されていたと考えられます。
 エデンの園の中央にあった「いのちの木」は、見えない神さまのご臨在がそこにあり、神のかたちに造られた人が、そこにご臨在される神さまとの愛にあるいのちの交わりにあずかって生きていることを見える形で示し、それを保証するものでした。その神さまとの愛にある交わりが神のかたちに造られた人のいのちの本質ですので、その木は「いのちの木」と呼ばれます。
 そのようにして、神さまがエデンの園にご臨在されて、神のかたちに造られた人をご自身との交わりにあずからせてくださることは、神さまの契約によることです。人は初めから神さまの契約のうちにあるものとして造られています。いったん神のかたちに造られた後で、神さまとの契約に入れていただいたのではありません。初めから神さまのご臨在に触れ、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として造られました。そのための契約が一般に「わざの契約」と呼ばれる契約です。別の機会にに詳しくお話ししましたが、この「わざの契約」という呼び方にはいろいろと問題があるということで、「創造の契約」と呼ぶ人々もいます。私もこの「創造の契約」という呼び方の方がいいと考えています。
 先週は、マタイの福音書24章37節〜42節に記されているイエス・キリストの教えを中心として、人がなすすべてのことは造り主である神さまへの応答としての意味をもっているということをお話ししました。飲んだり食べたりというごく日常的なこと、めとったり嫁いだりという、どの時代においても必ずなされること、畑を耕すことや臼をひくことといった、今日のこととして言えば、職場や家庭での営みなど、あらゆることが造り主である神さまに対する応答としての意味をもっています。そのように何かをするだけでなく、心のうちで考えることも、神さまへの応答としての意味をもっています。それは、いまお話ししましたように、人は造り主である神さまの契約の中にあるものとして神のかたちに造られ、初めから神さまのご臨在の御前に生きるものであり、神さまとの交わりにあずかっているからです。
 人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後も、人がなすすべてのことが神さまへの応答としての意味をもっていることには変わりがありません。人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったとしても、人が神のかたちに造られていることには変わりがありません。本来、神さまとの愛にある交わりに生きるべきものであることには変わりがありません。それでは、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって何が変わったのでしょうか。それは、本来、神さまとの愛にある交わりのうちに生きることの中で、あらゆる点において神さまに応答するはずのものが、神さまに背を向けるという応答をするようになったということです。本来、人がなすあらゆることは神さまへの愛を表すもの、愛による応答でした。それが、神さまに背を向け、神さまをあざけり、神さまへの敵意を表すという形での応答をするものになってしまったのです。
 これによって、人は最初の契約である「創造の契約」の違反者になってしまいました。その契約が取り消されたのではありません。その契約の違反者になってしまったのです。すべての人は、最初の人アダムにあって、神のかたちに造られ、「創造の契約」のうちにあるものとして造られました。そして、すべての人は最初の人アダムにあって、罪を犯し、神さまの御前に堕落した者、その意味で「創造の契約」の違反者として生れてきます。造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりを失い、死の力に捕えられているものとして生れてきます。ローマ人への手紙5章12節には、

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―― それというのも全人類が罪を犯したからです。

と記されています。
 御子イエス・キリストは、そのような状態になってしまったご自身の民の贖い主として来てくださいました。そのために、御子イエス・キリストはご自身の民と同じ人の性質を取って来てくださいました。ヨハネの福音書1章14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。また、ヘブル人への手紙2章14節〜17節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

と記されています。
 御子イエス・キリストは、アダムにあって堕落し腐敗した人の性質ではなく、創造の御業において造り出された本来の人の性質を取って、「まことの人」としてこの世に来られました。その意味で、イエス・キリストは最初の契約である「創造の契約」の下にある方として来られました。ですから、イエス・キリストの生涯におけるすべてが、神である主との契約関係にあり、神である主への応答としての意味をもっていたのです。そして、イエス・キリストはその生涯のすべての点において、父なる神さまを愛し、その愛を父なる神さまのみこころに従うことにおいて現されました。すべてのことにおいて、父なる神さまへの愛の応答をされたのです。そのことが、ピリピ人への手紙2章6節〜8節に、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

と記されています。御子イエス・キリストは、父なる神さまを愛しておられ、ご自身を私たちの罪のためのなだめの供え物とするという父なる神さまのみこころを愛をもってお受け入れになりました。十字架の死を前にしてのゲッセマネの園におけるイエス・キリストの祈りに示されていますように、それは簡単なことではありませんでした。しかし、イエス・キリストは父なる神さまを愛して、そのみこころに従い通されました。そのことによって、父なる神さまの私たちに対する愛をあかししてくださいました。ローマ人への手紙5章8節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されています。また、ヨハネの福音書3章16節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と記されています。
 このようなイエス・キリストの十字架の死には積極的な面と消極的な面があります。
 その消極的な面は、ご自身の民の罪を、最終的にまた完全に清算することです。すべての人は、アダムにあって罪を犯し、神さまの御前に堕落し腐敗した者として生まれてきます。それで、すべての人は「創造の契約」ののろいの下にあります。イエス・キリストは、ご自身の民の身代わりとなって、十字架の上で、ご自身の民の上に下されている「創造の契約」ののろいを余すところなくお受けになりました。それによって、ご自身の民を「創造の契約」ののろいの下から贖い出してくださいました。ガラテヤ人への手紙5章13節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

と記されている通りです。
 イエス・キリストはご自身の民の罪を負って十字架にかかってくださって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを余すところなくお受けになりました。これは世の終りになされるべき罪の最終的な清算としてのさばきでした。この父なる神さまの御手によって御子イエス・キリストに下されたさばきによって、イエス・キリストの民の罪は、最終的に、また、完全に清算されています。神さまはそのことを福音の御言葉において私たちにあかししてくださいました。それで、福音の御言葉に基づいて、イエス・キリストを贖い主として信じ、主として受け入れている私たちの罪は完全に清算されています。そのようにして、私たちの罪に対する最終的なさばきはイエス・キリストの十字架において終っていますので、私たちは二度と罪のさばきを受けることはありません。
 それでは、イエス・キリストの十字架の死の積極的な面は、何でしょうか。イエス・キリストは私たちの贖い主となられるために、本来の人の性質をお取りになって来てくださいました。その地上の生涯は、「創造の契約」の下にある生涯でした。イエス・キリストはその地上の生涯を通して、父なる神さまのみこころに従い通されました。その従順は父なる神さまへの愛の現れです。そして、それは、ご自身が私たちの身代わりとなってくださって、私たちの罪に対する刑罰を余すところなく負ってくださるという父なる神さまのみこころにまで従うものでした。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたのです。イエス・キリストの十字架は、イエス・キリストが父なる神さまを愛してそのみこころに従い通されたことの頂点でした。
 イエス・キリストは、この従順に対する報いとして栄光をお受けになりました。それが復活の栄光です。先ほど引用しましたピリピ人への手紙2章6節以下、11節までには、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。
 イエス・キリストが、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いとしてお受けになった栄光は、「創造の契約」の祝福としての栄光です。その意味で、この栄光は、アダムが「蛇」を通して働きかけてきたサタンからの誘惑を退けつつ、最後まで自分に委ねられていた使命を中心とする神である主のみこころに従い通していたとしたら、その報いとして受けていたであろう栄光です。また、その意味で、イエス・キリストがお受けになった栄光は、天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになって、「創造の契約」の下にあるものとされたときに定めておられた栄光と同じものです。
 イエス・キリストが、その十字架の死に至るまでの生涯を通しての従順によって栄光をお受けになったことは、人を神のかたちにお造りになって歴史と文化を造る使命をお委ねになった神さまの、創造の初めからのみこころを実現することです。それで、これを、イエス・キリストの十字架の死の「積極的な面」と呼ぶわけです。
 これに対して、ご自身の民の身代わりとなって、十字架の上で「創造の契約」ののろいをすべてお受けになったことは、人類がアダムにあって罪を犯して堕落してしまうという、本来あってはならなかったことに対処するものです。その意味で、これを、イエス・キリストの十字架の死の「消極的な面」と呼ぶわけです。
 このように、イエス・キリストは、ご自身の民の「かしら」として、「創造の契約」の下に立たれました。ただし、それは、ご自身の民をご自身に仕えさせるためではありません。アダムにあって堕落してしまっているご自身の民の身代わりとなって「創造の契約」ののろいをお受けになることを通して、ご自身の民を「創造の契約」ののろいの下から贖い出すためのことでした。マルコの福音書10章45節には、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 また、イエス・キリストは、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして復活の栄光をお受けになりました。その栄光は、アダムが契約の神である主を愛して、最後まで自分に委ねられていた使命を中心とする主のみこころに従い通していたとしたら、その報いとして受けていたであろう栄光です。このようにして、イエス・キリストは十字架の死に至るまでのご自身の生涯を通して「創造の契約」を成就し、「創造の契約」の祝福として与えられる復活のいのち、すなわち、永遠のいのちを獲得してくださいました。
 これは、ご自身のためではなく、私たちのためのことです。イエス・キリストはその十字架の死によって私たちの罪を最終的に、また完全に贖ってくださっただけではありません。私たちが罪のさばきを受けないようにしてくださっただけではありません。そのように罪を贖われた私たちを、さらに、ご自身の復活のいのちによって生かしてくださるために、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられたのです。これによって、私たちは再び造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者とされています。しかも、最初に造られたときのアダムがあずかっていた栄光よりもさらに豊かな栄光にある交わりのうちに生きる者としていただいているのです。この、さらに豊かな栄光にある神さまとの愛の交わりを永遠のいのちと呼びます。
 イエス・キリストが私たちをご自身が成し遂げられた贖いの御業にあずからせてくださって、罪を最終的にまた完全に清算してくださっていること、また、ご自身の復活のいのちによって生かしてくださっていること、そして、豊かな栄光に満ちた父なる神さまとの愛にある交わりのうちに生きる者としてくださっていること、そのすべては契約によって保証されています。その契約が、イエス・キリストが十字架の上で流された血による契約です。これは一般に「恵みの契約」と呼ばれています。この「恵みの契約」という呼び方は「わざの契約」との対比での呼び方です。それで、最初の契約を「わざの契約」ではなく「創造の契約」と呼ぶ人々は、「恵みの契約」ではなく「贖いの契約」とか「救済の契約」と呼びます。私は、いろいろな理由があって「救済の契約」と呼んだ方がいいと考えています。
 いずれにしましても、主の祈りの第2の祈りにおいて私たちが祈り求めている神の国は、ご自身の民のためにこのすべてを成し遂げてくださったイエス・キリストが、その贖いの恵みによって治めてくださる御国です。それは、イエス・キリストの血によって確立された契約に基づいて成り立っている御国です。私たちはイエス・キリストの十字架の死によって罪を最終的に、また完全に贖っていただいたばかりか、その復活のいのちによって新しく生まれ、その復活のいのちによって生かされている者として、神の国の歴史と文化を造るように召されています。そして、その召しに生きながら、父なる神さまが御子イエス・キリストを通して、また御霊のお働きによってこの御国を完成に至らせてくださることを祈り求めています。

 


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