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説教日:2007年2月25日 |
今は、このこととの関連で、天地創造の初めに神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命と、「女の子孫」のかしらとして来られて、贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストが弟子たちに委ねられた「大宣教命令」の関係のことをお話ししています。 「大宣教命令」のことを記しているマタイの福音書28章18節〜20節には、 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 と記されています。 これまで、イエス・キリストが最初に言われた、 わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 という御言葉についてお話ししました。 「権威」(エクスーシア)は法的に正当な力であり、物事を決定し、実行に移し、実現する力です。イエス・キリストはその「権威」を「与えられて」いるとあかししておられます。それは父なる神さまから与えられた「権威」であるということを意味しています。それで、イエス・キリストはこの「権威」を行使して、父なる神さまから委ねられた使命を遂行されます。 また、イエス・キリストは、「天においても、地においても、いっさいの権威が」と言われて、この「権威」が、神さまがお造りになったこの世界のどこにでも及ぶ「権威」であり、すべてのもの、すべてのことに及ぶ「権威」であることをあかししておられます。 イエス・キリストはこれに先立つ地上の生涯においても、ご自身に委ねられた「権威」を行使して、ご自身の意志で十字架におつきになり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。これがイエス・キリストに与えられた「権威」によることであるということは、ヨハネの福音書10章18節に記されています、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 というイエス・キリストの御言葉に示されています。 この「大宣教命令」において示されているイエス・キリストの「権威」は、すでにご自身が成し遂げておられる贖いの御業に基づいて、父なる神さまのみこころを実行に移す「権威」です。それが「天においても、地においても」という広がりをもっているのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いが万物の回復と完成にかかわっているからです。コロサイ人への手紙1章19節、20節に、 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と記されている通りです。 イエス・キリストの「大宣教命令」における、 わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 という宣言には、このような壮大で宇宙大の視野があります。そして、このことに基づいて、 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。 と命じられています。ですから、この命令には、神さまがお造りになったすべてのものにかかわる宇宙大の意味があります。 これらのことを踏まえて、すでに詳しくお話ししましたエペソ人への手紙1章20節〜23節に記されていることを振り返ってみましょう。20節、21節には、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と記されていました。 この場合の「すべての支配、権威、権力、主権」はサタンをかしらとする暗やみの力のことです。これは、栄光のキリストが先ほどお話ししましたサタンとその霊的な子孫をおさばきになることが原理的に成就しているということを意味しています。「原理的に成就している」ということは、そのことが実現するための条件はすべてそろっており、実際に実現し始めているということ、そして、やがてその完成に至るようになっているということです。 ここでは、栄光のキリストはこれらの暗やみの力だけでなく、「今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名」のはるか上に置かれたとあかしされています。ですから、ここには、「大宣教命令」においてイエス・キリストが、 わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 と言われたことに当たることが記されています。 エペソ人への手紙1章では、続く22節に、 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 と記されています。この、 いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、 ということは、詩篇8篇5節、6節に、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されていることの成就です。 この詩篇8篇5節、6節に記されていることは、天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに触れるものです。ですから、エペソ人への手紙1章22節においては、歴史と文化を造る使命が父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストにおいて、原理的に成就していることが示されています。このことから、私たちは、歴史と文化を造る使命と「大宣教命令」がつながっていることを理解します。 しかし、そうであれば、イエス・キリストは「大宣教命令」において、もう一度、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という天地創造の初めに神さまがお与えになった命令をそのまま繰り返してもよいのではないかという疑問が湧いてきます。実際、ノアの時代の大洪水によるさばきの後のことを記している創世記9章1節、2節には、 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、 という神さまの御言葉が記されています。これは、歴史と文化を造る使命が大洪水によるさばきの後にも継続して与えられていることを示しています。ここでは天地創造の初めに与えられた命令がそのままの言葉では繰り返されていません。それは、人間が罪によって堕落してしまっていることが踏まえられているからです。しかし、ここでは、基本的に、初めに与えられた命令と同じ命令が与えられています。 もし、これと同じように、「大宣教命令」においても天地創造の初めに与えられた命令と、まったく同じ言葉によってではないとしても、基本的に同じ命令として与えられていたら、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業が歴史と文化を造る使命を成就するものであるということは、この上なく明確になります。もちろん、すでにお話ししましたように、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業が歴史と文化を造る使命を成就するものであるということは、エペソ人への手紙1章20節〜23節に記されていることを初めとして、新約聖書のいくつかの御言葉を通して明確に示されています。そうではあっても、イエス・キリストは「大宣教命令」において、天地創造の初めに与えられた命令と同じ命令を与えてはおられません。それには何らかの理由があるはずです。 この問題を理解する鍵は、「大宣教命令」は父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストにおいて、原理的に成就しているということ、そして、私たちが栄光のキリストと一つに結び合わされて、これにあずかっているということです。私たちが栄光のキリストと一つに結び合わされて、これにあずかっているということについては、エペソ人への手紙2章4節〜6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されています。 イエス・キリストはご自身の十字架の死によって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださいました。それは、過去に私たちが犯した罪だけでなく、これから犯すであろうすべての罪を贖ってあまりある贖いです。そして、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に着座されました。さらに、イエス・キリストは父なる神さまの右の座から御霊を遣わしてくださり、ご自身のからだとしての意味をもつ教会を生みだしてくださいました。これがペンテコステの日にイエス・キリストがなされた御業です。その日になされたペテロの説教を記している使徒の働き2章33節には、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と記されています。 このすべてが、イエス・キリストがすでに2千年前に成し遂げてくださった贖いの御業です。私たちはイエス・キリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊のお働きによって、イエス・キリストと一つに結び合わせていただいています。それによって、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかるものとしていただいています。 ここで特に覚えたいのは、私たちは地上を歩まれて、十字架におかかりになったただけではなく、栄光をお受けになってよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わされているということです。そのことは、先ほど引用しましたエペソ人への手紙2章4節〜6節に記されている御言葉に明確に示されています。ですから、私たちはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神のかたちとして回復されています。けれども、それは、天地創造の初めに神のかたちに造られた最初の、罪を犯して堕落する前のアダムと同じ状態に回復されているという意味ではありません。 最初の人アダムが、暗やみの力の誘惑にもかかわらず、あらゆる点で最後まで神さまのみこころに従い通し、神さまから委ねられた使命をまっとうしていたら、その報いとして、被造物に赦される限りのものですが、充満な栄光を与えられていたことでしょう。しかし、実際には、最初の人アダムは神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そして、その子孫たちもかしらであるアダムにあって堕落してしまいました。けれども、「女の子孫」のかしらとして来られたイエス・キリストは、その生涯において十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されました。それによって、その報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。私たちはこの栄光のキリストと一つに結び合わせていただいています。コリント人への手紙第1・15章20節〜23節には、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 と記されています。 もしイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業が私たちを最初の人アダムと同じ状態に回復するだけのものであったとしたら、イエス・キリストはご自身の民に、改めて天地創造の初めに与えられた、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命の命令と同じ命令をお委ねになったことでしょう。それは歴史をもう一度ゼロからスタートさせるということを意味しています。そして、それは、あのノアの時代の大洪水によるさばきの後の状況と同じです。ただし、ノアの時代の再スタートは、人間の罪が贖われてはいない状態でのことですので、そのことが踏まえられていました。 けれども、イエス・キリストは栄光をお受けになってよみがえられました。そして、父なる神さまの右の座に着座されて、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられます。そのイエス・キリストが、御霊によって私たちをご自身に結び合わせてくださり、ご自身の復活のいのちによって新しく生かしてくださいました。そして、私たちを天に座するものとしてくださっています。ですから、私たちが歴史と文化を造る使命を果たすのは、ゼロからの再スタートではありません。私たちはすでにイエス・キリストが成し遂げてくださっていることにあずからせていただいています。そのことの中には、もちろん、私たちの罪をまったく贖ってくださり、私たちをご自身の復活のいのちで新しく生かしてくださったこと、そして、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださったことがあります。その具体的な現れとして、今、私たちは神さまのご臨在の御前に出でて、神さまを礼拝しています。しかし、それだけではありません。私たちは、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられるということにもあずかっているのです。 このこととの関連で、もう一度、エペソ人への手紙1章に戻ってみましょう。22節前半には、 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、 と記されていて、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられることが示されていました。続く22節後半には、 いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 と記されています。すでに繰り返しお話ししてきた個所ですので詳しい説明は省きますが、ここでは、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストが教会に与えられていると言われています。栄光のキリストのことが「いっさいのものの上に立つかしらである」と言われていることに注目してください。 そして、これを受けて続く23節には、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています。これは20節〜23節に記されていることの流れの中で、特に、22節とのつながりで理解しなければなりません。ここで「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われているのは栄光のキリストのことです。そして、ここでは、その栄光のキリストが父なる神さまの右の座に着座されて、原理的に、暗やみの力をおさばきになり、歴史と文化を造る使命を成就しておられるということが踏まえられています。そのような栄光のキリストが教会に与えられており、教会はそのような栄光のキリストのからだとしての意味をもっているというのです。それは、栄光のキリストが、御霊によって、ご自身のからだである教会を生み出し、その教会を通して、すでにご自身が原理的に成就しておられる歴史と文化を造る使命を実現されるということに他なりません。 これらのことを踏まえて見てみますと、栄光のキリストご自身が「大宣教命令」において、最初の、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という命令を繰り返されたのではなく、 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。 という命令をお与えになったことの意味が理解できます。これは、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、ご自身のからだである教会を生み出し、教会を通して歴史と文化を造る使命を実現し、完成に至らせてくださるということを踏まえた命令です。 |
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