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説教日:2007年1月21日 |
そして、7節には、 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。 と記されています。 私たちは、この御子のうちにあって と言われているときの「この御子」は関係代名詞で表されています。新改訳第3版はそれを生かして「この方」と訳しています。これは、その前の6節の、 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 という言葉に出てくる「愛する方」を指しています。言うまでもなく、この「愛する方」はイエス・キリストのことです。6節では、この「愛する方」という言葉は最後に出てきて強調されています。この言葉は、イエス・キリストは父なる神さまがこの上ない愛をもって愛しておられる方であるということを伝えています。父なる神さまは私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身がこの上ない愛をもって愛しておられる方を十字架につけられました。 このように、7節では、私たちは父なる神さまがこの上ない愛をもって愛しておられる方のうちにあること、そのゆえに私たちも父なる神さまの愛のうちにあること、そして、私たちがその方の血による贖いにあずかって罪を赦されていることが示されています。 そして、7節の最後において、 これは神の豊かな恵みによることです。 と言われています。この「神の豊かな恵み」は文字通りには「彼の恵みの豊かさ」で、7節だけを見ますとイエス・キリストの恵みとも取れますが、これに続く部分との関連で考えますと、父なる神さまの恵みのことを指していると考えられます。私たちはこの「豊かな恵み」によって、父なる神さまがこの上ない愛をもって愛しておられる方のうちにあり、その方の血による贖いにあずかって罪を赦されています。3節からの流れに沿って言いますと、そのようにして、私たちは父なる神さまの御前に「聖く、傷のない者」として立たせていただいており、父なる神さまの子とされているのです。 続く8節〜10節には、 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。 と記されています。 私たちが父なる神さまがこの上ない愛をもって愛しておられる方と一つに結び合わされて、その方のうちにあり、その方の血による贖いにあずかって罪を赦されていることは、父なる神さまの「豊かな恵み」によることです。もうこれ以上の恵みは考えられません。けれども、父なる神さまはその恵みをあふれさせてくださっています。そして、 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。 と言われています。 これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、このことは、父なる神さまが私たちを「ご自分の子」として愛していてくださることの現れです。父なる神さまは私たちを「ご自分の子」としてくださっているので「みこころの奥義」を私たちに知らせてくださったということです。 その「みこころの奥義」については、 それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。 と言われています。この部分は日本語にするのがかなり難しいもので、新改訳第2版は説明的な訳になっています。第3版は、より文字通りに訳し変えて、 それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。 としています。第2版の訳は全体で一つの文ですが、第3版では二つの文になっています。ちなみに、ギリシャ語の原文では、何と、3節〜14節全体が一つの文です。それと、いくつか語句の変更もあります。最初の それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、 という部分は、 それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、 となっていて、より文字通りの訳になっています。「この方にあって」の「この方」は先ほどの「愛する方」を受けています。 「時がついに満ちて」という訳は第2版も同じですが、ギリシャ語の原文で「時」が複数形であることを反映しています。この複数形の「時」は一つの特定の時ではなく、神さまのみこころによる導きの下に続いている期間のことで、それが最後には頂点に達することを意味しています。実際には、約束の贖い主であられるイエス・キリストが来てくださって、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業を成し遂げてくださったことによって始まった広い意味での「終りの時」のことを指しています。これは、すでにお話ししてきました、栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて治めてくださる時代のことです。 この「終りの時」における栄光のキリストの支配を通して実現することが父なる神さまの「みこころの奥義」に関することで、 いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。 と言われています。これは、「いっさいのものがキリストにあって」まったき調和のうちにあるようになり、同じ目的を実現するものとなるということです。空間的にいっさいのものがまったき調和のうちにあるようになり、歴史的に神さまの創造の御業の目的を実現するようになるということです。これは、イエス・キリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて実現してくださることです。イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にはそのような宇宙大の意味、造られたすべてのものに関わる意味があります。エペソ人への手紙と並行して記されたと考えられているコロサイ人への手紙の1章19節、20節には、 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と記されています。この、 御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった という部分は、第3版では、 御子によって万物を、御子のために和解させてくださった となっています。これはギリシャ語原文の文字通りの訳ですが、文法的には第2版の訳も可能です。どちらの訳においても、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業には宇宙大の意味があり、万物がその贖いの御業を通して、原理的に、神さまと和解させていただいているということは明確に示されています。 イエス・キリストはそのような、いっさいのものを神さまと和解させてくださる贖いの御業を成し遂げてくださいました。そして、それに基づいて、いっさいのものをまったき調和のうちにあって、同じ目的を実現するものとして治めてくださっています。そして、ご自身の再臨の日に造り主である神さまの充満な栄光のご臨在のある「新しい天と新しい地」として完成してくださいます。父なる神さまはこのような「みこころの奥義」を、ご自身の子としてくださった私たちに知らせてくださったのです。 これまでお話ししてきましたエペソ人への手紙1章20節〜23節に記されていますように、父なる神さまは、ご自身の十字架の死をもって贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストを死者の中からよみがえらせて、天上においてご自身の右の座に着座させてくださいました。このことによって、贖いの御業に基づく栄光のキリストの支配は始まっていることが示されています。そして、この栄光のキリストの支配が神の国の本質です。言い換えますと、父なる神さまが子である私たちに知らせてくださった「みこころの奥義」はすでに栄光のキリストにあって、また栄光のキリストによって実現しており、終りの日の栄光のキリストの再臨とともに完成することになっているのです。このことは、天地創造の初めに神さまが神のかたちにお造りになった人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命が栄光のキリストにおいて原理的に成就しており、実現し始めていること、栄光のキリストは再び来られてそれを完成してくださるということを意味しています。 私たちは、自分たちがこのような特性をもった「時」のうちに生きていることを、御言葉の光によってわきまえます。また、父なる神さまがただ恵みによってご自身の子としてくださった私たちに恵みを溢れさせてくださり「みこころの奥義」を知らせてくださったことの意味を重く受け止めます。それで、父なる神さまの「みこころの奥義」が栄光のキリストにあって、また栄光のキリストのお働きを通して実現することを祈り求めます。それが、 あなたの御国が来ますように。 という主の祈りの第2の祈りとなります。また、これは続く、 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 という第3の祈りともつながっています。 これとともに心に留めておきたいことですが、 いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。 という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することには順序があります。それは、ちょうど石を池に投げ込んだときに波紋が広がるように、その中心の出来事から宇宙全体に広がっていきます。その中心にある出来事は、永遠の神の御子であられる方、父なる神さまがこの上ない愛をもって愛しておられる方が、私たちのための贖い主としてきてくださったこと、十字架にかかって死んでくださったこと、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に着座されたことです。これらは今から2千年前にイエス・キリストにおいて起こった出来事です。そして、そのことの歴史における第1の現れ、先ほどのたとえで言いますと、最初の波紋の広がりは、キリストのからだとしての教会が建て上げられ、栄光のキリストご自身によって満たされていることです。つまり、23節で、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と言われていることが実現しているということです。 エペソ人への手紙ではこのようなことを踏まえて、キリストのからだである教会が建て上げられていくことの大切さが示されています。たとえば、4章11節〜16節には、 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。 と記されています。 ここには教会の成長のことが記されています。それは、これまでお話ししてきた父なる神さまの「みこころの奥義」の実現ということを離れては、根本的に大切なことを見失うことになります。この地上に、そしてこの歴史の流れの中に教会がキリストのからだとして存在していることは、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩がしるされていることのあかしです。これは、父なる神さまの「みこころの奥義」の完全な実現としての、終りの日における「新しい天と新しい地」の完成へとつながっています。その意味で、キリストのからだである教会は、 あなたの御国が来ますように。 という祈りとともに成長していくものです。 |
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