(第91回)


説教日:2007年2月11日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りにかかわるお話を続けます。この祈りの主題である神の国は、旧約聖書において約束されている贖い主として来てくださったイエス・キリストが治めておられる御国のことを指しています。
 これまで、イエス・キリストが治めておられる神の国は、創世記1章27節、28節に記されていますように、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったこととつながっているということをお話ししてきました。そして、先週は、この歴史と文化を造る使命とマタイの福音書28章18節〜20節に記されていますいわゆる「大宣教命令」が、どのようにつながっているかという問題提起をいたしました。今日は、このことに関してさらにお話を続けます。
 まず、これまでお話ししたことの繰り返しになりますが、この問題の背景となることをお話しします。
 創世記1章1節〜2章3節に記されています天地創造の御業の記事において、もっとも大切な要素は神さまの創造の御言葉です。創造の御言葉というのは、1章3節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と記されているときの、

 光よ。あれ。

という神さまのご意志の発動としての御言葉のことです。その神さまの御言葉によって、この世界のすべてのものは造り出されました。人間の創造に関する神さまの創造の御言葉は、創世記1章26節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。ここでは、人が神のかたちに造られることと、歴史と文化を造る使命を委ねられることが創造の御業における神さまのみこころであることが示されています。そして、このことが実現したことが、27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 このように、人が神のかたちに造られていることと、歴史と文化を造る使命を委ねられていることは、切り離すことができないこととして結びついています。また、人はこのように造られたものですから、人が人であるかぎり、神のかたちに造られているものであることと、歴史と文化を造る使命を委ねられているものであることは変わることはありません。
 神のかたちの本質は愛を特性とする人格的な存在であることにあります。人は歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、愛を中心とした神のかたちの本質的な特性を現すようになります。それは造り主である神さまを礼拝することを中心として神さまを愛すること、そして、神さまの愛に支えられているものとして互いに愛し合うこと、さらに、神さまから委ねられたこの世界とその中に住む生き物たちを愛することとして現れてきます。歴史と文化を造る使命とは神のかたちの本質的な特性である愛を具体的な形で表すことであり、それによって、造り主である神さまの聖なる属性を映し出す神の国の歴史と文化を造ることです。


 このような、創造の御業において表された神さまのみこころが実現しないようにと働く存在があります。それは、すぐれた御使いとして造られたのに、与えられた栄光と能力の高さのゆえに神さまの御前に高ぶり、神のようになろうとして堕落した暗やみの主権者であるサタンです。そのようにして堕落したサタンにとっては、神さまに敵対して働くこと自体が動機となり、目的となってしまっています。しかし、サタンも被造物ですから神さまと直接的に戦うことはできません。それで、サタンは神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人を誘惑し、神さまに背かせようとしたのです。最初の人がその誘惑にのって、神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによって、サタンの目論見は成功したように見えました。神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命は、その本来の形では実現できなくなったように思われました。
 先ほどお話ししましたように、神さまは創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。それで、人が人であるかぎり、神のかたちに造られているものであることと、歴史と文化を造る使命を委ねられているものであることは変わることがありません。ですから、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによっても、このことは変わっていません。何が変わったかと言いますと、神のかたちが腐敗してしまったということです。「腐っても鯛」という言葉がありますが、人も「罪によって堕落し、腐敗しても、神のかたち」であることには変わりがありません。しかし、人が堕落したことによって、神のかたちの特性は自己中心的なものに変質してしまいました。さらに、人が歴史と文化を造る使命を委ねられているということも変わっていません。変わってしまったのは、人が造り出す歴史と文化の性格です。それが神のかたちの本質的な特性である愛を映し出すのではなく、罪の本質的な特性である自己中心性を映し出すものに変質してしまったということです。言い換えますと、それが造り主である神さまの聖なる属性を映し出すのではなく、サタン的な属性を映し出すものに変質してしまったということです。もちろん、一般恩恵による御霊のお働きによって支えられていますので、、それがまったくサタン的なものとなってしまったというわけではありません。
 このように、神のかたちに造られている人間は罪のゆえに腐敗してしまい、それが人間の造る歴史と文化に映し出されるようになってしまいました。これによって、サタンの企てが成功し、神さまの創造の御業におけるみこころの実現は阻止されてしまったかのように見えました。しかし、神である主は、人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に贖い主を約束してくださいました。それが創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「蛇」の背後にあって働いたサタンへのさばきの宣言の中に示されています。
 繰り返しお話ししたことですので、詳しい説明は省きますが、ここでは贖い主は「女の子孫」として来られることが示されています。そして、この方がサタンへのさばきを執行し、ご自身の民を、罪によるサタンの支配から贖い出してくださいます。これは「最初の福音」と呼ばれています。
 この「最初の福音」はより広い枠組み、すなわち、神さまの創造の御業において表されたみこころとのかかわりで理解されなければなりません。神のかたちに造られている人間が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことにより、人間に委ねられている歴史と文化を造る使命が、その本来の形において実現しなくなってしまいました。これに対して、神である主は「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を備えてくださったのです。ですから、この贖い主のお働きによって、この方によって贖われた民において神のかたちの本来の姿が回復され、歴史と文化を造る使命がその本来の形において回復されることが大切なわけです。
 これまでお話ししてきましたように、新約聖書はそのことが実現していることをあかししています。コリント人への手紙第1・15章20節〜28節やエペソ人への手紙1章20節〜23節に記されていることは、イエス・キリストはご自身の十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださり、栄光を受けてよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、暗やみの主権者たちとの霊的な戦いに勝利しておられること、そして、そのことを通して、私たちを神のかたちの本来の姿に回復してくださり、さらに歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられるということをあかししています。
 問題は、このことがいわゆる「大宣教命令」とどのようにかかわっているかということです。
 まず、「大宣教命令」のことを見てみましょう。「大宣教命令」のことはマタイの福音書28章18節〜20節に、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されています。今日は、ここに記されていますイエス・キリストの御言葉について大事なことの一つをお話しします。
 イエス・キリストは、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われました。
 「権威」(エクスーシア)は単なる力、能力以上のものです。それは法的に正当なものであり、物事を決定し、実行に移し、実現する力です。
 言うまでもなく、聖書の中では「権威」は、最終的には、天地の造り主であられ、万物の支配者であられる神さまのものです。被造物である人間や御使いの「権威」は神さまから委ねられたものです。そして、神さまから委ねられていないのに「権威」を主張することは、あらゆる「権威」の最終的な源であられる神さまに逆らって立つことを意味しています。それは、先ほどお話ししましたサタンに典型的に見られます。このことを示すことを見てみましょう。
 イエス・キリストがお受けになった荒野の試みを記しているルカの福音書4章5節〜8節には、

また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」

と記されています。サタンはイエス・キリストに、

この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。

と言いました。ここで「権力」と訳されている言葉は、先ほどの「権威」(エクスーシア)です。そして、「あなたに差し上げましょう」の「あなたに」は最初に出てきて強調されています。「他ならぬ、あなたに」、「私が見込んだあなたに」という感じでしょうか。そして、「これがみなあなたのものになるのです」という誘いとなっています。また、「差し上げましょう」と訳されている言葉は、イエス・キリストが、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われたときの「与えられています」と訳された言葉と同じ言葉(ディドーミ)です。もちろん、イエス・キリストは受け取る側に立っておられます。
 サタンは続いて、

それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。

と言いました。この場合も「それは私に任されている」の「私に」が最初に出てきて強調されています。サタンはそれが神さまから委ねられた権利であるかのような主張をしています。
 しかし、本当に、サタンはこの世のすべての「権威」を任されているのでしょうか。この点について明確にしないままで、サタンの「権威」は「世界の国々」つまり「この世の国々」の「権威」に限られているというように論じることには問題があります。
 確かに、ヨハネの福音書12章31節には、

今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

というイエス・キリストの御言葉が記されています。ここではサタンのことが「この世を支配する者」と言われています。けれども、それはサタンの支配が正当なものであるということを意味するわけではありません。実際、

今、この世を支配する者は追い出されるのです。

というイエス・キリストの御言葉は、その支配が不当なものであることを示しています。
 また、ヨハネの手紙第1・5章19節には、

私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。

と記されています。これもサタンの支配の正当性を示してはいません。この「悪い者の支配下にある」というのは文字通りには「悪い者のうちに横たわっている」という変わった言い方です。これは、この世全体が「悪い者」すなわちサタンの働きに対して如何ともしがたい状況にあるというような感じを表しています。サタンの働きかけに対して、この世、血肉はまったく無力であるということです。このことから連想されるのは、強大な侵略者がやって来て力尽くで征服された国が、その征服者の支配の下で苦しんでいても如何ともしがたい状況にあるということでしょう。もっとも、サタンの支配は罪の闇に乗じた欺きによるものですので、その支配の下にある人々が、そのことに気がつかないという、まことに巧妙なものです。
 ですから、サタンが、

この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。

と言って、「国々のいっさいの権力と栄光」が自分に任されていると主張しているのは、不当な侵略者が居直っていることに当たります。神さまがサタンに「権威」をお委ねになったことは1度もないのです。
 それでは、神さまはどうして、そのような状態を見過ごしておられるのでしょうか。それは、神のかたちに造られている人間が、サタンの誘惑にのって、神さまに対して罪を犯し御前に堕落したときに、神さまが直ちにさばきを執行しておられたら、罪においてサタンと一つになってしまっている人とその妻をも、サタンと同様にさばかなければならなくなります。そうすれば、創造の御業とともに、神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命は、果たされないで終ってしまうことになります。それは、サタンの企てたことが成功することを意味しています。しかし、先ほどお話ししましたように、神さまはそのようになさらないで、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主によってさばきを執行されるというみこころを示されたのです。それで、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主によってなされる贖いの御業が完成するまで、そして、その方の民が集められるまで、サタンへのさばきが猶予されているのです。サタンはそれをよいことにして、いわば「不法占拠」を続け、既成事実を作り上げたうえで、この世の「権威」は自分に委ねられていると主張しているのです。
 先ほど引用しましたヨハネの福音書12章31節に記されていますイエス・キリストの、

今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

というイエス・キリストの御言葉、これはイエス・キリストがご自身の十字架の死のことを述べておられる中で語られたものです。このイエス・キリストの御言葉は、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの御業の完成とともに「この世を支配する者は追い出される」ということを示しています。「女の子孫」のかしらである贖い主が来られたので、サタンへのさばきの猶予期間が終わろうとしていたのです。ですから、私たちは、御言葉の教えに基づいてサタンの「権威」は不当なものであることを明確にしたうえで、しかも、その「権威」はこの世の国々にかかわる限定的なものであると言わなければなりません。
 このように、ある「権威」が法的に正当であるのは、それゆえに真の「権威」であるのは、それが神さまから委ねられているときだけです。それで、「権威」が物事を決定し、実行に移し、実現する力であるというのは、神さまのみこころを実行に移し、実現する力であるということになります。イエス・キリストはまさにそのような「権威」を委ねられた方として来られました。
 イエス・キリストは、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われましたが、ギリシャ語の原文では、「わたしに与えられた」という言葉、そのうちでも「与えられた」という言葉が最初に出てきます。これが一番大事な言葉であるのです。もちろん、これは父なる神さまがイエス・キリストにお与えになったという意味です。私たちの感覚では、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

というイエス・キリストの御言葉を聞いて最初に引きつけられるのは、「天においても、地においても、いっさいの権威が」ということでしょう。そして、それはいったいどれほどの「権威」なのだろうかという思いが湧いてきます。実際に、それは、すでにお話ししたことがあります、エペソ人への手紙1章20節、21節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

とあかしされていることに当たるものです。それは、私たち人間の思いや想像力をはるかに越えた「権威」です。
 けれども、イエス・キリストにとっては、その「権威」が父なる神さまから委ねられているものであるということが一番大事であるのです。
 そのことは、イエス・キリストご自身が贖い主としてのお働きを遂行されるときにあかししておられます。たとえば、ヨハネの福音書6章38節〜40節には、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの御言葉が記されています。
 ここには「権威」という言葉は出てきませんが、まさにその言葉が示すことがあかしされています。父なる神さまのみこころを実行に移し、実現することこそが、真の「権威」の現れです。しかも、それは、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださることにおいて発揮される「権威」です。それは、イエス・キリストの愛において働き、父なる神さまの私たちに対する愛を映し出す「権威」です。
 このことは、同じヨハネの福音書の10章18節に記されていますイエス・キリストの御言葉により明確に示されています。そこには、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。

と記されています。イエス・キリストが十字架につけられて死なれたことも、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことも、父なる神さまから委ねられた「権威」を行使されてのことでした。それによって、父なる神さまの愛と恵みのみこころが実行に移されたのです。
 永遠の神の御子としてのイエス・キリストには、ご自身に固有の「権威」があります。これは無限、永遠、不変の栄光の主としてのご自身に固有の「権威」です。その意味で、この「権威」は永遠に変わることなくご自身のものであり、与えられたりするものではありません。
 けれども、マタイの福音書28章18節に記されています、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

というイエス・キリストの御言葉は、その「権威」が父なる神さまから委ねられた「権威」であることを示しています。これは父なる神さまが御子イエス・キリストを贖い主として立てられたことに伴って与えられた「権威」です。そして、この「権威」は、すでに繰り返しお話ししてきましたように、イエス・キリストが、天地創造の御業において神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就されたことにかかわっていると考えられます。神さまが神のかたちに造られている人間に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったということは、それを実行に移す「権威」を委ねてくださったということです。イエス・キリストは父なる神さまから与えられた「権威」によって贖いの御業を成し遂げ、栄光をお受けになって父なる神さまの右の座に着座されることによって、この歴史と文化を造る使命を原理的に成就されました。それで、ここで、イエス・キリストはご自身の「権威」が父なる神さまから委ねられたものであるということを最初に明らかにしておられると考えられます。そして、これは先ほどお話ししましたサタンの居直りに基づく主張と真っ向から対立いたします。
 天地創造の御業において神のかたちに造られている人間に委ねられた歴史と文化を造る使命に伴う「権威」はイエス・キリストにおいて本来の「権威」に回復され、さらに栄光あるものとされています。そして、イエス・キリストはこの「権威」によって、サタンを最終的におさばきになり、ご自身の民をお救いになります。

 


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