(第86回)


説教日:2007年1月7日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、

 御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りについてお話しします。
 この第2の祈りを文字通りに訳しますと、

 あなたの御国が来ますように。

となります。この祈りは、神さまが神の国を来たらせてくださることを、ていねいな形で祈り求めるものです。そして、この場合の神の国は、旧約聖書において約束されている贖い主であられるイエス・キリストが、御霊により、贖いの恵みをもって治めてくださる御国を指しています。
 これまで、イエス・キリストが治めておられる神の国は、創世記1章27節、28節に記されている、神さまが人を神のかたちにお造りになって、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を委ねてくださったこととつながっているということをお話ししてきました。そして、先週は、このことがキリストのからだである教会とどのように関わっているかということについてお話ししました。今日も、そのことをさらにお話ししたいと思います。
 エペソ人への手紙1章20節〜23節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 メシヤであられるイエス・キリストは、十字架にかかって死なれ、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。そのようにして、ご自身に委ねられた贖いの御業を成し遂げられ、父なる神さまの右の座に着座されました。その当時の発想では、王の右の座に着座することは、王の名により、王から委託された実権を振るうことを意味していました。ですから、20節で、父なる神さまが栄光のキリストをご自身の右の座に着座させてくださったと言われていることは、栄光のキリストが父なる神さまから委ねられた権威をもっていっさいのものを治めるようになられたということを意味しています。このことは、神の国の歴史が新しい段階に入ったことを意味しています。栄光のキリストが、すでに成し遂げられた贖いの御業に基づく恵みをもって治められる神の国が成立しているということです。
 また、このことは、詩篇110篇1節に、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることの成就です。それで、エペソ人への手紙1章21節に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は詩篇110篇1節で「あなたの敵」と言われている存在を指しています。

 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは

という詩篇110篇1節の御言葉は、「・・・とするまでは」というように、それが完全に実現するまでの期間があることを示しています。その完全な実現は霊的な戦いの最終的な決着を意味していますから、終りの日においてであることを示しています。この御言葉との関わりで言いますと、贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストは栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座されたことにより、「すべての支配、権威、権力、主権」などの暗やみの力に勝利しておられます。けれども、これは、第2次世界大戦で言えば「Dデイ」すなわちノルマンディ上陸作戦が決行された日に当たるものです。日本の歴史で言えば「関ヶ原の合戦」に当たるものです。そこでの戦いが全体の勝敗を決しているのですが、それで戦いが終わっているわけではありません。さらにいくつかの戦いがあって最終的な勝利の日である「Vデイ」を迎えます。霊的な戦いにおいては「Dデイ」はすでに2千年前に終っており、終りの日すなわち「Vデイ」における栄光のキリストの再臨を迎えるまでになっています。
 この意味で、この「Dデイ」における勝利は、先週お話しした「原理的な成就」に当たります。「原理的な成就」は、そのことが実現するために必要なことはすべて成し遂げられ、その条件が整っているとともに、すでに、その実現が始まっているということとともに、いまだ、その完成、完全な実現には至っていないということです。そこには、成就に関して「すでに」と「いまだ」の両面があります。
          *
 このことが黙示録12章1節〜9節に、

 また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されています。
 ここには2つの「しるし」が天に現れたことが記されています。1つは「ひとりの女」であり、もう1つは「大きな赤い竜」です。
 「ひとりの女」は文字通りには「」ですが、単数で表されていますので「ひとりの女」と訳されています。この「」は「男の子」を産みます。5節に、

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。

と記されていますように、この「男の子」は約束のメシヤで、栄光をお受けになって父なる神さまの右の座に引き上げられます。

この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである

という言葉は詩篇2篇9節に、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と記されていることの成就です。このメシヤを生み出す「」はイスラエルの民を表していると考えられます。この「」と結びつけられている「太陽」「」「」も旧約聖書やユダヤ教黙示文学などでイスラエルの民と関連づけられています。同時に、この「」はメシヤが栄光をお受けになった後にも存在しています。また、1章20節などでは「」は教会と関連づけられています。それで、ここに記されている「」は、旧約聖書から続いている主の契約の民のことを表していると考えられます。
 「大きな赤い竜」のことは、9節で、

この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇

と説明されています。これが「赤い」と言われているのは、殺戮を連想させるからです。血に染まったという感じです。それはただ単に迫害などを通しての身体的な殺戮だけでなく、人を罪に誘い、死と滅びをもたらしたこと、さらには、偽りをもって福音の真理を阻む働きによって、永遠の滅びに至らせるという、より深刻な殺戮も含みます。この「大きな赤い竜」は「」が産んだ「男の子」が父なる神さまの右の座に引き上げられた後、霊的な戦いに破れて天から投げ落とされました。これが、先ほどの「Dデイ」の出来事です。これによって、創世記3章15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「蛇」へのさばきの言葉において示されている「最初の福音」の約束が、原理的に、成就していることが示されています。
 ここに記されている2つの「しるし」を説明する言葉に注目しますと、12章1節には、

また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。

と記されていました。この主の契約の民を表象していると考えられる「」の現れは「巨大なしるし」(セーメイオン・メガ「大いなるしるし」)と呼ばれています。これに対して、3節には、

また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。

と記されています。「大きな赤い竜」の現れは「別のしるし」と言われていて、これは「大いなるしるし」とは言われていません。私たちのイメージからしますとこれは意外なことです。「大きな赤い竜」の現れの方が「大いなるしるし」であり、「」の現れは普通のしるしのような感じがします。しかし、天に現れるしるしとしての重さから言いますと「」の現れの方が重要な意味をもっているのです。そして、この「」の現れの大切さは、ここに記されていますように、彼女が約束の贖い主である「男の子」を産むことに関わっています。そうであるからこそ、「大きな赤い竜」は「男の子」を食い尽くそうとしていたのです。
          *
 このように、神さまの創造の御業の目的の実現をめぐる霊的な戦いにおきましては「女の子孫」のかしらである贖い主の出現と、この方との一体にある主の民、すなわち、キリストのからだである教会の出現が決定的な意味をもっています。エペソ人への手紙1章に戻りますと、十字架の死をもってご自身の民のための贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストは、その霊的な戦いに勝利しておられます。そればかりでなく、22節前半には、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ(られた)

と記されています。これは、詩篇8篇6節に、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることの成就を示しています。そして、これは、先週お話ししましたように、天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが、栄光のキリストにおいて原理的に成就していることを示しています。
 このことを踏まえて22節、23節を見てみますと、そこには、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 ここでは栄光のキリストは「いっさいのものの上に立つかしらである」と言われています。そうしますと、その「いっさいのものの上に立つかしらである」キリストの「からだ」は、「いっさいのもの」であるような気がします。しかし、そうではなく、ここでは、それは「教会」であると言われています。
 また、「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」は「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」であるとも言われています。イエス・キリストは「あらゆるものをあらゆる面から、あらゆる点で満たす方」であるのです。「いっさいのものをいっさいのものによって満たす」ということは完全な満たしであると言うことができます。けれども、それ以上の満たしがあるのです。それは、キリストのからだである教会が栄光のキリストご自身によって満たさるということです。「いっさいのものをいっさいのものによって満たす」ということは、必ずしも、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」ご自身によって満たされるということではありません。しかし、教会は「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」ご自身によって満たされています。
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 このことの意味を考えるために、天地創造の御業の目的について再確認しておきたいと思います。
 すでにお話ししたことの復習になりますが、神さまは天地創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。それはただ単に時間的な経過がある世界をお造りになったということではありません。目的に至る世界として造られているということです。神さまは天地創造の第1日から第6日までの御業によってこの世界のすべてのものをお造りになりました。しかし、創造の御業はそこで終っていません。創世記2章1節〜3節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。天地創造の御業は第6日までの御業で終っているのではありません。第7日目を祝福し、聖別してくださって初めて創造の御業は終ったのです。

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。

と訳されている部分は、直訳では、

それで神は、第七日目に、なさっていたわざを完成された。

となります。ここには「告げる」という言葉はありません。この「・・・を完成する」という言葉が強調語幹で、それに「そのことを宣言する」という意味合いもあり得ますので、新改訳は「完成を告げられた」と訳しているわけです。それは、第6日に創造の御業は終っているという理解の上に立っています。確かに、何かを造り出すという意味での御業は6日目までに終っています。けれども、より広い意味では、神さまが第7日になさったことも創造の御業に含まれます。神さまが天地創造の第7日を祝福し、聖別してくださって初めて、天地創造の御業は終ったということができるということです。造り主である神さまの祝福と聖別にあずかることなしに創造の御業によって造られたこの世界が完成することはなかったのです。そして、このように、造り主である神さまが祝福し、聖別してくださった第7日が、この世界の歴史です。
 このような全体的な枠組みの中で、神さまは人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。人は造り主である神さまが祝福し、聖別してくださった天地創造の第7日にあって歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。そして、その目的は造り主である神さまご自身の安息の完成です。
 神さまの安息の完成は、神のかたちに造られている人間がその従順に対する報いとして充満な栄光を受けて、神さまとの永遠のいのちにある交わりにあずかるようになることによって実現します。このような充満な栄光にあっての神さまとの愛にある交わりが永遠のいのちの本質です。神のかたちに造られている人を栄光あるものとしてくださり、永遠のいのちにあってご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださることをもって、神さまが天地創造の第7日を祝福し、聖別してくださったことの意味が満たされ、神さまの安息が完成します。これが、天地創造の御業の目的の中心にあることです。
 このような永遠のいのちにある交わりが実現するためには、神さまが恵みに満ちた栄光においてご自身の民の間にご臨在してくださらなければなりません。そのような神さまの恵みに満ちた栄光が充満な形でご臨在する世界が、黙示録21章、22章で「新しい天と新しい地」として示されています。ですから、歴史と文化を造る使命はまた、「新しい天と新しい地」に至る歴史を造る使命でもあります。神のかたちに造られている人間はこの目的の実現のために歴史と文化を造る使命を委ねられました。
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 人が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによって、人は神さまとの愛の交わりを失ってしまいました。それにより、歴史と文化を造る使命を果たす者がいなくなってしまいました。それによって、造り主である神さまの安息の完成という創造の御業の目的が実現しなくなってしまったかに見えました。しかし、エペソ人への手紙1章22節、23節に記されていますように、まことの人の性質を取って来てくださって、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通され、その報いとしての栄光をお受けになった御子によって、歴史と文化を造る使命は成就しています。それは、22節で、

神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ

と言われていることだけでなく、続いて、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われていることも含めることにおいて実現しています。教会が栄光のキリストのからだとして建てられ、栄光のキリストご自身によって満たされるということは、キリストのからだである教会とかしらであるキリストとが完全な意味で1つに結び合わされ、その交わりがこの上なく深められることを意味しています。
 先週お話ししたことですが、4節、5節に記されていますように、父なる神さまは、私たちをキリストにあって、すなわち、私たちを御子イエス・キリストとまったく1つに結び合わせてくださって、ご自分の子としてくださるよう永遠の前から定めてくださっておられました。ここでは、そのことが実現していることが示されています。
 このことこそが、造り主である神さまの安息の完成の中心にあることです。
 アウグスティヌスは、その告白の冒頭部分において、

あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。

と告白しています。まことに大胆な言い方ですが、神さまの側からも同じことが言えます。神さまも私たちご自身の民をまったくご自身のものとしてくださるまでは、ご自身の安息が完成したとされないということです。
 父なる神さまは、その全能の御力を働かせてイエス・キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着座させてくださいました。そして、暗やみの主権者たちをその権威の下においてくださり、万物をその足の下に従わせられました。しかし、それで終ってはいません。父なる神さまは、この万物のかしらであられる栄光のキリストを教会にお与えになったのです。そして、あらゆるものをあらゆる点で満たしておられる栄光のキリストが、ご自身のからだである教会を満たしてくださるようにしてくださいました。それによって、かしらであられるキリストとそのからだである教会が1つに結び合わされ、教会が栄光のキリストの恵みに満たされ、栄光のキリストのいのちによって生かされるようになっています。
 このような流れを見ますと、すべてはこのこと、教会が栄光のキリストの恵みに満たされ、栄光のキリストのいのちによって生かされるようになることに向けて流れてきていると言うことができます。父なる神さまが全能の御力を働かせてイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださったことも、天上においてご自分の右の座に着座させて、暗やみの主権者たちをその権威の下においてくださったことも、万物を栄光のキリストの足の下に従わせられたことも、すべて、栄光のキリストご自身を教会に与えてくださること、教会が栄光のキリストの恵みに満たされ、栄光のキリストのいのち、永遠のいのちによって生かされるようになることへとつながっていたのです。そして、このことを実現し、完成してくださって初めて、天地創造の第7日を祝福し、聖別してくださった父なる神さまの安息は完成すると言うことができます。

 あなたの御国が来ますように。

という主の祈りの第2の祈りは、この神さまの安息の完成を祈り求めるものでもあります。

 


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