(第89回)


説教日:2007年1月28日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第2の祈りは、

 御国が来ますように。

という祈りです。この祈りにおいて私たちは、神さまがご自身の御国すなわち神の国を来たらせてくださることをていねいな言い方で祈り求めます。神の国にはいくつかの意味合いがありますが、主の祈りの第2の祈りで私たちが祈り求めているのは、旧約聖書において約束されている贖い主であるイエス・キリストが王として治めておられる御国のことです。
 これまで、イエス・キリストが王として治めておられる神の国は、創世記1章27節、28節に記されている、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったこととつながっているということをお話ししてきました。長くなってしまいましたが、このことについてもう少しお話ししたいと思います。
 すでにお話ししましたように、神さまが神のかたちに造られている人間に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったということは、神さまが人間の働きを通して、ご自身がお造りになった世界を治められるということを意味しています。その意味で、ここには神の国があります。歴史と文化を造る使命とは、この意味での神の国の歴史と文化を造る使命です。
 人は造り主である神さまから委ねられた、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を神さまのみこころにしたがって遂行すべきものです。人はその使命の遂行を通して、神のかたちとしての自らの本質的な特性である愛を表現します。ですから、その使命を遂行することは、愛をもって自分に委ねられたものたちに仕えていくこと、それらのお世話をすることを意味しています。それによって、神のかたちとして人格的にも成長していきます。愛することを通して自らも愛において豊かになっていくのです。神さまはその歴史と文化を造る使命を人に任せ放しにしておられるのではなく、その使命を遂行する人とともにいてくださり、その働きを祝福してくださり、実りあるものとしてくださいます。
 本来は、そのようにして神の国の歴史が形成されていくはずでした。しかし、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことにより、このことは本来の形では実現しなくなってしまいました。神のかたちに造られている人間は罪の自己中心性に捉えられてしまい、造り主である神さまを神として愛することも、あがめることもなくなりました。その代わりに、自分たちの都合に合う神々を作り出して、逆にこれを神として拝み、仕えるようになってしまいました。また、お互いの間においても、愛が自己中心的に歪められたものとなってしまい、そこからさまざまな問題が生じてきました。そして、歴史と文化を造る使命において自分に委ねられているものたちに愛をもって仕えることがなくなってしまったばかりか、それらのものを搾取するようになってしまいました。そればかりでなく、その罪による堕落の結果、自分自身が罪と死の力に捕えられ、最終的な滅びへの道を歩んでいます。
 そのような中で、神さまは贖い主を約束してくださいました。それは、創世記3章15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である主の御言葉に示されています。これは人を罪へと誘った「蛇」の背後にあって働いているサタンに対するさばきの宣言です。そして、そのさばきは最終的に「女の子孫」のかしらとして来られる方が「おまえ」と呼ばれているサタンの頭を踏み砕く形で執行されると言われています。この「女の子孫」のかしらとして来られる方が贖い主です。この贖い主が約束されているので、これは「最初の福音」と呼ばれます。
 神である主はここで約束されている贖い主のお働きを通して、ご自身の民を罪と死の力から解放し、滅びの道から救い出してくださいました。しかし、それだけではありません。これをいまお話ししていることとのかかわりで見てみますと、この贖い主のお働きを通して贖い出されたご自身の民を、神のかたちに造られている人間に委ねられている歴史と文化を造る使命を果たし、神の国の歴史を造る者として回復してくださったのです。ここに約束されている「女の子孫」のかしらとして来られる方による贖いの御業には、このような神のかたちに造られている人間に委ねられている歴史と文化を造る使命の回復という広い意味があります。


 水曜日の祈祷会においては、創世記の学びをしています。その学びはもう25年ほどになりますが、中断したり、脇道に逸れたりしてしまい、いま取り上げているのは6章14節〜16節です。この個所から、いまお話ししていることと関連することをお話ししたいと思います。その前の11節、12節から見ていきましょう。そこには、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。
 ここには、ノアの時代の洪水前の世界の状況が記されていますが、「」(ハー・アーレツ)という言葉が4回出てきます。次の13節にも2回用いられていますの、ここでは「」に関心が向けられていることが分かります。

 地は、神の前に堕落し

と言われているときの「堕落する」という言葉(シャーハトの受動態に当たるニファル語幹)は、ものが腐ってしまうことや荒れ果ててしまうことを表します。そして、人が倫理的に腐敗することや堕落することを表すこともあります。新改訳が「堕落する」というように倫理的な意味で訳しているのは、「」はそのおもな住人である人間のことを表していると理解してのことでしょう。しかし、ここでは「」という言葉が繰り返されていますので、「」そのものに関心が注がれていると考えられます。それで、ここでは創造の御業において神さまが人の住み処として整えてくださり、神のかたちに造られている人間に委ねてくださった「」がさまざまな形で破壊され、荒廃させられてしまったことが示されていると考えられます。もちろん、その根底には、神のかたちに造られている人間自身の倫理的な腐敗と堕落があります。
 これに続いて、

 地は、暴虐で満ちていた。

と言われています。「暴虐」という言葉(ハーマース)は、広く罪の具体的な現れである暴力を示すものです。聖書の中の用例では、物理的な暴力だけでなく、言葉による暴力、暴虐に満ちている憎しみ、人を惑わすことに現れる理不尽な暴虐などをも表す言葉です。このようなことを積み上げますと、力ある者たちの横暴、いじめなどに見られる言葉の暴力、お年寄りに対する詐欺など、いま私たちが住んでいる社会の現実を映し出すような感じがします。ここではこの言葉は単数形ですが、これが洪水前の状況を描いていることから推測されるのは、この後お話ししますカインの子孫であるレメクとの関連で考えられる軍事的な力を背景とした暴虐です。実際には、それはあらゆる種類の暴虐を伴っていたと考えられます。
 天地創造の初めに神のかたちに造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命が委ねられた人が地に満ちたことによって、

 地は、暴虐で満ちていた。

と言われている事態になってしまったのです。これは、先ほどお話ししました、歴史と文化を造る使命の本来のあり方、神さまから委ねられたものたちに愛をもって仕え、そのお世話するということから、いかにかけ離れてしまっていることでしょうか。
 このように、ここでは、神のかたちに造られた人に委ねられた「」が造り主である神さまのみこころにしたがって治められ整えられたのではなく、かえって、荒廃しきってしまっている様子が記されています。その中心に人間の罪による堕落の極まりがありました。そのことの背景は、前もって、4章17節〜24節に記されているカインとその子孫の系図において示されています。この系図においては、カインからレメクに至るまでの流れは17節と18節の2つの節に記されているだけです。ところが、レメク自身に関する記事は19節〜24節の6つの節にわたって記されています。このことは、その系図の流れがレメクに至ったことを強調していることを意味しています。
 その19節〜24節には、

レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。さて、レメクはその妻たちに言った。
 「アダとツィラよ。私の声を聞け。
 レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。
 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。
 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。」

と記されています。
 ここでは、まず、レメクの家族の物質的な繁栄が記されています。特に注目に値するのは「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋」と言われているトバル・カインです。彼は農耕器具の鍛冶屋として、農耕文化の発達に寄与したというだけでなく、それ以上に、武具を製作する鍛冶屋としての才能を持っていたと推測されます。それによって、その父レメクは強大な権力を獲得して、その言葉に示されているような過剰な報復を豪語するようになったのであると考えられます。

 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。

というレメクの最後の言葉には、カインは神さまの保護を求めたけれども、自分にはそのようなものはいらないと言うだけでなく、神さまの保護を生ぬるいものとしてあざ笑うような響きがあります。
 このアダムからカインを経てレメクに至るいわゆる「カイン系の歴史」と同時並行しているのが、5章1節〜32節に記されているアダムからセツを経てノアに至るいわゆる「セツ系の歴史」です。よくカインの家系は不信仰の家系であり、セツの家系は信仰の家系であると言われることがあります。けれども、このような十把一からげの区分の仕方には問題があります。確かに、神である主への信仰はセツの家系においてノアにまで受け継がれました。けれども、4章26節に、

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と記されていることに照らしてみますと、1つのことが見えてきます。ここで「主の御名によって祈る」と言われていることは文字通りには新改訳欄外訳にありますように「主の御名を呼ぶ」ということです。具体的には、主ヤハウェを礼拝することを意味しています。このエノシュの生まれた時代に主ヤハウェを礼拝する人々が増え始めていることを見ることができます。しかし、ノアの時代に至るまでにヤハウェを礼拝する者は失われていって、最後にはノアとその家族だけが残るようになります。その意味では、セツ系の歴史も人々が主ヤハウェへの信仰を捨ててしまうに至る歴史です。その一方で、カイン系の歴史の中で、その流れに属する者たちの中から主ヤハウェを信じる者が1人も起らなかったというような断定もできません。
 先ほど引用しました6章11節、12節においては、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と言われていました。これは、4章19節〜26節に記されていたレメクの生き方に典型的に示されている暴力を頼みとする生き方にすべての人々が巻き込まれていってしまったということを意味しています。
 さらに、これより前の5節には、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されています。ここでは、人の状態について「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」と言われています。「みな」「いつも」「悪いことだけに」というように、人の罪が徹底化している様子が示されています。それを受けて6節、7節には、

それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

と記されています。これは、人の罪が徹底化して、行き着くところまで行き着いてしまったので、主がさばきを執行される決意をされたことを示しています。言い換えますと、人が罪の升目を満たしてしまい、神さまがそれ以上その状態を放置されるなら、神さまご自身の聖さが問われるという事態にまで至ってしまったということです。神さまは歴史の中でただ1度だけ、人間の罪が行き着くところまで行ってしまうことをお許しになりました。それがノアの時代の洪水前のことです。洪水後には、9章に記されている契約にしたがい、御霊の一般恩恵のお働きによって人間が罪の升目を満たしてしまうことがないようにしてくださっています。
 いまお話ししていることとのかかわりで注目すべきことは、このさばきには、人だけでなく「人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで」というように、人以外の生き物たちも含まれているということです。同じことは、17節に記されている、

わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。

という神さまがノアに語られた言葉にも示されています。
 もちろん、「家畜やはうもの、空の鳥」たちは人格的な存在ではなく、自由な意志がありませんので、罪を犯すということはありません。けれども、ここでは「家畜やはうもの、空の鳥」たちも人との一体において、さばきに服するものとされています。これは、天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに基づいていると考えられます。
 このように、ノアの時代に、人間の罪が徹底化して罪の升目を満たしてしまいました。それで、神さまは「人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで」を地の上から消し去る決心をされました。これは、神さまがそれまでの人類の歩み、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人間が造り出した歴史の総決算をされる時が来たことを意味しています。ノアの時代の洪水によるさばきは、世の終りに神さまがすべてのものを最終的におさばきになることをあかしする地上的なひな型です。
 実際、これは、先ほどの「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主の約束が実現しないことになってしまうかもしれない危機でした。もしここですべての人がさばかれて滅び去ったとしたら、贖い主の約束は実現しないことになってしまいます。ですから、これはまた、歴史と文化を造る使命の遂行がまったく挫折してしまうことになるかもしれない危機でもありました。さらに、そうなれば、神さまの創造の御業が完全に無に帰してしまうという危機でした。
 そのような罪の闇に閉ざされた状況の中にも希望の光が示されています。それは、8節に、

しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

と記されていることです。これは、一見するとノアの人となりのよさを示しているように見えます。もちろん、ノアの人となりは優れていたことでしょう。しかし、この御言葉の意味するところは別のところにあると思われます。これを直訳しますと、

しかし、ノアは主の目の中に恵みを見出していた。

となります。この言葉の中心は、ノア自身のよさというよりは、主の恵みに対するノアの信仰にあります。これと同じ言い方はモーセにも当てはめられています。出エジプト記33章12節〜16節には、モーセが、シナイ山の麓で金の子牛を作って背教してしまったイスラエルの民のためにとりなしの祈りをしたことが記されています。そのモーセのとりなしの祈りの中に、この言葉が繰り返し出てきます。引用はしませんが、そこで「心にかなう」と訳されている言葉がそれです。それはモーセが自分自身のよさのことを述べているのではなく、モーセが主の恵みに目を留めてそれに信頼していることを示しています。ノアについてもそれと同じように考えることができます。
 このように、主ヤハウェの恵みに支えられ、その恵みを頼みとしていたノアに、救いの手段が示されました。13節〜16節には、

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。

と記されています。
 ここには神さまが来たるべきさばきからの救いの手段として箱舟を備えてくださったことが記されています。その際に、神さまはその箱舟の設計も示してくださいました。これは、この後の18節、19節に、

しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。

と記されていますように、「すべての生き物」たちがノアとの一体において生き残るためのものでした。
 もし、私たちがその時代にいて、神さまが「洪水によるさばきを執行するから箱舟を造りなさい」と言われただけであったとしたら、その設計を示されなかったとしたらどうでしょうか。きっと自分たちのための箱舟は造りますが、すべての生き物たちをも保存するための箱舟は造らないことでしょう。どうしてかと言いますと、私たちが受け止めている神さまの救いについての理解が自分中心のものであって、創造の御業における神さまのみこころである歴史と文化を造る使命のことがほとんど視野に入っていないからです。
 しかし、終末に至るまでの歴史の中でただ1度だけ執行されたノアの時代における終末的なさばきと、そのさばきからの救いには、神のかたちに造られている人間に委ねられている歴史と文化を造る使命が深くかかわっていることが示されていました。それは、「女の子孫」のかしらとして来てくださった贖い主イエス・キリストの救いがどのようなものであるかのあかしでもあります。これまでお話ししてきましたように、新約聖書は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業には歴史と文化を造る使命の成就としての意味があることをあかししています。私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いの御業にあずかって罪と死の力から解放され、滅びの道から贖い出されています。そればかりでなく、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれた者とされ、歴史と文化を造る使命、神の国の歴史を造る使命を果たす者とされています。そして、その使命の遂行は、

 御国が来ますように。

という祈りを祈ることから始まり、その祈りとともに進められていきます。

 


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