(第90回)


説教日:2007年2月4日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りにかかわるお話をします。
 この祈りにおいて、私たちが祈り求めているのは神の国です。神の国にはいろいろな意味があります。主の祈りの第2の祈りで祈り求めているのは、私たちの贖い主として来てくださり、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストが治めておられる神の国です。
 これまで、イエス・キリストが治めておられる神の国は、創世記1章27節、28節に記されている、神さまが人を神のかたちにお造りになって、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を委ねてくださったこととつながっているということをお話ししてきました。
 ここで、個人的なあかしをさせていただきます。私がウェストミンスター神学校に入学して最初の年のことです。ある時、上級生の方が浮かない顔をして私のところに来て、K先生が、「文化命令」はイエス・キリストにおいて成就しており、私たちには「大宣教命令」が委ねられているとおっしゃったと言いました。もう30年ほど前になりますので、言葉遣いに違いがあるかもしれません。しかし、その方が言われたことの主旨は変わっていません。
 この「文化命令」はこれまでお話ししてきました「歴史と文化を造る使命」の一般的な呼び名です。私はその頃は「文化命令」という一般的な呼び方をしていましたが、今は、これは基本的に歴史を造る命令であると理解しています。それで、「歴史を造る命令」でもいいのですが、「文化命令」という一般的な呼び方も考慮に入れて「歴史と文化を造る使命」と呼んでいます。言うまでもなく、これは玉川上水キリスト教会だけで通用する呼び方です。
 また、「大宣教命令」はマタイの福音書28章18節〜20節に記されている、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

という栄光のキリストの命令のことです。これは日本語では一般に「大宣教命令」と呼ばれていますが、英語では一般に「大いなる委任」(The Great Comission)と呼ばれています。もちろん、私に話してくださった上級生も「The Great Comission」と言いました。
 用語の問題は措いておきまして、私は、K先生がおっしゃったことを聞きまして「それはおかしい」と思いました。というのは、私にはそれは歴史と文化を造る使命が「大宣教命令」によって取って代わられたということを意味していると思えたからです。もしそうであれば、歴史と文化を造る使命は廃棄されてしまったことになります。しかし、歴史と文化を造る使命は創造の御業において示された神さまのみこころであるので、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落したことによって取り消されることはないものであるはずです。事実、これまで繰り返し引用してきました詩篇8篇5節、6節において、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることは、歴史と文化を造る使命が人類の罪による堕落の後にも取り消されていないことを示しています。そうであれば、これはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業によって、真の意味において回復されるのであって、廃棄されることはありえないと考えられるわけです。
 イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業によって成就したとして廃棄されるのは、人間の罪による堕落によってもたらされた事態に対処するためのもので、しかも古い契約の下における「ひな型」としての意味をもっているものだけです。神さまが創造の御業によって造り出されたものや定められたものは、少なくとも世の終わりの完成の時までは、廃棄されることはないはずです。それらはイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業によって廃棄されるのではなく、本来の姿に回復され、完成されるべきものです。ちなみに、創造の御業によって造り出されたもので、世の終わりの完成の時に廃棄されるものの例は結婚です。マタイの福音書22章30節には、

復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 私は、その当時は今以上に不十分ながら、基本的にはそのように考えておりましたので、その上級生の方に私の考えを述べました。神のかたちに造られている人間の文化的な活動に関する造り主である神さまの命令が廃棄されることはありえないと考えたのです。ただ、これからお話しますように、それは私の理解の不足によることであって、K先生は「文化命令」が廃棄されたとは言っておられません。やがて、私もそのクラスを取る段となりました。そして、ある時、K先生がそのことをおっしゃいました。すると何人かの学生が手を上げて、そのことについて質問しました。学生たちの質問に対して、詳しい説明はなされなかったのですが、K先生がおっしゃった一つの言葉が私の心に残りました。それは、「文化命令」が成就しているといっても、それで「文化命令」が廃棄されているということではないということです。
 それ以来、私にとってこの問題は、自分で考えなければならない課題となりました。


 私はこれまで主の祈りの第2の祈りに関するお話の中で、歴史と文化を造る使命が原理的にイエス・キリストにおいて成就しているということを御言葉の教えに沿ってお話ししてきました。そして、そのことに基づいて、私たちは、

 御国が来ますように。

という祈りとともに歴史と文化を造る使命を果たす者として回復されているということをお話ししました。その意味で、私は歴史と文化を造る使命がイエス・キリストにおいて成就しているということを受け入れています。
 けれども、歴史と文化を造る使命と「大宣教命令」との関係をどのように考えたらいいのかという問題は残っています。果たして歴史と文化を造る使命は「大宣教命令」によって取って代わられたのか、また、その意味で廃棄されてしまったのかという問題です。この問題は少し込み入った問題ですので、触れないでおこうとも思いました。しかし、この問題は私たちにとって大切な意味をもっていますので、お話ししておきたいと思い、今日は問題的として、30年も前のあかしをお話ししたのです。
 先ほどお話ししました上級生との会話のことを振り返ってみますと、問題は「イエス・キリストにおいて成就している」という言葉の理解にあったと思われます。それで、まず、この「イエス・キリストにおいて成就している」ということについてお話ししたいと思います。今日はこの問題をお話しするだけで終ってしまいます。
 「イエス・キリストにおいて成就している」という言葉でまず思い出されるのは、古い契約の下で与えられた「儀式律法」はイエス・キリストによって成就しているので、今日では、そのままの形で私たちを拘束することはないということです。たとえば、私たちはモーセ律法に定められているさまざまな動物のいけにえをささげることはありません。それらのいけにえはそれぞれが固有の意味をもっているのですが、すべてやがて来たるべき本体のひな型としての意味をもっています。そのやがて来たるべき本体とは、言うまでもなく、イエス・キリストの十字架の死です。それらのいけにえはイエス・キリストの十字架の死において成就しています。イエス・キリストの十字架の死は現れた形としては一つの出来事です。しかし、それには豊かな意味があります。神である主はそれを古い契約の下でのひな型としてのさまざまないけにえを通して説明してくださっています。そのような意味で「儀式律法」に示されているいけにえの規定はイエス・キリストの十字架の死において成就しており、その規定は廃棄されています。「イエス・キリストにおいて成就している」ということを聞いてまず思い起こすのはこのことです。それで、私は「文化命令」はイエス・キリストにおいて成就しているということを聞いて、とっさに、それは「文化命令」が廃棄されているという意味だと理解したわけです。しかも、私たちには「大宣教命令」が委ねられているというのですから、ますますそのように思ってしまったわけです。そして、先ほどお話ししましたように、それはおかしいと考えました。
 これには二つほどの問題がかかわっています。
 一つは簡単にしかお話できませんが、先ほどお話ししましたように、歴史と文化を造る使命は創造の御業において神のかたちに造られた人間に示された造り主である神さまのみこころです。それで、歴史と文化を造る使命は、少なくとも、歴史の終わりまでは廃棄されることはないものです。というより、結婚とは違って、歴史と文化を造る使命は新しい天と新しい地においても神のかたちに造られている人間に委ねられている使命であると考えられます。これに対して、モーセ律法に示されている「儀式律法」のいけにえに関する規定は、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後に、神さまが約束してくださった贖い主のお働き、すなわちご自身の民を罪と死の力から贖い出してくださるお働きを約束するとともに、その意味を説明するために与えられたものです。ですから、同じく「イエス・キリストにおいて成就している」と言っても、この二つ、すなわち、歴史と文化を造る使命の場合と「儀式律法」の規定の場合を同じように考えることはできません。この二つの違いと関係は、先ほどお話しした通りです。繰り返しますと、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業によって成就したとして廃棄されるのは、人間の罪による堕落によってもたらされた事態に対処するためのもので、古い契約の下でひな型として与えられたものだけです。神さまの創造の御業によって造り出されたものや定められたものは、少なくとも世の終わりの完成の時までは、廃棄されることはありません。それらは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業によって廃棄されるのではなく、本来の姿に回復され、完成されるべきものです。
 もう一つのことをより詳しくお話ししたいと思います。確かに、「儀式律法」の規定はそのまま私たちには当てはまりません。それで、たとえば、私たちは動物のいけにえをささげることはありません。けれども、「儀式律法」の規定が示している意味はイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業の中で生かされています。
 話を分かりやすくするために一つの例を挙げましょう。ヘブル人への手紙9章18節〜22節には、

したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

と記されています。
 ここでは出エジプト記24章1節〜11節に記されている、シナイ山の麓で主がイスラエルの民との間に契約を結んでくださった時のことが取り上げられています。(ここには本文上の難しい問題がありますが、いまお話ししていることとは直接的には関係していませんので、そのことは措いておきます。)その契約は全焼のいけにえと和解のいけにえの動物の血によって結ばれました。
 ここではこのことから、

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

という原則を明らかにしています。この原則は「それで、律法によれば」という言葉から分かりますように、モーセ律法の「儀式律法」を通して明らかにされているものです。そして、これは古い契約の下での原則であるだけでなく、新しい契約の下でも変わることのない原則です。
 この原則は神さまの聖さと義にかかわっています。神のかたちに造られている人間が犯すすべての罪は造り主である神さまに対する罪です。罪は無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに背くことです。それで、一つ一つの罪が永遠の刑罰に相当します。聖さと義において無限、永遠、不変であられる神さまは、すべての罪を完全に清算されます。罪を放置したままにすることによっては神さまの聖さと義が問われることになります。その罪の清算のためには、厳正なさばきに基づいて、いのちの血が流されることが必要となります。これが、ここで明らかにされている原則です。
 この原則を踏まえてのことですが、神さまは神のかたちに造られた人が罪を犯して御前に堕落してしまった直後に、ご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださるために贖い主を遣わしてくださることを約束してくださいました。これが「最初の福音」の御言葉です。そして、出エジプトの時代には、贖い主が成し遂げてくださる贖いの御業のさまざまな意味を明らかにしてくださるために、ひな型としての動物のいけにえを備えてくださいました。
 けれども、古い契約の下でひな型として用いられたいけにえの動物の血は、神のかたちに造られている人間の罪を贖うことはできません。動物と神のかたちに造られている人間の間には越えられない区別があります。ヘブル人への手紙10章1節〜4節には、

律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

と記されています。
 古い契約の下で動物のいけにえがささげられたことは、

すべてのものは血によってきよめられる

ということと、

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない

ことをあかししていました。さらに、そのようないけにえが繰り返しささげ続けられたことは、いけにえの動物によっては神のかたちに造られている人間の罪は贖われないことをあかししていました。
 これに対して、同じヘブル人への手紙10章の10節〜14節には、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。
 10節に記されている、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

という御言葉や、14節に記されている、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

という御言葉は、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪の贖いのためのいけにえとなってくださったことによって、私たちは「聖なるものとされ」、「永遠に全うされた」ということをあかししています。
 12節の、

キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き

という御言葉は、新改訳欄外にありますように、

キリストは、罪のために一つのいけにえをささげて後、永遠に神の右の座に着き

とも訳すことができます。「永遠の」という言葉が「いけにえ」にかかるか「神の右の座に着き」にかかるかの違いです。けれども、これは、その前の11節において、古い契約の下で祭司が繰り返しいけにえをささげたこと、それには人の罪を贖う効果がなかったことと対比されています。それで、これはイエス・キリストがささげられたいけにえが永遠に罪を贖い、罪をきよめる効果のあるものであることを示していると考えられます。
 ヘブル人への手紙では最初にイエス・キリストがどのようなお方であられるかが明らかにされています。1章2節後半〜3節には、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されています。「罪のきよめを成し遂げ」られた「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」であられます。そのような栄光の主が私たちの罪を贖ってくださるために私たちと同じようになられました。2章14節〜17節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

と記されています。
 このようにして、栄光の主が私たちと同じ人の性質において私たちと一つとなってくださり、私たちの身代わりとなって十字架にかかって私たちの罪に対するさばきを受けてくださいました。それで、私たちの罪は永遠に、また、完全に贖われています。それで、私たちは動物のいけにえをささげることはしないのです。これが、古い契約の下でささげられていた動物のいけにえはイエス・キリストにおいて成就しているので、「儀式律法」のいけにえに関する規定は廃棄されているということの事情です。
 けれどもこのことは、

 すべてのものは血によってきよめられる

という原則や、

 血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない

という原則を廃棄したということを意味してはいません。むしろ、その原則にのっとって、イエス・キリストがご自身をささげてくださったことによって、私たちの罪は贖われているということを意味しています。ですから、私たちが動物のいけにえをささげないのは、

 すべてのものは血によってきよめられる

という原則や、

 血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない

という原則が廃棄されたからではありません。その原則がイエス・キリストにおいてまっとうされ、満たされたからです。これが「イエス・キリストにおいて成就している」ということに他なりません。

  すべてのものは血によってきよめられる

という原則や、

 血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない

という原則は、新しい契約の下でも生きています。それで、私たちは罪を犯したときには、その都度、イエス・キリストの血による罪の贖いにあずかって、その罪を赦していただき、罪をきよめていただく必要があります。ヨハネの手紙第1・1章9節には、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と記されています。ここに約束されている罪の赦しときよめは、父なる神さまが御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いを私たちに当てはめてくださることによって実現します。ですから、これはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づく赦しであり、きよめです。
 今日は「イエス・キリストにおいて成就している」ということをどのように理解するかということをお話しして終ります。このような理解を踏まえて、最初の問題である、歴史と文化を造る使命と「大宣教命令」の関係については、このような理解を踏まえて、さらにお話ししたいと思います。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第89回)へ戻る

「主の祈り」
(第91回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church