(第87回)


説教日:2007年1月14日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りについてのお話を続けます。
 この祈りは文字通りに訳しますと、

 あなたの御国が来ますように。

となります。この祈りの主題となっている「あなたの御国」すなわち神の国は、旧約聖書において約束されていた贖い主として来てくださったイエス・キリストが治めておられる御国のことを指しています。
 これまで、イエス・キリストが治めておられる神の国は、創世記1章27節、28節に記されている、神さまが人を神のかたちにお造りになって、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を委ねてくださったこととつながっているということをお話ししてきました。そして、先週と先々週は、このことがキリストのからだである教会とどのように関わっているかということをお話ししました。今日も、そのことをお話しいたします。
 まず、これまでお話ししたことを補足しながら復習します。繰り返しの引用になりますが、エペソ人への手紙1章20節〜23節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 イエス・キリストは、ご自身の民である私たちを罪と死の力から贖い出してくださるために十字架にかかって死なれました。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。それは、ご自身の復活のいのちによって私たちを新しく生かしてくださるためでした。このように、イエス・キリストは父なる神さまから委ねられた贖いの御業を成し遂げられ、そのことへの報いとして栄光を受けてよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されました。父なる神さまの右の座に着座されたということは、その当時の発想では、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられた権威をもって、いっさいのものを治めるようになられたということを意味しています。
 イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことは、詩篇110篇1節に、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることの成就です。それで、エペソ人への手紙1章21節に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は詩篇110篇1節で「あなたの敵」と言われている存在、すなわち、贖い主に敵対している暗やみの主権者たちを指しています。神の国は贖い主であられるイエス・キリストが治めておられることを意味しています。同じように、イエス・キリストに敵対する暗やみの主権者たちが治めている国もあります。イエス・キリストはすでに「すべての支配、権威、権力、主権」に勝利しておられます。
 さらに、21節では、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われています。この場合の「置かれました」は補足で原文にはありません。直訳調に訳せば、

すべての支配、権威、権力、主権、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名のはるか上に

となります。つまり、これはイエス・キリストが着座された父なる神さまの右の座の高さを示しています。「すべての支配、権威、権力、主権」は暗やみの主権者たちですが、「今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名」はそれとは区別されるさまざまな主権者を指しています。ですから、この言葉は父なる神さまから委ねられたイエス・キリストの主権が暗やみの主権者たちも含めて、あらゆる主権のはるか上にあることを示しています。
 すでにお話ししましたように、「神の国」というときの「国」は領土のことではなく、「王が支配すること」やその「主権の行使」を意味していました。そして、神の国は贖い主として来られたイエス・キリストが王として支配されることにあります。今や、そのイエス・キリストの主権の座は父なる神さまの右の座であり、その主権は、

すべての支配、権威、権力、主権、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名のはるか上に

ある主権です。栄光のキリストがこのような主権をもって治めておられることが、私たちが主の祈りの第2の祈りで祈り求めている「神の国」の実体です。私たちは栄光のキリストの恵みに満ちた主権があらゆるもののうえに、完全な意味で及ぶようになることを祈り求めています。


 また、22節前半では、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と言われています。この言葉は文字通りには「いっさいのものを彼の足の下に従わせ」です。もちろんこの場合の「彼の足の下に」は新改訳の訳文の通り「キリストの足の下に」という意味です。これは、詩篇8篇5節、6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることの成就です。それは、天地創造の初めに神さまが神のかたちにお造りになった人に委ねてくださった

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命がイエス・キリストによって、原理的に成就し、実現し始めていることを意味しています。
 さらに、22節後半では、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と言われていました。父なる神さまは、いっさいのものをその足の下に従わせておられ「いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」そして、23節では、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われています。「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストのことです。22節では、栄光のキリストはいっさいのものをその足の下に従わせておられ「いっさいのものの上に立つかしらである」と言われていました。栄光のキリストは「いっさいのものの上に立つかしら」として、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」であられます。これは、「いっさいのものをその足の下に従わせておられる」という言葉に対して私たちがもつイメージとは異なっています。栄光のキリストはいっさいのものをご自身に仕えさせておられるのではなく、ご自身がいっさいのものをあらゆる面から満たしてくださっているのです。そして、教会はこの栄光のキリストのからだであり、栄光のキリストご自身によって満たされていると言われています。
 先週お話ししましたように、ここに記されているすべてのことが、この、「いっさいのものの上に立つかしら」として、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」であられる栄光のキリストがご自身のからだである教会を満たしてくださっていることへと向かって進んできています。父なる神さまがイエス・キリストを死者の中からよみがえらせて、ご自身の右の座に着座させてくださったことも、暗やみの力を栄光のキリストの足台としてくださっていることも、いっさいのものを栄光のキリストの足の下に従わせてくださっていることも、すべて、栄光のキリストのからだである教会が、栄光のキリストご自身によって満たされることへとつながっていたのです。そして、先週は、これによって神さまの安息がまったきものとして完成するという創造の御業の目的が実現するということをお話ししました。
 このことを、エペソ人への手紙1章〜2章の文脈で見てみましょう。すでにお話ししたことですが、教会が栄光のキリストのからだとして、栄光のキリストご自身によって満たされていることは、キリストのからだである教会とかしらであられる栄光のキリストとの一体性、いのちにある結びつきを意味しています。そして、このこと、キリストのからだである教会とかしらであられる栄光のキリストが一つに結び合わされていることは、1章3章〜5節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されていることが私たちの現実となっていることを意味しています。
 3節においては、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と言われています。ここでは、父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったと言われています。そして、これは「キリストにおいて」(エン・クリストー「キリストにあって」)のことであると言われています。この「キリストにおいて」、「キリストにあって」という言葉は最後に置かれていて強調されています。この言葉はキリストの仲保者としてのお働きによってというような意味にも取れますが、それをさらに越えて、「キリストのうちにあって」ということ、すなわち、「キリストと一体に結び合わされて」ということをも表されていると考えられます。それは、新改訳が4節を、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

と訳しているときの「キリストのうちに」(エン・アウトー「彼にあって」)と訳されている言葉が表していることです。つまり、私たちはイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストのうちにある者とされて、「天にあるすべての霊的祝福をもって」祝福されているのです。
 ここで「天にあるすべての霊的祝福」と言われていますが、この「天にある」ということは「天的な」というような意味ですが、これまでお話ししてきました、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストとの関連で考えられるものです。私たちにとっての祝福をイエス・キリストを離れて考えることはできません。そして、そのイエス・キリストが天におられるので、私たちの受ける祝福も天的なものであるのです。20節では、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

と言われていました。この「天上において」という言葉と3節の「天にあるすべての霊的祝福」の「天にある」という言葉は同じ言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)です。また、「天にあるすべての霊的祝福」の「霊的」ということは、「御霊による」ということを意味しています。私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださるのは御霊です。ですから、私たちは御霊のお働きによってイエス・キリストと一つに結び合わされて、「天にあるすべての霊的祝福」にあずかるようにされているのです。
 そして、このことを受けて4節、5節では、父なる神さまの永遠のみこころにおいて、私たちはイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストのうちにある者とされて「御前で聖く、傷のない者」となるように選ばれ、イエス・キリストを通して父なる神さまの子どもとされるように定められていると言われています。
 繰り返しますが、これは神さまの永遠のみこころ、永遠の聖定におけることです。そして、先ほど引用しました20節〜23節に記されている御言葉において、このことが私たちの現実となっていると記されています。
 栄光のキリストは、「いっさいのものの上に立つかしら」として「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」であられます。その意味で、栄光のキリストはいっさいのものの祝福の源であり、あらゆる祝福の源です。その栄光のキリストご自身によって満たされることが、キリストのからだである教会の祝福の中心であり、土台であるのです。私たちは、御霊のお働きによってこの栄光のキリストと一つに結び合わされている者として、「御前で聖く、傷のない者」とされており、父なる神さまの子どもとされています。これが「天にあるすべての霊的祝福」の具体的な現れです。そして、このことに伴うさまざまな祝福にあずかっています。今ことで、父なる神さまのご臨在の御前における礼拝にあずかっていることも、その祝福の現れです。
 さらに、2章4節〜6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 5節では、「罪過の中に死んでいた」私たちは「キリストとともに生か」されたと言われています。これは、「ともに生かす」という言葉(スゾーオポイエオー)と「キリストと」(トー・クリストー)という言葉の組み合わせによって、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされて生かされていることが示されています。さらに6節でも、最後に置かれて強調されている「キリスト・イエスにおいて」(エン・クリストー・イエースー「キリスト・イエスにあって」)という言葉と、「ともによみがえらせる」(スネゲイロー)と「ともに座らせる」(スンカシゾー)という言葉の組み合わせがあります。これによって、私たちが父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストと一つに結び合わされていることが、この上なく明確に示されています。そして、このすべてが父なる神さまの愛から出ている恵みによっていることが強調されています。
 これは、先ほどの1章20節に記されています、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

ということに、私たちがあずかっているということを意味しています。
1章では、これに続いて21節で、

すべての支配、権威、権力、主権、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名のはるか上に(置かれました。)

と言われていました。
 当然、私たちはこのことにもあずかっています。先ほど引用しました2章4節〜6節に先だって、1節〜3節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。ここでは、かつての私たち、すなわち、イエス・キリストと一つに結び合わされていなかった時の私たち、生まれながらの私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であり、

空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました

と言われています。暗やみの主権の力に縛られ、それに支配されて歩んでいたということです。このことを受けて、4節〜6節では、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われています。ですから、父なる神さまの愛から出た恵みによってイエス・キリストと一つに結び合わされた私たちは、イエス・キリストが、

すべての支配、権威、権力、主権、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名のはるか上に

ある父なる神さまの右の座に着座しておられることにあずかって、それらの暗やみの主権者たちの力から解放されているのです。
 そればかりではありません。私たちはイエス・キリストと一つに結び合わされている者として、イエス・キリストとともによみがえり、イエス・キリストとともに天のところに座する者としていただいています。これは、すでに1章22節に記されていることとの関連でお話ししました、栄光のキリストが、詩篇8篇5節、6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることを成就しておられるということと深く関わっています。つまり、御霊のお働きによって栄光のキリストと一つに結び合わされている私たちが、イエス・キリストとともによみがえり、イエス・キリストとともに天のところに座するようになったことによって、私たちも詩篇8篇5節、6節に記されていることを成就する立場に置かれているということです。
 このように、天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことは空しく終ってはいません。歴史と文化を造る使命は、今や、栄光のキリストにおいて原理的に成就し、実現し始めています。このようにして、御霊によってイエス・キリストと結び合わされて、イエス・キリストとともによみがえり、イエス・キリストとともに天のところに座するようになった私たちにおいて、歴史と文化を造る使命を遂行することが回復されているのです。ですから、エペソ人への手紙2章8節〜10節において、

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

と言われているときの「良い行ない」は、栄光のキリストによって原理的に成就している歴史と文化を造る使命との関わりで理解しなければなりません。このことを離れて、一般的な意味で「いいことをする」というような意味で理解するだけでは十分ではありません。「良い行ない」とは、御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに天のところに座する者とされている私たちが、イエス・キリストにおいて原理的に成就している歴史と文化を造る使命を遂行することに他なりません。この歴史と文化を造る使命の遂行は、

すべての支配、権威、権力、主権、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名のはるか上に

ある父なる神さまの右の座に着座しておられ栄光のキリストが、御霊のお働きにより、私たちを通して成し遂げてくださることです。それは、ごく日常的な飲むことや食べることにおいて、すでに現実となります。見た目では、飲む行為であり食べる行為であることに違いはありません。けれども、私たちはそれが造り主である神さまの恵みと祝福によることであることをわきまえて飲んだり食べたりします。さらには、家庭や職場においてさまざまな社会的な責任を果たすことにおいて、そのすべてを神さまの恵みの賜物によることとしてわきまえ、御言葉と御霊による神さまのお導きに信頼してそれに当たることにも現れてきます。そして、そのように、栄光のキリストが私たちの生活のあらゆる面を御言葉と御霊によって治めてくださることに、神の国の現れがあります。

 


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