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説教日:2007年3月11日 |
これまで、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業によって本来の意味を回復された歴史と文化を造る使命と、イエス・キリストが弟子たちに委ねられた「大宣教命令」の関係についてお話ししてきました。 これまで繰り返しお話ししたことですが、エペソ人への手紙1章20節〜23節を初めとして、新約聖書のいくつかの個所では、ご自身の民のための罪の贖いを成し遂げられ、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられるということが示されています。この場合の「原理的に成就しておられる」ということは、そのことが実現するための条件はすべて整えられており、すでにそのことが実現し始めているということ、そして、それは必ず完成に至るということを意味しています。そして、私たちは歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストと一つにされています。「大宣教命令」はこのことに基づいて与えられたものです。 ですから、私たちは天地創造の初めに人が神のかたちに造られた時の状態に戻って、もう1度、ゼロから歴史を文化を造るように召されているのではありません。 イエス・キリストは地上の生涯において十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて栄光をお受けになりました。この栄光は、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて最後まで神である主のみこころに従い通していたなら受けていたであろう栄光です。それは、被造物に許される限りでの充満な栄光です。この栄光は父なる神さまのご臨在の最も近くまで近づいて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになるために与えられる栄光です。 仮に、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、最後まで神である主のみこころに従い通して、この栄光を受けていたとしたらどうなるでしょうか。それで、人が歴史と文化を造ることがなくなるわけではありません。その充満な栄光を受けても人は被造物であることには変わりがありません。その存在は時間的なものであり、歴史と文化を造る者であることには変わりがありません。どこが変わるかと言いますと、そのような栄光を受けて父なる神さまのご臨在の最も近くにおいて生きるものとして歴史と文化を造るようになるということです。 すでにお話ししましたように、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて栄光をお受けになり、父なる神さまの右の座に着座されたことは、歴史と文化を造る使命を原理的に成就することでした。そして、私たちは御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされて、栄光のキリストの復活のいのちによって新しく生まれた者、栄光のキリストの復活のいのちによって生きる者となりました。このことによって、私たちは、先ほどの、栄光を受けて父なる神さまのご臨在の最も近くにおいて生きる者として歴史と文化を造る者となっているのです。 そのようにして造られる歴史と文化を「新しい時代」の歴史と文化と呼ぶことができます。これは、また、「来たるべき時代」の歴史と文化とも呼ぶことができます。この場合の「新しい時代」や「来たるべき時代」とは、終りの日に再臨される栄光のキリストの再創造のお働きによって造り出される「新しい天と新しい地」の歴史のことを意味しています。この「新しい天と新しい地」のことは、黙示録21章1節〜4節に、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されています。 私たちは御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされて、栄光のキリストの復活のいのちによって新しく生まれた者、栄光のキリストの復活のいのちによって生きる者として、この「新しい時代」の歴史と文化、「来たるべき時代」の歴史と文化を造るように召されています。栄光のキリストが与えてくださった「大宣教命令」は、私たちが御霊に導かれて「新しい時代」の歴史と文化、「来たるべき時代」の歴史と文化を造ることへの召しに他なりません。 しかし、ここには一つの疑問があります。言うまでもないことですが、まだ、終りの日は来ていませんし、栄光のキリストは再臨されていません。「新しい天と新しい地」も造り出されてはいません。それなのに、「新しい時代」の歴史と文化、「来たるべき時代」の歴史と文化を造るというのはどのようなことなのでしょうか。 確かに、終りの日はまだ来ていません。けれども、終りの日に起こるべきことが、すでにこの歴史の中で起こっています。それはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりです。 イエス・キリストはユダヤの当局者からローマの手に引き渡されて、十字架につけられました。十字架は人間が考え出したもっとも残酷な処刑の方法の一つであると言われています。今日では、十字架の上でどのようなことが起るのかが、医学的な見地から説明されています。しかし、そのぞっとするような苦しみさえも、イエス・キリストが十字架の上で味わわれた苦しみの一部でしかありません。イエス・キリストが味わわれた苦しみの中心は、人の目からは隠された暗やみの中での出来事にあります。それについては、マタイの福音書27章45節、46節に、 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。 と記されているだけです。もちろん、同じことは並行個所であるまこ15章33節、34節とルカの福音書23章44節にも記されています。 この時、全地に暗やみがありました。暗やみは旧約聖書においてしばしば神さまのさばきを表しています。つまり、この暗やみの中で、父なる神さまは御子イエス・キリストにさばきを下しておられたのです。そのさばきは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきです。イエス・キリストは私たちが受けなければならない私たちの罪に対するさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。それによって、私たちのすべての罪は完全に清算されています。そのように、私たちのすべての罪が完全に清算されているのは、イエス・キリストがお受けになったさばきが、世の終りに執行される最後の審判のさばきに相当するものであるからです。 また、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことも、終りの日に起こるべきことです。それは死人の蘇生とは違います。イエス・キリストは死後3日たったラザロをよみがえらせてくださいましたが、そのラザロのよみがえりも、生前のラザロの状態に生き返らせていただいたものです。イエス・キリストは、その地上の生涯において十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通した報いとして栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。そのよみがえりは、世の終りに復活の主であられるイエス・キリストご自身が再臨されて、ご自身の民をよみがえらせてくださることの初穂、先駆けであり、保証でもあります。終りの日の復活のことを述べているコリント人への手紙第1・15章20節〜25節には、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 と記されています。ここでは、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、世の終りに起るイエス・キリストと一つに結ばれている者たちのよみがえりの「初穂」であると言われています。 もちろん、イエス・キリストのよみがえりはただ単に時間的に最初のよみがえりであるというのではありません。イエス・キリストご自身が、私たちのよみがえりの源であり、根拠であられます。ヨハネの福音書11章25節、26節には、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。 というイエス・キリストの教えが記されています。これは、世の終りによみがえりの日があるので死人がよみがえるというような考え方をしていたラザロの姉妹であるマルタに対するイエス・キリストの教えです。この、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 という言葉は強調形(エゴー・エイミ・・・)で表されています。これは、イエス・キリストが、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の主であられることを示しています。何ものにも依存しないでご自身で存在しておられ、お造りになったすべてのものを真実に支えておられる主です。そのような方としてご自身の契約に対して真実であられ、契約において約束してくださったことを実現してくださるために贖いの御業を成し遂げてくださる方です。このお方こそがよみがえりであり、いのちであられます。死人がよみがえることになっているのでよみがえるのではなく、 わたしは、よみがえりです。いのちです。 と言われる主によって生かされてよみがえるのです。ヨハネの福音書6章38節〜40節には、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えが記されています。 このように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、終りの日に起るべきこととしての意味をもっています。ですから、今から2千年前に起った、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにおいて、終りの日に起るべきことがこの歴史の現実となっています。また、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことは、栄光のキリストがご自身の成し遂げられた贖いの御業に基づいて、ご自身の民を治めてくださることが始まっていることを意味しています。 父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、そこから御霊を遣わしてくださいました。それで、御霊が私たちのうちに宿ってくださるようになりました。コリント人への手紙第1・3章16節に、 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 と記されており、6章19節に、 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 と記されている通りです。御霊は私たちを栄光のキリストの復活のいのちにあずからせてくださり、新しく生まれさせてくださいました。これによって、私たちは御霊のお働きによって神のかたちの本来の姿に回復されているだけでなく、栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストのかたちに造り変えられています。コリント人への手紙第2・3章18節に、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されている通りです。 このように、私たちは御霊のお働きによって新しく生まれ、御霊に導いていただいて、神の子どもとして、父なる神さまとの交わりのうちに生きています。ローマ人への手紙8章14節、15節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と記されている通りです。これによって、私たちは御霊に導かれて神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者、また、愛をもって互いに仕え合う者とされています。そのようにして、神の国の歴史と文化を造る者とされているのです。 さらに、私たちが終りの日によみがえることも栄光のキリストが注いでくださった御霊のお働きによることです。ローマ人への手紙8章11節には、 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と記されています。 このすべてのことは、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが、ご自身の民である私たちを治めてくださっていることの現れです。それは、私たちが主の祈りの第2の祈りにおいて、 御国が来ますように。 と祈っているときの神の国のことに他なりません。栄光のキリストは武力や経済力などの血肉の力によって、外側からの圧力によってではなく、御霊によってご自身の民を生かし、導いてくださるのです。神の国は、栄光のキリストが御霊によってご自身の民を治めてくださることにあります。 このように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりという、終りの日に起るべき出来事が今から2千年前にこの歴史の中で起りました。それによって、私たちイエス・キリストを信じ、御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされている者にとっては、終りの日に再臨される栄光のキリストによって執行されるべき最後のさばきはすでに終っています。私たちの罪に対するさばきはすでにイエス・キリストの十字架において終っており、私たちの罪はまったく清算されています。そして、私たちは終りの日に完成する「新しい天と新しい地」にふさわしい栄光に満ちたイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、イエス・キリストの復活のいのちによって生きる者とされています。そして、このすべては、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から注いでくださった御霊によって私たちの現実となっています。 私たちはこの御霊に導かれて、「新しい天と新しい地」につながって行く歴史と文化を造るように召されています。この「新しい天と新しい地」につながって行く歴史と文化が「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化です。このように、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化の特質は、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から注いでくださった御霊によって造り出されるものであるということにあります。栄光のキリストが与えてくださった「大宣教命令」は、私たちを御霊によるものである「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造るようにと召してくださっているものです。 |
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