(第92回)


説教日:2007年2月18日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 私たちは、主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りにおいて私たちは父なる神さまが神の国を来たらせてくださることを祈り求めています。この場合の神の国は、贖い主であられるイエス・キリストが治めておられる神の国のことです。
 この神の国は、創世記1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることと深くかかわっています。
 いつものように、まず、全体的な「見取り図」をお話ししますと、ここには、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが記されています。神のかたちの本質は愛を特性とする人格的な存在であることにあります。人は歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、愛を中心とした神のかたちの本質的な特性を現すようになります。それによって、造り主である神さまの聖なる属性を映し出す神の国の歴史と文化を造るのです。
 サタンはこれを阻止しようとして働き、神のかたちに造られた人を誘って造り主である神さまに対して罪を犯させました。もちろん、神のかたちに造られている人間は自由な意志を与えられていますから、その罪は人が自らの意志によって犯したものです。それによって、人間は罪によってその本性が腐敗してしまい、人間が遂行する歴史と文化を造る使命は罪によって腐敗した本性と、その自己中心的な特質を映し出すものになってしまったのです。
 これに対して、神である主は人間の堕落の直後に贖い主を約束してくださいました。それが、創世記3章15節に記されています、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である主の御言葉です。これは「」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣言です。それで、これは「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主によってサタンに対するさばきが執行されることを示しています。けれども、これまでお話ししたことの流れで言いますと、この「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主は、サタンとその霊的な子孫をおさばきになるだけでなく、人の罪を贖ってくださり、人を神のかたちの本来の姿に回復してくださり、それによって、歴史と文化を造る使命を、愛を中心とする神さまの聖なる属性を映し出すものに回復してくださる方です。サタンの働きにもかかわらず、神さまの創造の御業の目的は回復され、完成に至るということです。


 このこととの関連で、天地創造の初めに神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命と、「女の子孫」のかしらとして来られて贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストが弟子たちに委ねられた「大宣教命令」の関係が問題となります。先週は、「大宣教命令」に関して一つの大切な点をお話ししました。今日は、そのことからさらにお話を進めたいと思います。
 「大宣教命令」のことはマタイの福音書28章18節〜20節に記されています。そこには、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されています。
 イエス・キリストは、まず、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われました。先週お話ししましたように、「権威」(エクスーシア)は単なる力ではなく、法的に正当な力であり、物事を決定し、実行に移し、実現する力です。イエス・キリストはその「権威」を「与えられて」いるとあかししておられます。父なる神さまがイエス・キリストにその「権威」をお与えになったのです。
 地上において贖いの御業を遂行するために、父なる神さまから「権威」を委ねられたイエス・キリストは、その「権威」をもって父なる神さまのみこころを行われました。そのことは、イエス・キリストご自身があかししておられることです。先週も引用しましたが、ヨハネの福音書10章18節には、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。

というイエス・キリストの御言葉が記されています。イエス・キリストはユダヤの当局者によって捕えられ、ローマの兵士たちの手に渡され、十字架につけられて殺されました。けれども、そのすべてはイエス・キリストのご意志に反してなされたのではありません。イエス・キリストがそのすべてをお用いになって、ご自身の民である私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださったのです。そのようにして、イエス・キリストはご自身に委ねられた「権威」を行使されました。そして、私たちを罪と死の力から贖い出すという父なる神さまのみこころを実現されました。また、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通され、その報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。それも父なる神さまから委ねられた「権威」を行使されてのことです。そのようにして、イエス・キリストは、私たちを復活のいのちによって新しく生かしてくださるという父なる神さまのみこころを実現されました。
 これらのことを、いまお話ししていることの流れの中で見ますと、そのようにして、イエス・キリストは私たちを神のかたちとしての栄光と尊厳のうちに回復してくださり、再び、歴史と文化を造る使命を果たすものとして回復してくださったのです。
 「大宣教命令」の宣言において、イエス・キリストはご自身に委ねられた「権威」について、「天においても、地においても、いっさいの権威が」ご自身に与えられていると述べておられます。この「天においても、地においても」という御言葉については見方が分かれます。
 ある人々は、イエス・キリストが中風の人をいやされたことを記しているマタイの福音書9章1節〜8節の中の6節、7節に、

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。

と記されていることに基づいて、イエス・キリストは地上で贖い主としてお働きになったときに、すでにこのような「権威」を委ねられていたということに注目します。それで、「天においても、地においても」ということは、それに加えて「天においても」行使する「権威」が委ねられたと考えています。
 もう一つの見方は、「天においても、地においても」という御言葉の「」と「」は「どこにおいても」という意味であるというものです。創世記1章1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉においては、「天と地」は「すべてのもの」を表しています。また、詩篇1篇2節で、

 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
 昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

と言われているときの「昼も夜も」という言葉は「いつも」とか「絶えず」ということを意味しています。このような表現の仕方を「メリスムス」と呼びます。「大宣教命令」における「天においても、地においても」という言葉もこれと同じメリスムスによる表現で、「どこにおいても」という意味であるというのです。
 この二つの見方は、必ずしも矛盾するものではありません。それは次のように考えられます。
 「大宣教命令」においてイエス・キリストが、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われたときには、その「権威」が「天と地」すなわち神さまがお造りになったこの世界の「すべてのもの」に及ぶものであることが示されています。そして、そのような「権威」が委ねられたのは、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられ、栄光を受けてよみがえられたことによっています。その意味で、イエス・キリストが地上で贖いの御業を遂行しておられたときには、イエス・キリストに委ねられていた「権威」には制限があったと考えられます。
 さらに、ヨハネの福音書17章4節には、

あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。

というイエス・キリストが十字架にかかられる前の日の夜に祈られた祈りが記されています。ここでイエス・キリストは、

あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、

と言っておられます。これは、すでにお話ししたことにしたがって言いますと、イエス・キリストがご自身に委ねられた贖い主としての「権威」を行使されたことを意味しています。そして、ここではそれが「地上で」のことであったということが示されています。
 このように、二つの見方は調和させることができないわけではありません。ただ、イエス・キリストが、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われたときの「権威」は、すでに地上で贖いの御業を遂行するために与えられていた「権威」の上に「天において」の「権威」が加えられただけであるというように考えることはできないと思われます。というのは、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられ、栄光をお受けになった後に与えられた「権威」のうちの「」における「権威」は、イエス・キリストが地上で贖いの御業を遂行するために与えられていた「権威」以上のものであるとも考えられるからです。
 いずれにしましても、イエス・キリストが、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われたときの「権威」は、神さまがお造りになったこの世界のどこにでも及ぶ「権威」であり、すべてのもの、すべてのことに及ぶ「権威」です。
 その意味で、このイエス・キリストの御言葉が示すことは、エペソ人への手紙1章20節、21節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われていることに当たります。
 また、これは、ピリピ人への手紙2章6節〜11節に記されていることにも当たります。そこには、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。
 これらの御言葉を読むとき、イエス・キリストに委ねられた「権威」がこの世界のどこにでも及ぶ「権威」であり、すべてのもの、すべてのことに及ぶ「権威」であることを考えるときに忘れてはならないことがあります。それは、イエス・キリストが、この「権威」を、父なる神さまから委ねられたと言っておられることです。イエス・キリストは父なる神さまのみこころを実現するために、この「権威」を行使されます。その点は、イエス・キリストが地上で贖いの御業を遂行された時から一貫して変わりません。そのことを示す御言葉をいくつか見てみましょう。
 ヘブル人への手紙1章3節には、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されています。御子イエス・キリストは、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられてから、父なる神さまの右の座に着座されたのです。それは、父なる神さまのみこころにしたがって、ご自身が成し遂げられた贖いの御業を私たちに当てはめてくださるためです。同じヘブル人への手紙の9章24節には、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

と記されています。ここで「天そのもの」と言われているのは、その後で、

今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです

と言われていることから分かりますように、父なる神さまのご臨在の在る所のことです。ここではイエス・キリストの大祭司としてのお働きのことが述べられており、地上的なひな型である神殿の「聖所」との対比が語られていますので「天そのもの」と言われています。これがイエス・キリストの王としてのお働きについて言われるときには、父なる神さまの右の座と呼ばれます。同じイエス・キリストの大祭司としてのお働きのことがローマ人への手紙8章34節では、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と言われています。ここでは、イエス・キリストの大祭司としてのお働きが、父なる神さまの右の座においてなされていることが示されています。ですから、イエス・キリストのお働きについて言えば、「天そのもの」と父なる神さまの右の座は同じものです。
 さらに、ヨハネの手紙第1・2章1節、2節に、

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、   私たちの罪だけでなく全世界のための、   なだめの供え物なのです。

と記されています。また、ヘブル人への手紙4章14節〜16節には、

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と記されています。
 これらはすべて、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われたお方の大祭司としてのお働きです。
 この栄光のキリストのお働きはそれだけではありません。繰り返しの引用になりますが、エペソ人への手紙1章20節、21節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されていました。すでにお話ししていますように、この場合の「すべての支配、権威、権力、主権」はサタンをかしらとする暗やみの力のことです。これは、詩篇110篇1節に記されている、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

という御言葉の成就です。栄光のキリストが父なる神さまの右の座に着座されたことは、神さまの創造の御業の目的の実現を阻止しようとして働いた暗やみの力をおさばきになることが原理的に実現しているということを意味しています。「原理的に」ということは、そのことが実現するための条件はすべてそろっており、実際に実現し始めているということ、そして、やがてその完成に至るようになっているということです。
 また、ヘブル人への手紙10章12節、13節には、

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

と記されています。ここで、

それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

と言われているときの「待っておられる」ということは、じっと座って、何もしないで「待っておられる」ということではありません。これは、先ほど引用しました詩篇110篇1節において、父なる神さまが、

 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。

と言っておられること、つまり、父なる神さまがキリストの敵をキリストの足台としてくださるということを反映していると考えられます。実際には、父なる神さまは栄光のキリストに「権威」を委ねられて、そのことを実現されます。父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、「その敵」を「ご自分の足台と」されることを実現するための「権威」を行使される立場に立たれました。そして、実際にその「権威」を行使されて、それを完全に実現されるようになります。
 ここでは、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことが、ご自身の民の贖いが実現していることの現れであると同時に、敵を「ご自分の足台と」されることが実現し始めていることの現れであることが示されています。
 同じことは、終りの日の復活のことを記しているコリント人への手紙第1・15章23節〜25節にも、

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

と記されています。今お話ししていることとのかかわりで言いますと、「キリストに属している者」の完全な贖いとしてのよみがえりがあって、その後に、キリストが「すべての敵をその足の下に置く」ようになります。やはり、ご自身の民の贖いの完成と暗やみの力へのさばきの執行は切り離すことができません。
 イエス・キリストが、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われたのは、イエス・キリストがご自身の民の贖いをまったきものとして完成し、暗やみの力へのさばきの執行されるための「権威」を委ねられたこと、そして、それを実行に移されるということを意味しています。すでに、エペソ人への手紙1章20節〜23節に記されていることや、コリント人への手紙第1・15章24節〜28節に記されていることとのかかわりでお話ししてきたことですが、このことは、さらに、ご自身の民を歴史と文化を造る使命を遂行する者として回復してくださることを意味しています。
 栄光のキリストは父なる神さまから委ねられた「権威」によってその使命を委ねてくださいました。それが「大宣教命令」という形で与えられているのです。このことについては続いてお話しします。

 


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