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説教日:2007年3月25日 |
昨日は石松和哉兄弟、愛美姉妹の結婚式が行われました。そのご結婚も、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの恵みにあずかり、その復活のいのちによって生かされている者としての結婚でした。そこに至るまでのすべての中に、また、これからの歩みの上にその贖いの恵みに基づく御霊のお支えとお導きがあります。その意味で、これは神の国の歴史の一コマ、神の国の歴史と文化を構成する一つとしての意味をもっています。 ここでお二人の結婚のことを取り上げたのは、それが分かりやすい事例であるからです。しかし、そのような特別な事例だけでなく、同じ贖いの恵みによってお働きになる御霊のお導きにしたがって生きている者にとっては、飲むことも食べることも、神の国の歴史と文化の一コマとしての意味をもっています。 そのことを示していると思われる御言葉を見てみましょう。マタイの福音書24章37節〜42節には、 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。 と記されています。 ここでは、イエス・キリストが再臨される日のことが「ノアの日」にたとえられています。私たちは創世記6章に記されているノアの時代の様相から、その時代において人の罪が極まり、罪の升目を満たしてしまったために、終末的なさばきを招いたことを知らされています。創世記6章5節〜7節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 と記されています。ここでは、人の「心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」ようになっていたことが示されています。「みな」、「いつも」、「悪いことだけに」という言葉の連なりによって悪が徹底的なものになっていたことが示されています。また、同じ6章の11節、12節には、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。ここでも、人の罪が極まってしまっていることが繰り返されています。 これがノアの時代の実情でした。けれども、イエス・キリストはこのことには触れておられません。イエス・キリストが取り上げておられるのは、 人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 ということです。これは日常生活の最も基本的なことで、いつの時代のにおいても人がなしていることです。ノアの時代のことをお話しになったイエス・キリストがその時代の暴虐に満ちた悪のことには触れないで、このようなごく日常的なことだけを取り上げておられるのは、一つの中心にある問題を際立たせるためであると考えられます。それは、これに続いて記されています、 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。 という御言葉に示されています。人々は何が分からなかったのでしょうか。言うまでもなく、神さまがすべての人をおさばきになるということです。そして、それは他ならぬ自分たちに当てはまることだということです。 このことへのわきまえを欠いているということは、やはり、いつの時代においても見られることです。それは、私たちの時代の現実でもあります。また、ペテロの手紙第2・3章3節、4節には、それが終りの日の現実でもあるということが示されています。そこには、 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 と記されています。 ここに取り上げられている「あざける者ども」は、 何事も創造の初めからのままではないか。 と言っています。この世界が神さまの創造の御業によって造られたものであることを認めてはいるのです。けれども、この世界は神さまがお造りになったこの世界の仕組みで動いているのであって、この世界の動きと人間の歴史に神さまが関わる余地はないというような考え方をしているわけです。そして、そのような世界観と歴史観をもっているために、その生き方が「あざけり」によって特徴づけられています。その「あざけり」は、 キリストの来臨の約束はどこにあるのか。 という言葉に示されていますように、神さまの啓示の御言葉に対する「あざけり」です。神さまの啓示も神さまの私たちに対するお働きの一つですから、そのような「あざける者ども」の世界観、歴史観からすれば、神さまの啓示が与えられる可能性も否定されることになります。それで、神さまの啓示の御言葉に対しては「あざけり」をもって応ずることになります。 また、ここでは、神さまの啓示に対して「あざけり」をもって応じる者たちの生き方が、 自分たちの欲望に従って生活し というようなものに傾いていってしまうことが示されています。そして、これに対してペテロは、5節、6節において、 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 と述べて、応じています。 このように、ノアの時代の人々は、神さまがすべての人をおさばきになるということをわきまえていませんでした。そして、それは造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまった人間すべてに当てはまる現実です。 このことの奥には、神さまが人を神のかたちにお造りになっているという事実があります。人は造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして、神のかたちに造られています。神のかたちの本質的は自由な意志を与えられているものとして、自らのあり方を自らの意志で選び取ることができる人格的な存在であること、そして、その意志が神のかたちの本質的な特性である愛に導かれて働くことにあります。人は自らの意志が神のかたちとしての自らの本質的な特性に導かれているときに真の意味において自由であることができます。人格的なな存在としての人の自由は愛を生み出す自由であり、造り主である神さまと隣人を愛することに現れてくる自由です。人はこのような本質と特性をもつ神のかたちに造られています。言い換えますと、人は造り主である神さまとの関係のうちにあるもの、また、隣人との関係にあるものとして造られているのです。 動物たちも造り主である神さまによって造られたものであり、神さまによって支えられて存在しています。けれども、動物たちはそのことを知りません。動物たちは神のかたちに造られていないので、造り主である神さまに対するわきまえがなく、造り主である神さまを知らないからです。 しかし、人は造り主である神さまを知っているもの、神さまに向くものとして、神のかたちに造られています。ですから、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、造り主である神さまを神としなくなっても、自らのイメージに合う「神」を作り上げ、それに献身してしまいます。それが、宗教的な「神」でなくても、お金や会社や社会体制や国家などが「神」の位置に祭り上げられてしまうことがあります。そして、祭り上げた人が自らそれに縛られるほどに身をささげてしまうことがあるのです。 このように、人は基本的に造り主である神さまとの関係にあって生きるものとして造られています。人がそのことを認めないとしても、その人自身が造り主である神さまの御手の支えによって存在し、生かされていることには変わりがありません。マタイの福音書5章44節、45節には、有名な、 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 というイエス・キリストの戒めが記されています。今このイエス・キリストの教えそのものの意味を離れてお話ししますが、ここには、神さまがご自身を信じて頼る者だけでなく、ご自身を否定し、ご自身に逆らっている者たちをも造り主としての真実をもって支えておられることが示されています。ここに出てくる「悪い人」は、 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 という戒めに対する根拠の中に出てきます。それで、この「悪い人」は神さまに敵対している者たちであると考えられるわけです。神さまはそのような人々をも真実に支えてくださっています。また、使徒の働き17章24節〜28節には、アテネの人々に対して語られた使徒パウロのあかしが記されています。そこには、 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、「私たちもまたその子孫である。」と言ったとおりです。 と記されています。 人はすべて神さまによって造られたものであり、その御手のお支えの中で生きています。その意味で、造り主である神さまとの関係を離れて存在することはできません。このような関係を「形而上的関係性」と呼びます。これは、すべての人に当てはまる造り主である神さまとの関係性です。 このことに基づいて言えることですが、人がなすすべてのことは、造り主である神さまへの応答としての意味をもっています。人は神のかたちに造られて、自分の意志で自分のなすことを選び取っています。そのような人がなすことは倫理的なものであり、造り主である神さまへの応答としての意味があるのです。これを「倫理的関係性」と呼ぶことができます。自由な意志がなく人格的な存在ではない動物には、造り主である神さまとの間に「倫理的関係性」はありません。この「倫理的関係性」のゆえに、人がなすすべてのことは造り主である神さまへの応答としての意味があるのです。 その応答はすべてよい応答であるというわけではありません。詩篇14篇1節には、 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。 と記されています。これは、ここで「愚か者」と言われている人が、 神はいない。 ということを根本的な前提とし、根本原理として物事を考え、理解し、それにしたがって生きているということを意味しています。このような、ものの見方や考え方や生き方さえも、造り主である神さまへの応答としての意味をもっています。造り主である神さまに対して、 神はいない。 という根本的な原理、原則にしたがって生きるという応答をしているということです。これはまことにネガティヴな応答をしているということになります。そして、御言葉はこれが神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっている人間の現実であると教えています。 このことを踏まえて、先ほど引用しました、 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。 という御言葉を見ますと、ノアの時代の人々の根本的な問題が見えてきます。その根本的な問題は、ノアの時代の人々が神さまのさばきがあることをわきまえていなかったということの奥にあることです。それは、その時代の人々が、自分たちが造り主である神さまとの関係のうちにあるものとして造られており、自分たちのなすすべてのことが神さまへの応答としての意味をもっているということを見失っていたということです。 イエス・キリストはこれに続いて、 人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。 と言われました。これも、 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。 という戒めに至るものですので、終りの日のあることをわきまえて生きることを求める教えです。そのように、終りの日のあることをわきまえて今を生きることを「終末論的」な視野において生きる生き方と言うことができます。 ここでイエス・キリストが取り上げておられる二つの事例も、ごく日常的に見られることです。最初の事例で「畑にふたりいると」と言われている時の「畑」は単数形ですので、同じ畑で二人の人が働いている可能性があります。もちろん、そうでない可能性もあります。また「ふたりの女が臼をひいていると」と言われているときの「臼」も単数形で、二人の女性が同じ「臼」をひいている可能性があります。そうではないとしても、ここでは、二人の男性あるいは二人の女性がまったく同じことをしているということが大切なことです。ここには、一方は悪いことをしており、もう一方はよいことをしているという区別はありません。また、一方は真面目に取り組み、一方はいい加減な仕事をしていたというような区別もありません。二人はまったく同じことをしています。それなのに、その二人のうち、 ひとりは取られ、ひとりは残されます。 と言われています。この違いはどこから来るのでしょうか。 それは、これまでお話ししてきたことからお分かりのことと思います。見た目においてまったく同じ仕事を、まったく同じようにしていても、その本質的なところにおいて、まったく違う意味があるのです。すでにお話ししましたように、神のかたちに造られている人のなすすべては、造り主である神さまに対する応答としての意味をもっています。人がめとったり嫁いだりするのは、神さまが人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになり、男性と女性にお造りになったからです。人がめとったり嫁いだりすることは、人をそのようにお造りになった神さまへの応答としての意味をもっています。神のかたちに造られて神さまに応答するものとして造られている人間が、先ほどの、 神はいない。 という根本的な原理、原則にしたがってめとったり嫁いだりしているとしたらどうなるでしょうか。その場合は、めとったり嫁いだりすること自体が、その、 神はいない。 という根本的な原理、原則を表現するものとなってしまいます。神さまにそのような応答をすることになってしまいます。 一方、イエス・キリストの贖いの恵みにあずかってのことですが、自分たちがめとったり嫁いだりすることが、造り主である神さまのみこころから出たことであることを認め、造り主である神さまのみこころに沿うことであることを信じて、めとったり嫁いだりすることは、これとまったく違う応答をすることになります。そして、このことが、神の国の歴史と文化の一コマを造ることになります。 このことは、飲んだり食べたりすること、畑を耕すこと、臼をひくことにも、そのまま当てはまります。ごく日常的なことにおいてまったく同じことをしていながら、造り主である神さまに対して、まったく別の応答をしているということがあります。そして、めとったり嫁いだりすること、飲んだり食べたりすること、畑を耕すこと、臼をひくことのようなごく日常的なことも、それが造り主である神さまの備えてくださったことであることを認め、神さまのみこころに沿ってなされるなら、神の国におけること、神の国の歴史と文化を構成することとしての意味をもっています。コリント人への手紙第1・10章31節には こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 と記されています。 |
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